2009年1月26日月曜日

 明治 政府の成立は慶応四年閏四月の「政体書」の公布からで,政体書での太政官制は明治二年の版籍奉還時までで,その後は二官六省の太政官制となり,更に明治四 年七月の廃藩置県後は三院制となった.明治十四年,太政官の制度が改められ内閣制度となって,畜産・獣医事が新たに設けられた農商務省の所轄となってから の記録は「農務顚末」 にある.これ以前畜産・牧畜・防疫等の事は内務省,大蔵省,開拓使が担当す るから,その記録は「太政官日誌」(官報は明治十六年七月二日に創刊. 明治四年には「外務省日誌」も刊行されているが,後述の米国公使C.E.DeLongによる牛疫流行の報告はない)に記されている.特に兵器として用いら れる馬の場合は,軍務官,兵部省,直轄御料牧場の事は宮内省の記録にもそれらが残されている.「明治事物起源」では『政府の牧畜配慮』の項で次のように記 載している.この記載に○「日本馬政史」と◎大村益次郎史料の記録を書き込んでみると,明治牧畜産業には殖産興業の一面と,国防軍事の側面があることが明 らかになる.

 

 政府の牧畜配慮

 明治政府が,畜産農芸を以て国本培養の重大事と為し,草創の際にも拘らず,これに留意せLは,経綸に其人有りしを察すべきなり.左に,農芸畜産に関する政府事業を主として摘録す.

大村益次郎史料 慶応三年十二月九日王政復古の大号令

「日本馬政史」 明治元年幕府の廃止と大総督府の設置.軍馬の事は軍務官の所管となる.大総督府厩は後に軍務官厩と改称.軍務官副知事大村益次郎は馬産を計画し,軍務官附属馬医村井某を任用.

大村益次郎史料 明治元年四月軍防事務局判事.十月軍務官副知事

明治元年閏四月官制の改正.牛馬の生産並びに売買等の件は会計官の所管.官職に御馬方馬医.

大村益次郎史料 閏四月軍務官判事 五月叙従五位江戸府判事 六月叙従四位下鎮台府民政会計掛

明治元年六月,堀田正倫をして佐倉の諸牧を管理せしむ.

八月,安房国嶺岡の牧士等稟請せる牛酪製造再興を聴す.

二年正月,租税司員大武藤助の言を容れ,合計官の管する牧牛の業を安房上総の諸牧に試み,同時に開墾を奨励す.

「日本馬政史」 明治二年四月民部官設置.牛馬の事は民部官の所管.

五月,開墾局を民部官に置く.

「日本馬政史」 七月民部官廃止.民部省となる.軍務官廃止.兵部省設置.軍務官厩は兵部省厩となる.厩馬規則改正

大村益次郎史料 明治二年七月兵部省設置.叙任兵部大輔

七月,東京の人角田米三郎等,結社して協救社と号し,養豚始め牧牛草等の業を拡充して富国の基を開かんことを謀る.其以前養豚場を横浜に設け,種豚凡そ七八十頭を養ひ,専ら肉食の用に供せりといふ.

「日本馬政史」 八月民部・大蔵省合併.牧畜事務は大蔵省通商司にて取扱い.

九月,開拓使に胆振日高の牧場を管せしむ. 

大村益次郎史料 九月四日受傷

大村益次郎史料 十一月五日歿.十一月十三日贈従三位 

十一月,通商司に於て屠牛売肉の実況を試む,既にして需用多きを加へ極めて官私の便益となれり.

十二月,通商司の管する牧牛馬に於て,洋種の牛豚(牛十五頭豚二十四頭)及製乳器機を英人より購入す,伊豆国加茂郡本澤の牧場に種牛十五頭を放つ.

明治三年四年民部省より西洋の牧草甜菜蕪菁等の種子を東京府開墾局等へ分付試播せしむ.

「日本馬政史」 明治三年五月入厩官馬の毛付産地を兵部省に報告.

五月,民部省に勧農局を於き,十二月開墾局と改称.協救社の事業は世人の賞讃啻ならず,遂に養豚をして一時流行せしめたり.

「日本馬政史」 七月牧畜事務を民部省に移転.

九月民部省勧農局新設.

「日本馬政史」 十一月宮内省に御厩局を置く.馬医師,馭者等を任命.

「日本馬政史」 十二月勧農局を開墾局と改称,牧牛馬掛を置く.

明治四年正月,和歌山藩の管内に牧牛場を開き,且つ其産牛繁殖を俟て屠牛場を設けんとの稟申を聴す.通商局の管せる牧牛馬掛を開墾局に移す.

二 月,民部省に於て荒地開墾の傍ら農学校を設け,耕牧の開進を図り叉農事に熟達したる外人数名雇傭の計画を為す.斗南藩の稟請を聴して,開墾局より洋種牛馬 を陸奥国閲七戸地方へ牽出し,良牝に配せしむ.是より先き,民部省にて岩山壮太郎三隅市之助を米国に差遣し,耕牧の事業を調査せしむ.                

三月,民部省に放て米図人ホールを雇ひ,開墾局に属して種芸牧畜の事に従はしむ.

「日本馬政史」明治四年四月開墾局改め勧業局となる.

四月,開墾局を勧農局と改稿し.開墾種芸牧畜生産の四掛を置く.

