牛に膽あり.鹿馬これを欠く.足らぬ故にこれを馬鹿と呼ぶ.牛膽に玉のやうなるものあり.名付けて牛黄.神農本草経に驚癇寒熱,熱盛狂痙を治し,邪を除き鬼を逐うと.また,左経記に河原者の獲りたる牛の珠の事あり.牛黄を獲るは秘伝にして他言無用の秘事なり.以て秘すべし.秘すべし.ヲンロケンジンバラキリクソワカ.
2009年3月24日火曜日
『博労さあ』と『犬捕り』
○○さあ・・・当地では戸主と長男およびその嫁には『まあ』の敬称を付ける慣わしがある.『寅ァまあ』の長男は『辰ゥまあ』で,その妻は『ネーまあ』となる.従って『辰ゥまあ』の『婆まあ』とは『寅ァまあ』の『ネーまあ』である.次男は『次郎さあ』となるが,これが『次郎まあ』となると,長男が若死にして跡を継いだか,養子に来た事になる.その他は『さあ』の敬称で,現在の「○○さん」に相当する.この『さあ』の敬称は,名前以外に社会的地位や職業名に附される事も少なくない.
『博労さあ』もその内の一つで,牛馬の療治を生業とし,お上発行の獣医免状を持つ者である.正確に言えば明治十八年の太政官布告に拠って獣医は国家免許の生業となったが,この恩典に浴したのは県知事の推薦を得て,内務省所轄・官立の駒場の農学校に入学を許された一握りの元士族の若者達で,近世の各藩では『むまのくすし』とか『馬医』,あるいは『御馬医』と呼ばれた連中である.これに比べ『伯労さあ』とは一子相伝の療治術を親方に習った後に,地方の学校や養成所で駒場農学校卒の獣医を先生にして,近代西洋式獣医術を学んだ者達で,明治から大正時代,地方によっては戦後間もない頃にはまだ『伯楽』と呼ばれていた.
筆者の記憶にある『博労さあ』は赤皮のジャンパーと半長靴を纏ってメグロの単車に跨り,川の向こうから『セッパク』の治療にやって来た.牛馬の病と言えば「タチ」「コシ」「ナイラ」で,これらは『博労』でも療治可能な病であったが,『セッパク』は獣医師免状持ちの『博労さあ』の診断書・検案書が無いと,表向きは食肉に回せない厄介な病気であった.
さて,もう一つの『博労』は,決して『博労さあ』と敬称を付けて呼ばれる事はない.何故なら彼らの身分は近世では賎民とされていたからである.明治四年の布告まで彼らの本来の生業は斃牛馬の皮革の取り扱いであったが,家畜の解剖学の知識を得た為に牛馬の療治がいつしか出来るようになっていた.勿論この時に士分の『御馬医師』も存在していたのだが,彼らは陰陽五行論の漢方獣医学を書物で学んだだけで,実際の療治技術は賎しい身分の『博労』にかなう事はなかった.最も優れた牛馬療治の達人は百姓たちから『伯楽さま』とさえ呼ばれていたのである.
現在『獣医師』と呼ばれる生業の祖先には士分の『馬医』・『陸軍獣医』以外に,民間出身の『伯楽』『博労』等が含まれている.
家畜に限らず愛玩動物を取り扱う世界にも同様の蔑視がある.昭和二十五年制定の「狂犬病予防法」第三条に定める狂犬病予防員は,ごく最近まで『犬捕り』とか『犬殺し』と呼ばれていた.法の上では狂犬病予防員は都道府県の職員で獣医師となっているが,百姓・町人あがりのザブ(一般庶民)には,『はしか犬』の捕獲に動員された穢多・非人と同じに見えるのである.白衣に青の腕章の予防員は『犬捕り』の旦那で,実際の捕獲に手を下す手下は穢多よりも更に下と見られた『朝鮮人』の『犬殺し』となるのである.
参考文献:『はしか犬』布引敏雄著「長州藩部落解放史研究」三一書房1980年
2009年3月23日月曜日
水藩医官 原昌克著 改訂 瘈狗傷考
水藩医官 原昌克著 改訂 瘈狗傷考
編者 岸浩
前説
わが国の家畜伝染病流行の起源に興味を抱いて,爾来十余年を過ぎた.その端緒は牛疫であり,すべて朝鮮半島における大流行の直後に一致するというドラマティックものであった.但し私は原典を見ない限りは引用を避ける頑固性分なので,正保牛疫(1646-)と貞享牛疫(1684-)は報告していない.しかし,何れも発生の起点は既報の寛永牛疫(1638-41)寛文牛疫(1672-73)と同じく,山口県か福岡県に限定している.
