2012年3月28日水曜日

厩牧令

大宝律令 厩牧令第二十六條に『凡官馬牛死者各収皮脳角胆若得牛黄者別進』とある.馬の皮で使用出来るのは尻の部分のみで,角も胆も無いから,利用できるのは僅かに脳のみである.これに比べ,牛は皮・角・脳・胆が利用できる上に,胆石も貴重な薬となるから大層有益である.牛の胆石の原因はほとんどが肝蛭の寄生が原因であるから,既にこの時代に肝蛭と中間宿主の淡水産巻貝・ヒメモノアラガイやサカマキガイが居た.更に肝蛭の生活環を考えると,牛糞が水田の肥料として用いられた事と,稲藁が牛の飼料として用いられていた事が明らかになる.

2012年3月25日日曜日

大正七年山口県畜産概況


山口県畜産概況 大正七年十月二十五日山口県内務部寄贈
 畜産の沿革概要
 本県における産牛の起源は文献の徴すべきものなきを以て,詳に之れを知る事能はざれども,古来,豊浦・大津・阿武・大島(殊に平郡島)の諸郡にては産牛行われたるものの如く,紀元八百五十九年神功皇后三韓御征伐の当時既に豊浦郡豊西村蓋井島の東方に牧口と称し,牧牛行われたりと口碑に伝えらる.又,同郡宇賀村地方より産出する牛を一般に長門牛と称し,其名高かりしものの如く,紀元千三百九十六年の頃聖武天皇の御宇奈良東大寺を建立し賜いし時,長門牛をして其柱を牽かしめ賜いし事蹟あり.而して其牛には額に玉ありしを以て,額玉掻と称えられたりと『見聞集』に見ゆ.又桓武天皇延暦年間(紀元千四百五十年頃)豊浦郡西市村大字殿敷村より牛を貢ぎ,其地を牛見荘本郷と唱えられたりと云う(風土記).其後醍醐天皇の御宇(紀元千八百六十年の頃)全国を三十九牧と定められ,馬百十頭牛二十二頭を選抜貢献せしめられたる時には長門牛に宇養馬牧角島牛牧を設けられたりと長門国誌に見え,宇養は宇賀村,角島は角島村なりと.其他豊浦郡にて古来牛牧の地なりと想わしむる地名少からず.即ち肥中(中字と牛字と形相似たるを以て肥牛の肥中に転したものならん)特牛,小串(昔は古止伊と称え次に子牛に,遂に小串に転ぜしものならん),角島等の如し.而して現今神玉村に牛ケ迫と称する処りて,土地平坦棚壁の跡を存し,往時を偲ばしむ.又,阿武郡にありても『八江萩名所図絵』中に椿郷東分村龍蔵寺々傳と題し左の記事あるを見れば,同じく古来産牛の行われたるを思わしむ.
『龍蔵寺傳』
聖武天皇の御宇,天平年間南都大仏殿御創立の時,諸国に詔して牛車を進めらせ給う.夫が中にも長門阿武郡堀田の荘(今の萩)川島の郷より率出したる白牛は,他国の牛に勝りていか計りなる大木,大石というとも更に労るる事なく運送すること日毎に,暁より初めて黄昏にいたる.遂に牛飼の者も綱を放てりとぞ,都の貴賎言哢さざるはなかりけり.折節,陛下に聞こえければ叡感斜ならず.是,則ち大日如来の霊験なるべしとて,即褒賞として此牛に耕作の労を禁じ,且つ,牛飼には飼料の地また国守という号を下し賜りぬ.是より以降長門国中の牛には竹木にかぎらずよろずのものは負する事を止む.後略
又,大島郡にありては,古来平郡牛と称する牛を産し,続日本紀中にも小豆島に放つ所の官牛を長島に遷う云々とあり.長島とは今の熊毛郡上ノ関村にして,同島の隣接の地にして自然本島にも移入繁殖せられたるものならん.今猶此付近の島嶼中,牛島馬島等の名称あるは古来此等の島嶼にて牧牛牧馬の行われたるを想わしむ.又,大津郡にありても紀元二千二百九十一年の頃より向津具牛と称する牛を産し,寛永二年其の総数五百六十五頭なりしも,同年牛疫流行し,僅かに六頭を残したるの惨害を呈し,農耕上の差障を生じ,九州五島より牛十二頭を移入したるの事蹟あり.
旧藩時代にありては,保護奨励法として貧農救済の法として,資金を貸与し牛馬の飼養を薦めたる事あるも殊に見るべきものなく,只農家は農耕採肥を目的とし飼養せしものにして,特殊の改良進歩なかりしも,明治八年勧農局は下総国三里塚に牧場を設け海外より多数の牛馬を移入し,汎く全国に貸与せしを以て,本県も亦洋種[デボン種・短角種]牝牡八頭を借受け,之を県立栽培試験場内に繋養し一方,県内篤志家に貸与し,飼料として壱ケ年麦四斗づつを支給し繁殖せしめ,其産犢を配付貸与して在来牝牛に交配し,其改良を計れり.又,県費を以て島根県広島県下より種牡牛を購入し之れを貸与せり.然れども当時官民尚畜産に関する知識に乏しく,経営其当を得ざりしかば成績亦見るべきもの無く,明治二十年に至り是れを民間事業に移したり.明治二十六年に至り,繁牛奨励費下与例を定め島根ならびに広島県下より種牡牛を購入貸与し,又,牝牛の繁殖利用を促したり.明治二十九年種牡牛の購入を奨励し補助金を下付するに至り,三十七年具体的計画を定めて実行に着し,馳駆しはエーアシヤー種,ホルスタイン種,デヴオン種を以て改良する事となし,県立種畜育成所を設置し東北及び北海道より種牡牛となすに適するものを購入し,之れを同所に育成配付することとせしに,内国種牡牛暫次減少し外国種牛及び雑種牛の増加を来たし為に県下斯業の隆盛を見るに至り,或は団体或は個人にて種牛を遠く海外の原産地より輸入せるものあるに至れるの盛況を呈せり.其間或は仔畜の保存奨励費下付規則の制定或は産牛組合の設置,余乳利用の途を啓く為め製乳事業の開設を促す等,其の保護助長に努めたり.然るに明治四十一年以来一般経済界の不振は本業に対し少なからざる打撃を与え,牛価頓に暴落し畜産家の苦痛甚だしく,畜牛組合事業も一時頗る悲況に陥り為めに二三解散せるものを生じ,当業者も斯業に対し不安の念を抱けるに至り,一時甚敷沈痛の状を呈したるも近年漸次回復し,大正三年畜産奨励規定を設けて民有種牡牛の充実,牝牛の改良放牧地の設置,其他残乳利用の目的を以て行う製乳業の発達に資し爾来種牡牛の設置数頓に増加し,放牧地亦各地に設けられ穏健なる発達の気運に向い大正七年畜産奨励に関する訓令を発して畜産改良方針並びに其の実施要項を示し,今や各郡には法に依れる畜産組合設立を遂げ県区域畜産組合連合会成り,斯業の基礎愈々強固となるに至れり.
 馬は往古の事は文献に徴すべきものなしと雖,旧藩時代に於いては藩馬生産の為産馬事業を奨励し殊に美祢郡は山野に富み産馬に適するを認め種牡馬には飼料として大豆を副え,之に同郡民に貸与し,種付所には藩吏を派遣して万般の監督をなさしめたる等其の保護奨励極めて篤く,種付所は美祢郡の外阿武・大津の二郡にも設置せられ当時美祢郡赤郷村を中心として各地に産馬行われ,強健にして優良なるものを産し,江戸地方に於いても・・・

学而不思則罔