2009年4月2日木曜日

部民

日本列島中央部を支配下に置く政権が成立して行く時期は、騎馬の術は征服者の重要な支えとなった。律令国家の成立以後も支配組織にはウマによる駅伝の制度が不可欠で あった。国家の飼育した動物は、ウマ、タカ、ブタ、イヌ、ウシで、猪飼・犬養の部民はブタ・ イヌの飼育を担当した職掌である。ウマとウシは牧で飼育されていた。国家の飼育する動物は社会の上層部に所有され、飼育担当者は動物への優越感を持つと同時に憐愍の情をも生 んだ。また、狩猟は君主の大権となった。
◎氏姓制度の部民。農民や技術者は氏姓制度の政治体制では地方の豪族である国造、県主稲置、伴造の配下となる。品部とは職能部民。中央の有力な臣は平群・葛城・蘇我、連は大伴・物部・中臣。
氏姓制度の身分・地位は世襲されたが、官僚制度の位階は一代限りであった。冠位十二階は大化の改新後位階を増し大宝律令の完成時には三十階となった。氏姓の制度は685年に八色の姓となった。やくさのかばね

仏教の伝来 538年あるいは552年とされている。六から七世紀の渡来人は韓民族の王族や 文化人に技術者が中心である。五経博士、司馬達等、易・暦・医博士等で飛鳥文化の形成に 貢献した。

我が国最初の諜報機関は馬飼部

我が国最初の諜報機関は馬飼部 
 日本書紀の第十七巻、継体天皇元年の条に河内馬飼首荒籠 (かわちうまかいのおびとあらこ) と云う人物が出てくる。 彼は北河内の樟葉の辺りの淀川の河川敷に開いた牧場で馬を飼うことを生業とし、馬飼部と呼ばれていた部族の首長である。 この馬飼部が、組織的な諜報機関としては、おそらく、我が国最初のものではなかったろうかと思われるのである。

 時は今から千五百年も前、六世紀初頭の事。 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。

 男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。 彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。 そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。 そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。 男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

 しかし、真実は、このような平和的なものではなかったと多くの研究者は考えている。 大和に覇権を確立していた応神王朝も、中興の大王雄略の没後は混乱と紛争が相次ぎ、 地方には群雄が割拠して末期的状況であった。 各地の豪族たちは風を望んで中原 (ちゅうげん) に進出して大王位を簒奪 (さんだつ) せんものと野望を膨らませた。 丹波の倭彦もその一人であり、越前近江の男大迹もその一人であった。 また、筑紫の王なる磐井もその一人であった。 最初に大和への進出を図った倭彦王は激戦の末に大伴金村の軍に敗れたが、 男大迹は二十年にもわたる長い長い戦いの後に大和に入り、遂に前王朝を滅ぼして、新たな王朝を開いた、 と云うのが真実に近いと考えられている。

 そして、河内馬飼首荒籠も単に男大迹の王の諮問に答えたと云うだけのものではなく、 男大迹の王の諜報機関の役割を担ったものと見られている。

 彼はこの間にあって、越前にある男大迹に逐一詳細な情報を提供した。 大和における混乱の状況、丹波勢と大伴金村の戦闘の状況、その戦いにおける金村軍の損耗状況、 それらの情報を越前に運び、今こそ立つべき好機であることを彼は男大迹に告げた。 いよいよ軍を起こすに及ぶと、その道案内の役を担い、我が一族の居住地なる楠葉に至るや、 そこを総司令部の場所として提供したのである。 男大迹大王が継体天皇として即位したのも、この楠葉の総司令部においてであった。

 河内馬飼首荒籠、彼はどうして情報機関の役割を担うことができたのか。 それは馬飼という生業によるものに他ならない。 当時、淀川の河川敷や河内潟に浮かぶ大小の島々には、馬の飼育を行う牧場が多数散在していた。 荒籠を首長とする楠葉牧も、そうした牧の一つであった。 馬は四世紀末頃から応神王朝と共に畿内に現れる。 馬飼たちは応神王朝において大王家に所属した下級の部民であり馬飼部 (うまかいべ) と呼ばれた。 彼らは飼育した馬を大王家に貢納し、それが大王家より貴族たちに下賜される。 その時、その馬の馭者もまた馬飼部のところから派遣される。 上流階級の人たちは乗用車を自分で運転するのではなく、お抱えの運転手に運転させる。 自動車より以前の馬車も、お抱えの馭者が馭するものであった。 これらと同様に、古代における馬も貴人は自ら馭すのでなく、馬の口取は馬飼部から派遣された男たちが行う。 彼らはあちこちの貴人のもとへ派遣され、それぞれに貴人たちに近い所で近侍する。 そして、彼らが耳にした情報は自ずから馬飼部の首長の所へ集まってくる。 これが馬飼部が情報機関たりえた理由の一つであると私は考えるのである。

