仮序章
『三国志・魏志』東夷伝・倭人に曰く「その風俗は淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑緜を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」
『後漢書』東夷伝・倭にも「牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と.『政治要略』には「応神天皇の御世,百済進牛馬自此而後倭国有牛馬」と記す.尾張熱田の貝塚,鹿児島出水貝塚出土の馬歯骨は後世のもの也.縄文の馬は理化学的年代測定より中世のものと同定.
『和漢三才図会』に牛馬の伝来は五三五年とある.仏教公伝前後の事になる.しかし,実際には五世紀の中期古墳から甲冑・馬具が出土しているから,馬の伝来はこの頃であろうと推察される.『好太王碑文』に三九一年倭軍百済と新羅を破るとあり,四〇〇年高句麗と交戦,新羅より敗退するから,この頃に朝鮮半島から持ち込まれたとするのが,最も合理的である.
この頃に持ち込まれた馬は和名が無いからそのままの韻と漢字を充てた.マと馬である.『万葉集』では馬をマと詠んでいる.胡・北方民族匈奴の馬が駒で,ウマはムマで武馬である.この当時,倭の国に居た獣はゐのしし(猪)とかのしし(鹿)で,ししとは肉,食用の意である.
牛馬の療治に関わった者の歴史
牛に膽あり.鹿馬これを欠く.足らぬ故にこれを馬鹿と呼ぶ.牛膽に玉のやうなるものあり.名付けて牛黄.神農本草経に驚癇寒熱,熱盛狂痙を治し,邪を除き鬼を逐うと.また,左経記に河原者の獲りたる牛の珠の事あり.牛黄を獲るは秘伝にして他言無用の秘事なり.以て秘すべし.秘すべし.ヲンロケンジンバラキリクソワカ.
2009年11月8日日曜日
2009年11月6日金曜日
本潅順は本潅頂
長陽幕下・村井句聴子書写馬療治書に題箋書名「本潅順」がある.書の中の書名は「本潅頂」.言葉の由来は額に水を潅ぐ密教の儀式.合格証書のようなもの.馬と仏教は何の関係もなさそうに見えるが,『馬経大全』を持ち帰った僧は弘法太子こと空海.わが国密教の祖で漢土で印度僧に真言佛経を学んでいる.もう一箇所密教が伝わった所はチベット.ここでは馬は風の馬.谷から吹く風に乗って幸せを運ぶ.五色の旗のはためくタルチョーやルンタの世界.古墳時代に海を渡って来たモンゴル系の馬とは,まさにこのチベット密教の文化を持った馬だったのである.南船北馬,北の馬の療治術は司牧安驥集として古代仏教とともに大陸より伝わり,仮名安驥集として伝えられている.わが国に馬療治の書が伝わるのは三度で,最初が古墳時代,次が弘法太子の時,最後が近世の徳川吉宗の頃.明治は既に西洋の馬になっている.これらの事を確認するために本潅頂に記される病名を「日葡辞典」で調べて見た.全て記載がある.本潅頂の内容は近世以前に作られた事は明らかである.
2009年11月4日水曜日
『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉
1603年 日本イエズス会刊 『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉
Yetta ゑった 色々な仕事の中でも死んだ馬や牛の皮を剥ぎ,その皮で様々な物を作るのを職とする身分の卑しい人々.Yeta 同じ
Yedo 穢土 穢れたる国 娑婆世界 現世
Cottoi 特牛去勢してない牡牛.または純血種の牛
Facro 伯労 百舌鳥
Bacro 博労 馬の仲買人,すなわち馬の売り買いにたずさわる人
●Facuracu 伯楽 家畜の病気をなおす人
Bocuguiu 牧牛 すなわちMaqino vxi
Bocudo 牧童 Vxicai varaua
Bocuji 牧士 牛やその他の家畜の牧人
Bocuyo 牧羊 羊飼うこと,または羊飼
Boguiu 牡牛 Cotoino Vxi
Cauaguinu 革衣
Cauago 皮籠 日本で作るある形の皮製の籠
Cauagoromo 皮衣
Cauaqiri 針灸療治の始め
Cauatabi 革単皮 革製のTabis
Cauaya 皮屋 帯皮製造人の家.Tabis 造りの家
Cauaya 皮屋 死んだ獣や牛の皮を剥いで皮籠を作ることを業とする人 Cauaranomono
Cauabacama 革袴
Itamegaua 撓皮 まだ鞣していない皮で毛はないが強くて固いもの.皮籠の皮など
Cauaranomono 河原の者 皮屋に同じ.死んだ獣の皮を剥ぐ者であり,また,癩病やみの者に対する監督権を持つ者
Guiu 牛馬 牛家 牛面 牛肉 牛頭 牛羊 Guiuに雄牝の区別なし
Qegare 穢れ 汚れ 不潔 穢れ,るる,れたは血と悪口の穢れ.穢し,す,いたは名を穢す.
Qe 普通の 日常のもの 複合語以外には用いられない.気は気配の気
Qetba 結馬 大便をし兼ぬる馬
Saumauaxi 猿回し
Sarunamexi 猿の鞣革
Chori 長吏 他の人が認めている頭.ゑった 河原の者の頭
Chaxen 茶筅 身分の記載なし.宮番・番太も.番はあり.