六月,シベリア海岸の家畜伝染病蔓延の徴あるを以て,予防法を布告し,禽獣皮革の輸入を禁ず,同時に民部省より家畜伝染病予防取締を令す.開拓次官黒田清隆は,米国農学教師ケロン外二名と農具家畜穀菜等の種子を携へて米国より帰朝す.

「日本馬政史」 七月兵部省陸軍条例頒布.馬匹の事は会計局(第五局)馬匹掛の所管となる.地方軍馬も担当.

「日本馬政史」七月民部省廃止により勧業局は大蔵省に移転,勧業司の所管となる.勧業司は勧業寮となる.八月,北海道開拓顧問ケロン等を吹上離宮敵官に廷見し,開拓の事を親諭し給ふ.勧農局を勧農寮と改称し,目黒村駒場野に牧畜試験場を置き,欧米の方法に倣ひ,牛馬を以て開墾に着手す.

「日本馬政史」八月勧業寮を勧農寮と改称

九月,府下青山南北町に開拓使の官園を設け,家畜及種子を栽培し,風土の適否を試験し,後漸次北海道に移せり.ケロンの建策に従ふなり.

「日本馬政史」明治五年二月兵部省廃止.陸軍省,海軍省設置.兵部省厩は陸軍省厩となる.

明治五年五月,開拓使にて,取囲より綿羊と少数の種馬を輸入す.

「日本馬政史」 十月勧農寮廃止.事務を租税寮勧農課に移す.

「日本馬政史」 明治六年三月陸軍省職制並びに条例により,軍務局を第二局と改称.第三課に於いて調馬,騎兵諸隊に属する馬医,馬医学校生徒給料の事等を所管.

明治六年五月,開拓使より牛馬養豚の良種を得んと欲する者は,東京府下渋谷村第三官園に,民有の牝畜を牽致すれば,其種付を許可する旨を広告す.  

八月,先に大蔵省の命にて,牧畜農事観察の為めに洋行したる岩山壮太郎,各種の綿羊数十頭,農具穀菜牧草等の種子数百種を携へて,米国より掃る.名東県管内牛馬疫流行す.綿羊の交尾を奨励す.

「日本馬政史」 十一月内務省設置

十一月,讃淡二国に八月以来牛馬疫流行,既に牛千七百十頭馬十四頭斃死す.

明治七年一月内務省に勧業寮を置く,勧業寮の農務課は内藤新宿試験場内に置き,洋種牛馬羊の種畜及西洋農具を貸與するを務む.

「日本馬政史」 明治七年   内務省勧業寮設置

安房嶺岡の畜牛流行病に罹る,米人ブラウンに嘱して之を治療せしむ.

四月,勧業寮新宿試験場内に,農事修学場を置き,獣医学農芸化学,農学予科,農学試業等の教師を海外より招碑するの議決す.

八月,養畜者の請に應じて,牝馬牛の交尾を許す.

十一月,太政官にて,伝染病流行地へ耕牛資金を下附す.

十二月,去年以来牛疫にて斃死せるもの,四萬二千余頭に及ぶ.

明治八年二月,牝犢の購入を米人ジョンスに托す.

「日本馬政史」明治八年   勧業寮四課で牧畜等の事を所管

五月,内務省にて,大に牧羊業を開かんが為めに,米国牧畜家ジョンスを雇用す.    

七月,牧羊開業方法を企劃し,牧羊生徒を各府県解に募集し牧地を下総にトす.

十一月,内務省にて,牧羊場を下総に相し,牧羊種牧の二大別を為し,種畜場を埴生郡香取に開き,牛馬飼ひ且つ洋製農具を試用す.

明治九年二月,疫牛処分條例を仮定す.清国人仇金寶・陸享瑞を雇ひ,家禽の人工孵卵法を拭験す.

三月,内務省良馬二百余頭を買ひ,香取種畜場に放飼す.

八月,ジョンス等を清国及米国等に遣はし,綿羊を購入せしむ.

十月,大に下総牧羊場を拡張す.

十一月,駒場野原野開けたれば,牧馬に関する試験を勧業課にて実施す.農学校新築敷地を駒場に定む.綿羊千二百除頭を清国より輸入す.

十二月,内務省より府県に令し,牧羊適應荒蕪地の縮図を進致せしむ.清国より輸入せる綿羊を,下総牧草地に移す(合計千二百八十四頭内蒙古羊八百四十頭,上海羊四百十八頭,山羊二十五頭,外に着後出産九十一頭.斃死十八頭なり.)

明治十年一月,勧農寮を勧農局と改称し,大蔵大輔松方正義に局長を兼ねしむ.局員を清国に遣はし,綿羊を購入せしむ.

六月,内務省ラシャ製造所建設地を東京千定に定む.

十月,洋種牛貸與規則を定む.

十二月,農業修業場を駒場野に移し,農学校と改む.内務省繁殖用牛馬を米国より購入す(牝牛二十六頭,牡牛十六頭,牡馬十二頭)伊太利国産の蜜蜂を購入し,之を新宿試験場に飼養し,内外蜜蜂の得失を試験す.

明治十一年一月二十四日,駒場野農学校成る,車駕臨みて開校式を行ひ賜ひ,勅語あり,又外国教師に勅諭す,内務卿大久保利通勅答す.

 







     



学而不思則罔