2012年9月24日月曜日

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飛鳥時代

6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。
天皇支配を具現化するために律令の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。
  次いで六から七世紀に韓民族系の文化人・技術者が渡来し,(仏教の伝来は六世紀中頃.仏教の保護政策は六世紀末)大和政権の形と文化を作って行く事となる.家牛もこの頃に渡来して西日本で飼育されるようになる.
 
「聖徳太子伝歴」によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が乗ると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、3日を経て都へ帰還したとある。



奈良時代


8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
 律令国家における牛馬の管理は官の仕事で,その任務に従事する者の身分は官人と,官庁に所属する良民の品部と雑戸であった.当時の馬の用途は駅馬が殆どで軍馬は少なくなっている.

 大宝令における官馬の事は左右馬寮の所轄で馬寮の職員は権頭,権助,大允,小允,大属,小属,馬医,史生,騎士,馬部,使部,直丁,飼造部,馬甘(伴部)からなる.左右馬寮の品部・雑戸が飼戸の馬戸で穫丁と馬丁.駅には駅長と馬子,牧には牧場長,帳,牧子,馬寮馬部にはさらに馬部当番,飼丁,雑徭の者が充てられている.白丁の名も見られるが,白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指している.
 
 奈良時代の中期,律令制の動乱期・天平年間・聖武天皇は賤視差別から馬飼の姓を改め平民とする旨,詔を出している.当時の馬医は把笏の官で官位令では「馬医師」となっているが,この期に既に獣畜や畜産に関わる者は蔑視されていたことが分かる.こういった賤視差別に加えて平安時代初期に密教思想が伝来すると,さらに密教の不浄視差別が重なってくる.密教の興隆は平安時代の八世紀の末頃からで,それ以前の邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賤など、身分差別は存在したが、それは賤視(下へ見下す見方)であった。これに対し、平安時代だと言われる,死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンズー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。
 
 兵部省の馬は兵部司の所轄で宮内は内馬寮が担当した.

 厩牧令第三條に太政官に稟請する薬剤がある.薬剤は左馬寮式に毎期胡麻油一斗二升五合,犬山椒油猪脂三升二合五勺,硫黄一升六合,随時,葛大四斤,干薑小十斤とある.脂薬はいずれも瘡・傷の薬,胡麻油と猪脂は軟膏基材として創面の保護.犬山椒油には鎮痛と消炎作用がある.硫黄は殺菌と殺虫.内服薬の葛,干薑は健胃整腸消化の薬.馬の場合,多くの病が飼料の失宜によって生じるので,治療よりも予防を心がけている.以下に近世のものではあるが,木曽馬の「餌と飼い」を示した.

ねつひえないら薬也
一のさらし 中 一かきから 中
一白にしのから 大 一土りう 中 玄
一たいおう 中 一せんたいおう 中
一くしん 中 一       少まし
一しやこう 少 くこ 少
右九味を合
ないら薬事
一茯苓 一セン 一おもと 一セン
一やまもゝ 一セン 天南星 一セン
一鳥爪 三セン 
右五味酒にて用へし
右同薬
一こせう 一セン 一やまもゝ 二セン
一ふくりう 一セン 一かんざう 一セン
右四ミ酢にても用ゆ
へしと里
十二ないらのぬく薬
一黒竹 玄 一いのこつち
一烏爪 一蒲根
一逢根 一ふなはら
一 ぶくりう 一李の緑
一 松の緑 一にらの根
右何れも粉にして 但し
黒竹  入て濁酒味噌
塩入て一日に二度つゝ但し一度に
五  つゝかうべし

 
厩牧令第二十六條に『凡官馬牛死者各収皮脳角胆若得牛黄者別進』 また,斃馬の皮肉は官庁に納め売却して金納とある.この事から品部・雑戸の中には牛馬の解体に関わる者が居たことが明らかになる.