牛疫以外に文献上判然とする家畜伝染病に狂犬病がある.この疫病は潜伏期が長く,温血動物の殆んどが感受性を持っており,余りも資料が断片的なので,医学史の中でも流行史の形では捉えられていない.江戸末期に定着した伝染病なのか,牛疫同様にその都度侵入を受けたのかも不明の侭である.確かにこの研究は至難の業だなというのが実感である. 長州藩においても五代将軍綱吉の「生類憐みの令」をうけて生類保護が講ぜられているが,萩城下における野犬の横行は目に余ったとみえ,正徳元年には捕獲野犬島流しの御触れが出されている.この野犬を棄てた島とは,現萩市三見沖の鯖島(無人島)である.但し殺処分した者(穢多)は,入牢となっている判例があるので,建前はあくまでも捕獲であったと見える.
長州藩記録の中では,狂犬は「はしか犬」または「麻疹犬」と明記され,その初見は元文五年の,一,はしか犬見当次第早速捕へ,穢多へ相渡候様ニとの事「御触控目録(山口県文書館所蔵)」から始まっている.この事と野呂元丈の「狂犬咬傷治方(元文元年刊)」
の中に『それ狂犬の人の咬ふこと,我邦古来未だこれを聞かず,近年異邦り此病わたりて,西国に始まり,中国上方へ移り,近頃東国にもあり』の一節が,前述の至難の業と思いつつも,なお私の研究心を魅了して離さないのである.
例えば西国に始まりであるが「両郡古談(大分県立図書館所蔵)」の享保十八年の条に,一.享保十八年五六月頃より犬夥敷麻疹に而多くるい人ニ喰付く.はれ候者ハ疵口甚痛,病犬の熱毒皮肉臓腑ニ通り多く死す.尤去子年,長崎辺より流行,牛馬等へも喰付候段,打殺川にも入る也.此薬玉霊丹妙也,小豆禁食也 とあるとおり,野呂元丈の認めた近年とは三年前のことで,西国とは長崎近辺と推察されるのである.長州萩城下街の狂犬捕獲令は,長崎発生から九年後の布令となるが,関門海峡が流行遅延のガードとなっていたのであろう.海峡が有るといっても,人牛馬から犬に至るまで一件につき○○文という舟賃規則も残っているので,潜伏期の狂犬が九州から本州に侵入することは易々たるものといえる.患者から健康人への感染があったことも否定はできまい.
享保十七年,長崎近辺に発生した狂犬病の蔓延スピードは眼をみはるものがある.例えば 一.享保十七年壬子年,(前略)今年西国筋ハ不気候ニ有之.備前,備中,広島,備後辺之犬迄も病とつき,人民に噛付キ,多ク人損シも有之.播州辺迄も同様之由也.(後略) 「草間伊助筆記巻一(大阪市史第三)」 とあるとおり,現在の山陽沿線を,真一文字に東上している.野呂元丈の執筆と出版は如何にタイミングが良かったかと言わざるを得ない.また改めて狂犬病の猛威に驚くばかりである.
さて,原昌克(字=子柔,通称=元与,号=南陽)の著作「瘈狗傷考」の字訳を思い立った理由は,偶々病を得て入院し,時間をもて余したことのほかに,野呂元丈が記した東国の発症事例と,昌克の治験例が明記されているからである.東国における発生の初めは,管見するところでは寛保元年正月,津軽藩領内の該当記録に見られる.
一.元文六辛酉年正月地震,同月より犬に病付而有増ノ犬絶程死候.方々ニ而犬ニ喰付れ,死候人も有.其外並馬並狼等も病と見へ,多く所々ニ而死.「永禄日記」
瘈狗傷考を字訳し終えて感銘を深めたのは,原昌克が随所に私見を開陳していることゝ,徹底した灸冶療法である.いみじくも昭和二十五年七月十四日,東京大学農学部会議室において狂犬病をめぐる座談会が開かれている.昭和二十三年から東京近辺で大流行したときのことで,その議事録は「日本獣医協会雑誌第三巻第八号255~263頁」に登載されているが,その終尾に「人の狂犬病の症状と手当」が記載されている.これを見ると,私は原昌克が自信を持って全治させたとする灸療法が,正しかったと思わざるを得ないのである.因みに左記に述べる局所療法,GHQ・ BEECHWOOD博士がMedical Times誌(1949)の中から紹介したと脚注されている.この米式焼灼法に用いられた「発煙硝酸」を,日本式灸治療法に置き換えた場合,瘈狗傷考は愈々その価値を見直される医書となるのではないだろうか.少なくとも私は瘈狗傷考の字訳を通じて,文政三年八月十六日,六十八歳を以て没した原昌克を尊敬すること頻りである.本書は当時三十歳の著作となる.