 もう一つの理由は、彼らがその馬を用いて行った遠隔地間の交易によるものと考えられる。 彼らは大王家に貢納した残りの馬を、諸国の貴族たちに直接に売却して利益を得ることも行ったであろうが、 それと共に、それらの馬を荷物の運搬にも利用したであろう。 彼らは諸国の産品を大和の海石榴市 (つばいち) や河内の餌香市 (えがのいち) に運び、 また、それらの市 (いち) で仕入れた品を遠い諸国へ運んで、その間で利益を得た。 そうした馬飼たちは行先の国々で、その土地の情報を耳にし、 それらの情報はまた、自ずから彼らの首長の下に集まってくる。

 男大迹の大王は、彼らが持っている情報機関としての機能の重要性を、いち早く認識して、 彼らと厚い誼 (よしみ) を通じていたのである。 単に、知り合いだったとか、付き合いがあったとか云うものではない。 それと云うのも、当時彼らは社会的に 「下賤の者」 であった。 継体紀には 「貴賤を論ずるなかれ」 と云う継体自身の言葉が出てくるし、 履中紀には馬飼たちには入墨が施されていたことが記している。 古来、動物の飼育を業とする者は卑しい者とされていたし、 さらに、士農工商の語の示すように商人はもっとも低い階級であった。 彼らはこれら二重の意味において下賤であった。 彼らは社会的に差別されていた。 男大迹はその情報性において敢えて彼らを厚遇したのである。 そこに、私は、彼男大迹大王の持つ先進性と凄さを思う。 そして、荒籠 (あらこ) たちが男大迹のために献身したのも 「宜 (むべ) なる哉 (かな) 」 と思うのである。 