フランシスコ・シャヴィエルは1549年から日本で布教活動を開始.当時の宣教師には聴罪師と説教師があった.『日葡辞典』は宣教師の語学学習の為に1580年頃から長崎のセミナリオ,コレジオで編纂が始まり,1590年に発明された印刷術によって刊行された.1603年は徳川家康が征夷大将軍になった年で,中世と近世の境目の時である.
Yetta ゑった 色々な仕事の中でも死んだ馬や牛の皮を剥ぎ,その皮で様々な物を作るのを職とする身分の卑しい人々.Yeta 同じ
Yedo 穢土 穢れたる国 娑婆世界 現世
Cottoi 特牛去勢してない牡牛.または純血種の牛
Facro 伯労 百舌鳥
Bacro 博労 馬の仲買人,すなわち馬の売り買いにたずさわる人
●Facuracu 伯楽 家畜の病気をなおす人
Bocuguiu 牧牛 すなわちMaqino vxi
Bocudo 牧童 Vxicai varaua
Bocuji 牧士 牛やその他の家畜の牧人
Bocuyo 牧羊 羊飼うこと,または羊飼
Boguiu 牡牛 Cotoino Vxi
Cauaguinu 革衣
Cauago 皮籠 日本で作るある形の皮製の籠
Cauagoromo 皮衣
Cauaqiri 針灸療治の始め
Cauatabi 革単皮 革製のTabis
Cauaya 皮屋 帯皮製造人の家.Tabis 造りの家
Cauaya 皮屋 死んだ獣や牛の皮を剥いで皮籠を作ることを業とする人 Cauaranomono
Cauabacama 革袴
Itamegaua 撓皮 まだ鞣していない皮で毛はないが強くて固いもの.皮籠の皮など
Cauaranomono 河原の者 皮屋に同じ.死んだ獣の皮を剥ぐ者であり,また,癩病やみの者に対する監督権を持つ者
Guiu 牛馬 牛家 牛面 牛肉 牛頭 牛羊 Guiuに雄牝の区別なし
Qegare 穢れ 汚れ 不潔 穢れ,るる,れたは血と悪口の穢れ.穢し,す,いたは名を穢す.
Qe 普通の 日常のもの 複合語以外には用いられない.気は気配の気
Qetba 結馬 大便をし兼ぬる馬
Saumauaxi 猿回し
Sarunamexi 猿の鞣革
Chori 長吏 他の人が認めている頭.ゑった 河原の者の頭
Chaxen 茶筅 身分の記載なし.宮番・番太も.番はあり.
フランシスコ・シャヴィエルは1549年から日本で布教活動を開始.当時の宣教師には聴罪師と説教師があった.『日葡辞典』は宣教師の語学学習の為に1580年頃から長崎のセミナリオ,コレジオで編纂が始まり,1590年に発明された印刷術によって刊行された.1603年は徳川家康が征夷大将軍になった年で,中世と近世の境目の時である.
2009年10月8日木曜日
穢多身分廃止と勧業局
太政官布告明治四年三月十九日 従来斃牛馬有之節ハ穢多江相渡来候処,自今牛馬者勿論,外獣たりとも総而持主之もの勝手ニ所置可致事.
明治四年八月二十八日 穢多非人称非廃候条.自今身分職業共平民同様たるべき事.
明治四年十月二十六日 旧穢多・非人苗字許可
明治四年民部省伺書 民部省ヨリ,従来エタノ輩ヲ平民ニ伍セザルノ失当ナル儀ヲ弁官ニ呈シ先ツ穢多非人等ノ称ヲ廃シ,且ツ之ニ産業ヲ授ケンガ為勧業局ヲ東京大阪ノ両府ニ開設シ該民ヲ入局セシムルコト各二ヶ年間,外国人ヲシテ製革造靴ノ方法,牛酪.薫肉ノ製法等凡ソ世上必需ノ工業ヲ之レニ伝習セシメ兼ネテ貯金ノ方法ヲ設ケ,該民業ヲ卒エ貯金亦若干両ニ至ル者ハ平民籍ニ編入シ従前ノ課役ヲ免ジテ一般ノ課役ニ服セシメンコトヲ稟候ス.但シ工業ヲ伝習スルハ該民ニ限ラズ之ヲ請フ者ニハ入局セシムル也.