人の狂犬病の症状と手当 抜粋 出典・・前掲
焼灼法
噛まれた部位を囲んで,健康な皮膚の上にワセリン軟膏(Petrolatum)の輪をかき,その内部に毛細ピペットを使って,一滴ずつ発煙硝酸を垂らす.酸は傷の各部にもれなく行きわたらせるが,健康な皮膚にはつけないようにする.この療法は,咬まれてから三~四日たった後に行っても有効である.
その他傷を石鹸と水とで洗い,生理食塩水で灌注するという考案については,数年前に反対が起り,検討が行われた結果,次のような点が明らかにされた.
①リンパ液や血流は,狂犬病毒の侵入門戸ではない.
②狂犬病毒は,非常に遅い速度で神経幹を通って脳に達する.
③発煙硝酸は組織やウイルスを破壊殺滅する作用のほかに,ごく深部に存在するウイルスも,殺滅し得る深達力を有する.
④できるだけ多くのウイルスを,侵入門戸で殺滅すべきである.それは予防液を応用しても,それはある限られた量のウイルスに対して患者を保護するに過ぎないからである.
⑤顔面に傷痕を残すことは,焼灼法の適応を阻止する理由にならない.それは顔面の咬傷が中枢神経系と密接しているから,どうしても行わなければならないという理由の方が,一層急を要するからである.
昭和五十五年七月二十日脱稿 於 長州吉敷郡・椹野川畔
獣医学博士 岸 浩
原玄与先生著 瘈狗傷考 江都書舗 青藜閣発行
序
原子柔の黄岐の道に於ける,其れ心を用ひざる所無けん耶.琑々遣らず,以て常に有らざるに及ぶ.常に有らざる者,弁博及ばざるに非ず.亦或は稀に之に及ぶと雖も,未だ以て之を心に経ざるなり.則ち当に希有にして用いること無かるべし.
夫れ瘈狗の毒は,水火より猛なり.而して常に有らず.有れば則ち一日二日にして一を以て萬に至る.如し若し苟くも触れば則ち人之に死す,水火に似たるを有す欤.火は以て撲滅すべく,水は以て雍ぐべく,以て決する可なり.瘈狗の毒は撲滅雍決の術なし.弁博亦希に及べば則ち薬石も竟にその治を失うなり.
予の幼時,一日人来りて云く,某地に瘈狗ありと.明日又人来りて云く某里に瘈狗あり.戒む可しと.一日二日にして一を以て萬に至る.邑里州県,処として有らざるなし.然り,常にあらざれば則ち希に及ぶもの亦希なるが故に,治又其治を得ず.乃ち死者何ぞ限らん,爾来殆ど五十年.又常に有らず.弁博又希に及ぶと雖も今又かくの如く有り.
予の幼時,嘗て見る所則ち至る.所謂其れ水火より猛なり.子柔,希に有る瘈狗を以て治其の治を得ず.故に之を諸書より蒐閲し,希に及べは則ち集む.竟に巻と為し,人をして其の所に及ばしめんと欲するも逮ばず.予菐に已に面視し,一を以て萬に至る.特に子柔心を用ふるの深きを嘆ず.年の後を我より先んずる者,一たび之を見れば則ち皆能く之を識る.子柔其れ勤めよ哉.
安永辛丑仲春 淡園 埼 允明 序 印 印
瘈狗傷考を刻するに叙す
吾が友子柔の業たる,三世其の美を済す.生死骨肉,治を請うて市の如し.門人笈を負いて,諄々誘掖し,数を守ること清明,論着籍を成す.或は帳秘を問ひ,先ず此の莢を授く.毒の身に逼る何ぞ疾急がざらん.瘈狗人を囓む.其の毒深く入る.一に治療を失せば鍼石及び難し.犬と医と交も害を為す.是れ其の論の以て立つ所,先に急に後に緩し.行して将に習う所を伝へんとし,瘈狗傷考を刻す.