2009年3月29日日曜日

百姓の顔

百姓の顔 「被差別部落の民話・田中龍雄著 明石書店発行」
 むかし、飛騨国の人手の多い部落では、不作の年がかさなるたびに、代官所から戒められて、浄場めぐりをくりかえしたと。
 しきたり破る飼い主を、そのままにして見逃がせば浄場、村場の守りできぬ。
 そのうえ部落うちのぞうよもいるで、斃馬の届けを腕こまねいて待つよりも、戒めどおりに浄場をめぐり、村のようすを見届けようとな。
 そのつど人手をかき集め、目を光らせて乗りこんだとよ。
 行く先ざきの村役へ仲間の使いを走らせて、浄場めぐりの先ぶれしてな。ほかの仲間が手分けして、馬を飼っとる百姓家の庭さきから声をかけたり、人を見るとや聞きこみをして、馬の所在をたしかめたがな。
不作つづきの百姓家では,ません棒を立てかけたまま、寝藁一本見つか                          らぬほど、ねぶったように片づけた厩はかりが目立ったと。
 およそ飢饉とよばれる年は、その年だけが飢饉でのうて、まえまえからの不作がたたり、毎年根こそぎ年貢をとられ、隠して貯めた喰いもんが日ごと日ごとに減るおりに、一旦雪でもつもるとな。
 人の往き来が絶えてまい、喰いもん探しの場がせまくなり、まず病人や年よりがひだる腹かかえて弱ってまって、一日ごとにやせ衰えたと。
 地中の虫や木の皮や、草の根、木の根を煮て喰って、はては枕の蕎がらさえも腹のたしじゃと口に入れたと。
 喰えぬもんでも喰うすべを知っとる者が生き残り、喰えるもんでも喰うすべを知らんもんが死んでまったでな。
 ましてや、どこぞの飼い馬が倒れてまった、と聞いたがさいご。
 ひだる腹かかえた百姓たちが目の色かえて我れ先に、よってたかって切りきざみ、奪いあいして引きちぎり、それぞれ抱えて隠してまって、猪,熊なみに喰ってまい、皮も残さぬ始末じゃったと。
 どこそこで馬が喰われて皮がない、なんぞとな。人づてに噂を聞いた仲間のうちに
 「おのれの斃馬に手をかけながら、口をぬぐってわしらをば皮剥者とは身勝手じゃぞ」
 と、いきまく者もおったがな。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に、身分や定めはその余のことじゃ。わしらが飼っとる席ならば、焼いて喰おうと煮て喰おうと、勝手じゃろうが、と村うちで開きなおればそれっきりでな。代官所でもしまいには、見て見んふりをしとったと。
 飢饉が過ぎてもとうぶんは斃馬の届けが絶えてまい、部落の者が声あげて浄場の権限ふりかざしても、煙の上がらぬ始末じゃったと。
 飛騨国うちの部落では、維新いぜんにそれぞれが浄場、村場を手放すと、受ける部落がないままに、雇われ百姓や山仕事に精をだしたでな。
 不作や飢饉がないおりに、斃馬の始末に手こずった百姓たちは是非もない.
人がやること、ひとつこと。その身になれはなんでもやるて。
 浄場めぐりをそのままに、斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。
 美濃国では村々へ、馬を勝手に屠るな、と庄屋の強い達しがあってな。触れも不服な代官所では、やがて領内の馬持ち一統を庄屋ともども呼びつけて、かさねて強い戒めようじゃと。
 そのころ馬持ち百姓は、怪我や病いで切迫の馬を馬医者に診せもせず、部落の者にも知らせんでな。組内ぐるみで吊り出して、薮や林へ運びこみ、その場でつぶして皮剥いで、肉は田や畑のこやしじゃと、こまかく刻んで分けあったとよ。
 頭や骨は埋めてまったが、生皮ばかりは慾欠いて、部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。
 たびかさなるで庄屋から、つづけて部落へ達しがあって、皮にかかわる百姓をその場できっと取り押さえよ。隠しだては同罪で、訴人の者には銭をくれると、慾で釣ったがな。
 百姓がおのれの馬をどう片づけようが、わしらは痛くも痒くもないぞ.皮だけ貰えば渡世ができる。手間がはぶけてありがたや、とな。訴人までする仲間はおらなんだと。
 浄場めぐりの仲間らが林の道を抜けたらば、百姓たちがかたまって馬の始末をしとったで、つい物珍らしさに近づいて
 「ごくろうさまじゃ」
 と、仕分けの仕ぶりをまじまじと眺めとったらな。
皮を剥いどる百姓たちが、つくなったまま手を止めて、白眼ばかりで見上げたと。
 それも気にせんと眺めとったら、なんのことない百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がないで、やたらと刃物で掻き回し、皮を削ぐやら、穴あけるやら、声も立てんと馬一頭を、てんでばらば引き散らかしといて
 「いつまで覗いとるっ、去れと言うのが聞えんかっ」
 と、わめくでな。
 「その生皮を引き取るが、せっかく一枚の大皮に穴やら傷やらつけてまい、もったいないことするもんじゃ」と溜息ついたら
「皮は後ほど届けてやるで、ごたく並べず立ち去らんかいっ」
 と、血のりのついた包丁で向こうの道を指しといて、
「こやしつくりの邪魔するなっ」
と言わんでもよいことほざいたでな。
日ごろ馬持ち百姓が、切迫の馬をつぶして喰って、こやしにしたと誰はばからず、百姓なりの顔をしてな。部落の者を賤しめるのがごう腹じゃったで、ここぞとばかり
「なんのこやしじゃ」
 「田畑のこやしじゃ」
 「馬の肉を一口ほどに切り刻み、味噌のころ煮で喰ってまい、糞たれたのがこやしかや。いかにも念の入れようじゃ」
 と、言いだくれてやったがな。
 斃馬をかこんだ百姓たちは、立ち上がるどころかつくなったまま、肩の間に首たれて、まるっきり顔がなかったと。



解説と考察

①浄場、村場の守り: 斃馬の取得権限が及ぶ範囲を浄場・村場と呼んでいる.芝などと同義語.明治以前は斃馬の取得は穢多の権限とされていた.生馬の斡旋を行う者は馬喰労,牛馬の療治を行う者は伯楽,士分の持ち馬を療治する者は馬医者である.
②浄場をめぐり: 穢多による浄場の点検
斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。黒田三郎著『信州木曽馬ものがたり』昭和52年 信濃路発行の「馬のとむらい」
に同様の記載がある.馬をかつぐのには最低でも8人の男手が必要である.人力運搬は一人あたり25-30kg.小型の牛馬なら何とか人力で運べる.車力で運ぶ方法も考えられるが,重量と大きさ,道路の状況から無理と判断される.
③切迫の馬を馬医者: 外科・内科疾患で死に瀕している事を切迫と呼んでいるが,切迫の用語自体は明治期・西洋獣医学導入後のもので,近世の牛馬療治書にはこの用語は無い.
生皮ばかりは慾欠いて、生皮は穢多にとって最も重要な取得物.武具となる皮革を上貢する事で斃牛馬の無料取得権が保障されていた.『部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。』は,商品として斃牛馬が流通しはじめた事を示している.
④仕分けの仕ぶり: 解剖の様子.解剖だけなら腑分けとなるが,食用が目的であるから仕分けと呼んだのであろう.素人の技であるから当然稚拙である.『百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がない』と,玄人は良く観察している.百姓達は自分の持ち馬・牛を食用に屠殺している.