2009年9月3日木曜日
長州藩牛馬と雑戸の数
| 宰判名
| 牛 | 馬 | 穢多 戸 | 穢多 人 | 茶筌 戸 | 茶筌 人 | 宮番 戸 | 宮番 人 |
| 大島 | 3032 | 5 | 5 | 37 | 69 | 400 |
|
|
| 奥山代 | 2230 | 254 |
|
| 45 | 164 |
| 7 |
| 前山代 | 2138 | 259 |
|
| 23 | 92 |
|
|
| 上関 | 2845 | 110 | 32 | 131 | 93 | 467 |
|
|
| 熊毛 | 3275 | 330 | 291 | 1357 | 34 | 127 |
|
|
| 都濃 | 2119 | 441 | 254 | 1266 |
|
|
| 166 |
| 三田尻 | 812 | 3554 | 199 | 1033 | 1 | 4 | 9 | 34 |
| 徳地 | 2459 | 468 | 50 | 228 |
|
|
|
|
| 山口 | 1621 | 1861 | 115 | 481 |
|
| 19 | 77 |
| 小郡 | 781 | 3324 | 134 | 622 |
|
| 31 | 148 |
| 舟木 | 2504 | 2458 | 154 | 703 |
|
| 15 | 82 |
| 吉田 | 3546 | 1085 | 68 | 317 |
|
| 12 | 49 |
| 美祢 | 2309 | 1468 | 62 | 302 |
|
| 16 | 68 |
| 先大津 | 3709 | 390 | 20 | 93 |
|
| 13 | 49 |
| 前大津 | 2516 | 502 | 23 | 105 | 5 | 24 | 16 | 54 |
| 当島 | 2560 | 926 | 102 | 542 |
|
| 29 | 124 |
| 奥阿武 | 5111 | 1165 | 111 | 415 | 2 | 7 | 29 | 103 |
| 計 | 43567 |
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| 当島穢多猿曳 |
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| 8 | 44 |
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|
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| 当島浜非人 |
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| 41 | 208 |
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2009年9月2日水曜日
ばくろう
ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定番相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取得侯所、
日切二至り代銀不埒之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩ェ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙ニ書附置申之由
候へ共甚不謂儀候条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭ェ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯欺又ハ最前之牛馬差戻シ候救いつれ之道埒明可申侯、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯欺、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相答候、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外ェ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人工売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二村、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主工差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
候事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定番相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取得侯所、
日切二至り代銀不埒之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩ェ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙ニ書附置申之由
候へ共甚不謂儀候条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭ェ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯欺又ハ最前之牛馬差戻シ候救いつれ之道埒明可申侯、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯欺、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相答候、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外ェ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人工売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二村、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主工差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
候事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。
2009年9月1日火曜日
下羽坂村 一雑戸七拾四軒 垣之内
傳云、往古ハ十八軒にて今の西門前町のうしろ川邊に往居せしか、今に至りても其所を
固屋々敷と呼ひ御年貢地なるを垣ノ内の者持傳へ侯、慶長の比今の垣ノ内といふに居を
遷したるよし、その証左の如し
巳上 今度於山口垣之内こ御断申屋敷併畠代四拾壱枚、巳来共こ御除被遣御公儀郷中
夜廻役馳走可仕所如件 慶長九年 三月三日 相嶋作右衛門書判
此御書下之畠代とあるハ、御一紙除ニ田四反壱畝拾七歩高八石垣之内屋敷と有之分なる
へし
又 御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉左衛門ニ申付侯、
日向(毛利就隆)様 甲州(毛利秀元)様 美濃守(吉川廣正)様御領分之儀は相除、
其外之分は御蔵入諸給領共ニ皮屋役中江右之吉左衛門より其沙汰可仕侯間、異儀有間敷
通其郡中諸村之庄屋中江可被申聞候、給領之庄屋江も旁より可被申渡候、恐々謹言
正保弐年 (児玉元恒) 三月七日
児 淡路 諸郡 御所務代中
御武具方御用の特牛皮素垣之内者より百枚充上納仕来候を故有て御両国長利中江割符仕
候事のよし其時の御調書と相見候、しかるに此地にかきりて長利と云ハすして垣の内と
唱へ来候、他郡長利の居所にハ平民と混し不申ため外側に四ふちの垣を結ひ廻し其内に
住居する故爰にも垣の内と唱るよしの説あれと、右の御書下の文面にてハ垣の内示地
名とも相聞へ候、和名抄に餘戸とありて五畿内邊には垣外といへるより地名おのつから
符合する故垣の内と称るならんか、又御具足皮御紋付物他国御進物の小豆革烟草人等限
ある御用をも被仰付、御除の地に住居すると云ひ、御国中にてハ彼等か類の中にても品
よろしき簾も有之、商売につきて他国へ出入る時も往来御手形に垣の内の者とある抔旧
き故よしある事にや、前に出せる御書付ハ過し天保弐卯の年郷民風狂の如くに騒立、此
垣の内にも至りて破壊せし写のミ存れり
右の家数七拾四軒之内十八軒、古来より芝の上抔と称して村々へ手を分ちて夜廻りなとせ
しより今に至りても本軒と呼ひ銘々受の村方を時々廻る事也、或説に芝持といへるは村々
斃牛馬の時芝原抔へ拾るを支配せる故に斯唱ふるといへと、夜廻り馳走役の事抔考れは右
の説信かたし、されと何をもて芝とよへる故事不詳、二季に米麦を貫又困究に及ふ等の時、
其村方に扶助を乞ふ事ありて芝と唱ふるを寺院に比すれハ檀家に似たるもの欺
防長風土注進案は天保の末に作られたので,二年の大一揆の後である.この時,百姓勢は
三田尻の町・村役人,商人,穢多を打壊し,続いて山口へと向っている.山口では下羽坂
村の垣の内が打壊された.
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