天明三年癸卯冬 水戸 立原 萬 印
瘈狗傷考
目次
論第一
治法第二
薬法第三
灸法第四
刺法第五
禁忌第六
治験第七
附録 毒蛇諸虫咬
鼠咬
瘈狗傷考 叢桂亭随筆之一
水藩医官 原昌克 子柔 甫 著
論第一
夫れ虫獣の人を咬害するもの多し.虎狼蛇蠍の害の若きは,深山幽谷,絶人の地,人稀に遇ふ所にして其の禍に罹るもの,亦た甚だ多からず.独り風犬の人を害するや,都鄙市朝を問はず.其の毒に触れるもの,比比相属す.若し夫れ理療一失すれば,即ち其の毒膏肓に入る.或は偶々瘥る者も亦た生冷油賦を誤食すれば則ち旧毒再発,口渇引飲し,妄語狂躁,狗叫の如し.其の証奇怪,名状すべからず.故に之を治するの法,必ず先づ躯内の毒を刈除するを以て要と為す.其の術,予め論定せざるにはあるべからず.夫れ風犬の行るや四五月の際尤も甚しと為す.城郭県鎮,烟火相臨の地,狂狗人を咬む有れば,則ち子弟悪少,相引て之を撲殺す.寒郭陋巷の若き,一犬横行,毒を数人に流す.又,常狗之と闘へば伝染して癲狗となる.是に於て禍に罹る者,亦た少からず.理療一失せば医と犬と,交々害を相為すもの虎狼より甚だし.要するに須く其の方法を照して,宿毒の遺患無かるべし.
左氏伝に云く,国人瘈狗を逐と云う.即ち風犬なり.或は猘犬,癲狗,風犬,狂犬等の称,皆な同義なり.
千金論に曰く,凡そ春末夏初,犬多く狂を発す.必ず小弱を戒め,杖を持して以て予め之を防ぐ.防ぎて免れざるもの,灸するに出るは莫し.百日の中,一日も闕けざるもの,方に難を免るることを得.若し初め瘡瘥へ,痛定るを見て即ち平復と言う者,是れ最も畏るべし.大禍即ち到る.死旦夕に在り.昌克按ずるに信なるかな此の言.多くは枯薬を以て傷処に貼し,瘡乾痂脱するを看て,驩て全痾と為す者,速なるは旦夕,遅きは旬月,終に鬼簿を免れざるに到る.
聖済総録に曰く,猘犬齧ば犬狂疾を発し,跑躁人を齧む.若し之に中れば,人をして疼痛止まざらしむ.発狂犬声の如し.急に之を治せざれば,亦た能く人を殺す.男子三日を過れば治せず.婦人五日を過れば治せずと.昌克按ずるに,犬毒の男女を以て理療の遅速を論ずるは蓋し妄誕也.
胡濚曰く風狗咬傷は此れ乃ち九死に一生の病と.急ぎ斑蝥七枚を用いて,糯米を以て炒り黄にし,米を去り末と為し,酒一盞を半盞に煎じ空心温服して下を取る.小肉狗三四十枚を盡ると為す.数少なきが如きは,数日再服すること七次.狗形無れば永く再発せざる也.累に試み累に験ありと.
孫一套曰く,斑猫七枚を用て頭足翅を去り,糯米少許を以て新尾上に於て同じく炒り,米黄香を以て度と為す.米を去りて用ひず.斑猫を以て研り砕き,好酒調へ下す.能く酒を飲む人は再び一盞を進む.傷の上下を看て服す.当日必ず毒物有り.小便に従って出づ.小狗の状の如し.未だ下らざる者の如きは,次日再進す.如し又下らざれば又之を進む.毒物出るを以て度と為す.進みて七服に至る.毒下らずと雖も亦害無し.薬を服するの後,腹中必ず安からず.小便茎中刺痛す.必ず慮からず.此毒薬の為に攻られて将に下らんとするのみ.痛甚しきもの,蕪青一匙を以て甘草湯を煎じ送下す.即ち止む.蕪青無きが如きは青黛亦可なり.疾癒て後,急に香白芷五銭,雄黄二銭半を以て末と為し,韮根を搗き,自然汁を湯酒に調へ下す.斑猫の毒を去り,水を以て浄漱し,口に青葱白を嚼み傷処に罨す.小竅を留め毒気を出す.他薬草を用て罨すべからず.
又曰く,急に治せざれば小狗を生ず.必ず人を殺す.雄黄,蝉脱を等分に末と為し調へ,傷処に敷く.立ところに癒ゆ. 続く