殿さんの馬

被差別部落の民話・殿さんの馬
 むかし、大垣の殿さんの馬が倒れてな。早や切迫のありさまじゃったと。
 城下町からうまやへ通う馬医者もおったが、なんせ親代々の引き継ぎで、治療といえばただ一つ、親が伝えた耳学問が頼りでな。たとえふわけを望んでも、斃馬は残らず部落へ運んでまうで、五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者がおったとよ。
 うまや番の小者が庄屋と連れだって部落へ来てな。城の重役さまの御意向で、お馬の病いを治すため、治療に手だれな者たちに馬医者の手伝いをさせるよう、身分は問わぬのお指図じやったと。
 ならばと部落の長老が、三つの部落と寄り合って、名指しで選んだ十人を、城のうまやへ差し向けたがな。面目つぶした馬医者が、 
「重役さまも物好きじゃ.田んぼのかかしを見るような」
 と、姿みるなりどぷついたとよ。
 うまやの番人が
「馬医者どのの御診断で、お馬は胆の患いじゃ」
と教えてくれたんで、部落の者が顔見合わせたと。この世の中の生きもので、胆のないものは馬と鹿。たらぬからこそ馬鹿じゃと言うに、無いものを患う馬があろうかと、いまさらながらあきれたと。 火急のさいじゃ遠慮は無用と、役人にせきたてられた一同が馬のぐあいをとっくり見たと。
 この馬は間違いもなく食滞じゃ。あてがう飼い葉が多すぎて、日ごろの調教が不足ゆえ、消化ぐあいがにぶいまま、腸がつまって熱まいて、押えてみても腫れとるぞ。こりや糞づまりの気もあるで、このさいいつもの荒療治、屁をさすまでが勝負じゃが、生きるか死ぬかは馬の運、今夜ひと夜さ皆んなして、賭けてみようとうなずいたとよ。
 にきで聞き耳たてとった馬医者がまたぞろいきり立ち
「不浄者のぶんざいで、こんどは治療に手をだす気かっ」と、血相かえてつめ寄ったが、うまや役人に押し止められたと。
 まず、大釜に湯をわかせ、さらし三反、座布団三枚、綱三本、唐辛子三合、筒一本じゃと注文したれば、馬医者どころか役人までのけぞるほどに驚いたとよ.
 倒れた馬をとり囲み、手桶に汲んだ湯の中へ、唐辛子三合ほりこんで、持参の草の実ひと握り両手でもんで掻きまわしたが、これが部落のロづたえじゃと。
 筒先きを喉もと深く差し入れると、喉の呼吸と調子をあわせ、三つ四つ五つと一升五合、馬の胃の腑へ流しこんだと。
 うまやの梁に綱三本を掛けおろし、腹と脇腹に座布団三枚あてがって、上から綱を引き廻し、ひの、ふの、みい、で綱引いて、倒れた馬を引き起したとよ。
「うぬらっ、お馬を殺す気かっ」
 と馬医者がわめいたが、こちらもいまは命がけ、返事無用と綱引いて、馬のひづめがすれすれに地につくほどにつり上げたと。 さらしの布を手ごろに裂くと、釜で煮たてた湯につけて、馬の体をあたためながら、背から腹へと揉みほぐしてや繰りかえし、腹に巻いとる座布団へ、手桶でたっぷり湯をかけたので、うまやに湯気がたちこめて、馬が
脂汁をたらたら流し、まるで湯治場にみえたとよ。湯をわかす者、馬の体をさする者、綱の加減をはかる者、湯気もうもうのうまやのなかで、部落の仲間が声かけあって、身も世もなしの荒療治をつづけたと。
 夜がしらじらと明けるころ、仲間のひとりが声あげて「やあ、聞こえるぞ、聞こえるぞ」と、馬の腹に耳あてがって叫けんだと。さては、と一同が耳すませたら、奥のほうから、ごろ、ごろ、湯気をたてとる馬の腹が鳴ったとよ。腹が鳴ったらしめたもの、いま一息と続けると、こんどは、ぐい、ぐい、ごろ、ごろ、と長鳴りしたぞと言う間もおかず、うまやのはめ板が割れんばかりの屁が出たと。 
「馬が屁をした」「屁が馬をした」とな。
運ぶ手桶を投げだして、どっとばかりに駆けよった部落の仲間が口々に
 「やった、やったっ」 と小おどりしたと。綱引き役がゆっくりと綱をゆるめて降ろしたらば、馬が四っ足ふんばって,おのれの力で立ったとよ。
もう安心じゃ、濡れた寝藁を替えるでなと、うまやの外へ引きだせば、治療の騒ぎを聞きつけて屋敷うちからぞろぞろとさむらい衆が寄ってきたと。 
  昨日にかわる馬の姿を一目みて「さすが名医じゃ」「馬医者どのは大垣藩のほまれじゃぞ」と、口々に誉めそやしたらな。前へでてきた馬医者が、にわかにぐっと胸を張り、さて、おもむろに馬の手綱を握ったと。
土下座しとった部落の者が、歯ぎしりをして立ちあがり、何か言おうとしたらばな。一緒におった長老が
 「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」
 と、肩をおさえてなだめたと。
 そのおり馬が首ふって馬医者の手綱をふりほどき、夜も引き明けの風のなか、鼻ふるわせて高々と二度も三度もいなないたとよ。