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牛黄考

牛黄の歴史
 牛黄は「律令」に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を収れ、若し牛黄を得ば別に進れ」と記されてい。中国では『神農本草経』に5世紀頃北インド大乗仏教の経典『金光明経』にもサンゴロカナスクリット語で牛黄の記載があるが,六世紀まで日本列島に牛はいないから,牛黄は仏教医学と共に我が国に伝来したものであろう。
 近世の寺島良安の『和漢三才図会』牛黄は明らかに牛の胆嚢結石で鮓莟ヘイサラバサラ鹿玉(ロクギョク)、狗宝(コウホウ)、馬(バボク)は他の種類の結石である.馬鹿は胆嚢が無いので胆石が出来ることはまず無い.狗宝 は石淋を患いとあって,記述の色からしてもこれは明らかにカルシュウム系の膀胱結石である.寺島良安の医学知識は病理解剖学の無い理論漢方医学の時代であるから,この様な誤りを生じるのもやむを得ない.ヘイサラバサラについては明治期の「農務顛末」に京都府からの問い合わせがあり,駒場農学校の須藤義衛門が馬糞石として詳細に解説している.古い文献を紐解けば,平安時代中期の貴族源経頼の『左経記(内外書籍株式会社刊「史料大成4」矢野太郎解説)には,長和五年正月二日丁未の記録に『河原人が斃れ牛を処理したところ,腹綿(ハラワタ)の中に黒玉があったのを,河原人が持ち去ったので,河原人を詮議して提出させると,まさしく牛黄であった.その大きさは玉子ほどで,色は黒色の貴重な牛黄であった』・・・とあり,この当時すでに牛の胆石が貴重な薬であることを明らかにしている.なお,この時の牛黄は玉子大と記録するから,これは胆嚢に出来た大きなビリルビン胆石で,普通に得られる小さな粒の牛黄や,胆管中の管牛黄(クダゴオウ)ではない.
 
牛黄とは?
 牛黄は牛の胆汁色素のビリルビンとビリベルビンが固まったもの(結石)である.本来液体の色素が固体に凝結するためには,核となるものが必要となる.核の殆どは肝臓に寄生する吸虫・肝蛭の卵である.肝蛭は肝臓や胆管に寄生する吸虫類で,成虫の産んだ虫卵は胆管・胆嚢を経て胆汁中に排泄される.従って,胆嚢中に出来る色素結石は1cm程の大きさで数が多くなる.左経記や和漢三才図会にあるような鶏卵大の大きさの結石となれば,その値は黄金以上のものと言われる.
 
漢方薬の牛黄のいわれ
 牛の胆汁色素が凝固したもので色がその磐余と考えやすいが,じっさいは褐色から黒に近い色調である.実は黄の由来は胆石を病む牛の症状から付けられたものである.牛が胆石症を病むと,痛みから吠えるようになり,末期に黄疸が出て目の粘膜が黄色に染まるものを黄の病と呼ぶと,多くの牛療治書に記されている.牛黄とは黄病の牛の胆中にあるもので,その色や形から付けられたものではない.牛の内臓中の結石の一般名称は玉(タマ)で,漢方薬の牛黄とは異なる物である.
牛の胆石症が黄の病なら,人の胆石症は癪である.俄の癪に印籠の熊の胆()を服ませて・・・実は有効成分はどちらも胆汁色素で,化学名はデスオキシコール酸とケノデオキシコール酸,現在では合成品がウルソ等の名前で局方の利胆剤として市販されている.

現在の漢方医学では牛黄は人参と並ぶ重要な薬物で,多くはオーストラリアからに輸入に頼っている.特に国産の牛黄は和牛黄と呼ばれて高価格で取引されたが,現在では使役牛の食肉化がなくなり,乳牛の肝蛭にも効果的な駆虫剤が出来て,天然の和牛黄は得難いものとなっている.
 



道路を使う運搬には馬借と車借があり,牛車は馬借の五倍の荷物米十俵を運べる.馬借には伝馬と中馬がある.中馬の一日の行程は二十から三十貫目の荷で八里.騎馬のみの移動なら,日に二十里ほど.運送馬の餌は,朝フスマ一升切り藁ザル半分,昼麦二升,夜大麦五升を煮て切り藁に混ぜ二度に与える.



乳牛院 

乳牛院は典薬寮に付属した機関の一つ。平安時代に設置された。別当が総監し乳師長上に統轄された品部の乳戸が乳牛の飼育、牛乳の採取を行って皇室に供御した。牛乳や醍醐は薬としても使われていた。
  • 別当
  • 乳師長上
  • 乳戸




学而不思則罔