解説と考察
城下町からうまやへ通う馬医者は腑分け(解剖)の経験が無いから,五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者である.従って殿様の御馬は胆嚢が無いのに『お馬は胆の患い』となる.話の中にあるように馬と鹿には胆嚢が無いから,馬医の診断は明らかに誤診である.一方,被差別部落出身の治療に手だれな者たちは,不浄者が故に腑分けの経験もあり,一見して馬は食滞,腸がつまって熱が出た糞詰まりの状態で,馬が伏して病む程危険な切迫した状態である事を見抜いている.
唐辛子三合の唐辛子は番椒.太閤秀吉の時に朝鮮より種を取来るとされる.漢方で薬として用いられるのは明代から.薬味は辛,薬性は温.煎剤には殺菌作用がある.持参の草の実ひと握りとは,おそらく牽牛子,アサガオの種であろう.牽牛子は民間・百姓の薬で大小便の不通に著効がある.薬味は苦,薬性は寒.この処方の内服と,吊り馬にしてのマッサージ・温浴の治療法は極めて理にかなっている.
てだれな者達の荒療治が功を奏して,馬は治癒するが,手柄の部分は『さすが名医・馬医者どのは大垣藩のほまれ』と馬医者に持ち逃げされてしまう.
一緒におった長老の「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」の言は,牛馬の療治に携わる者の心意気を良く表し,その言葉に反応した馬の様は,馬の方が馬医者よりも賢い生き物である事を語り伝えている.  

天狗の足あと

天狗の足あと 

 むかし、美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたりじやったとよ。
 なんせ斃馬の皮だけ目につけとったで、丈夫で生きとる馬や牛を、わざわざ落とすなんぞ、ほってもなかったでな、役人は部落に斃馬だけを始末させといて取締ったとよ。
 馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせて、双方におのれ勝手な真似をさせんなんだと。
 斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送ったが、やがて皮革の値がつり上るにつれて、おのれの欲が先きに立ってな。斃馬が出たと、いち早く聞きでかした部落のもんが勝手に駆けつけ、百姓もまた村方にかくれて取り引きしたで、これを部落ではさんしょの拾い得、首姓は捨て得と呼んだとよ。
 拾い得に役人の咎めがないと見定めると、部落の金持ちは人手を使って、大びらに村々の斃馬さがしに目を配ったが、そのうち、岐阜あたりの部落に、佐吉という目はしのきくじんがおってな、拾い得の人足に使われとったと。
 世間は昨今、天狗党の噂でひっくり返えっとってな、やれ、昨日は行列が高富村へ向けて芥見村から長良川を押し渡ったが、なかに白髪あたまの婆さがおって、これが巧みに馬をのりこなし、天狗党を指図して川越えさせたげな、なぞと噂を聞くたんびに、天狗党よりも婆さが乗った馬に気をひかれたとよ。
 戦する気で行列組んで諸国を押し渡るからは、乗る馬、引く馬も連れとるで、これから先の道中で、かならず斃馬が出るじゃろとな。もうけ話に連れはいらん、斃馬はぜんぶ拾い得とばかり、たった一人で天狗党の後を追ったと.
 根尾村の道をあっちこっちと目を配って念入りに探しまわって歩いたが,まずは冬枯れの尾根道に猫の仔一匹落ちとらなんだと.
 たどりついた根尾村は,大雪で,親が懇意な猟師に聞けば,天狗党は今朝がた雪掻き分けて出立したと.
 あわてて村のはずれから、越前ごしの谷間の一本道を追ったらば、三尺ばかりの狭い雪道を、板ほどにも踏みしめた天狗党の足跡のなかに、馬沓の跡も残っとったと。
 ここまで追って来たからは、せめて斃馬の一頭でもと、耳たぶ握って走ったらば、目もくらむような崖っぷちの金具ん下に、
 「あった、あった」
推量どおり馬が落ちとったと。
はるか河原の雪の上に、ぴ-んと四つ足を空へ突っ張って、藁馬みたいにひっくり返ったは、深しあぐねた斃馬じゃったと。
 あたりに馬の荷が散らばって、崖の上から細引きが一本垂れたまんまのありさまは、馬を落した誰れぞが泡喰って崖の中途まで降りてはみたが,余りの高さに胆をつぶしてあきらめたな、と見てとったと。
 佐吉も切ない思いでな。
 この大雪の最中に四、五丈もある崖下の斃馬や荷物が拾えるはずも、運べるはずもなかったで。
 雪解けの春まで待っとっても、河原の斃馬は鳥やけものの餌食になって、残るは骨ばっかじゃ.
 ああ、この世はどいつもこいつもこのおれに、銭もうけさせんように出来とるわ、とな。
 あきらめも早いじんで、すぐさまその場から引き返したとよ。 途中、雪道に突き立ててあった槍の柄を拾ってな、かついで家へ戻ったが、戸口の隅の暗いところへ天びん棒と一緒に立てかけといたと。
 昭和のはじめにな。
 佐吉爺さんの三〇何回忌の法事をするとて親類一同が集まったと。
 戸口の隅を片づけとったら、爺さんの一つ話に聞いた槍の柄がほこりにまみれて出てきたと。
 越前の部落から嫁に来とったかかさが話を聞いて、
 「わしの姥さが娘のころ、仲間の娘と連れだって、海岸ばたの松原へ松ご掻きにいってな。
 熊手で松ごを掻いとったら、熊手の先きがにわかに重うなって動かなんだと。
 力をこめて引っばると、熊手の先きに髷がからんだ生首が二つも転がり出たとよ。
 にきで松ご掻いとった娘の熊手にも、また一つ生首がかかってな、こっちは髷が皮ごと抜けたんで、はずみを喰って尻もちつくやら、叫ぶやら、いずれの首も両眼を見開いて、泥のつまった口をばっくりあけとったと。
 べったり腰を抜かしたまんま震えながらも辺りを見廻したらば、数の知れんほど埋められた者の先が、まるで枯草を敷いたように砂の上でなびいとったとよ。
 娘二人はな、松原の俄作りの首打ち場の真ん中で、松ごを掻いとったんじゃと。それいらい、婆さはな、自分の髪の毛でさえ気分を悪うして、思い出すたんび熱を出したそうな」とな。
越前ごえした天狗党が、部落のにきの松原で一人残らず首打たれても、
そりや覚悟の上じゃで構わんが、この槍の柄の持ち主も覚悟さだめて死ねたじゃろか、なにも供養じゃと一同して、習い覚えた経をあげたと。


解説と考察

➀美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたり さんしょの意味は不明.せっぱくは切迫.傷病家畜の一部は獣医師の診断により切迫屠殺が可能である.と畜場法第九条 二 獣畜が不慮の災害により負傷し,又は救うことができない状態に陥り,直ちにと殺することが必要である場合. 三 獣畜が難産,産褥麻痺又は急性鼓張症その他厚生省令で定める疾病にかかり,直ちにと殺することが必要である場合. 四 遠洋航路を航行する船舶内・・・
②馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせ・・・穢多には斃牛馬の無料取得権がみとめられている.


③斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送った・・・なめし屋はこのほかに猟師からも動物の毛皮を手に入れている.なめし屋は原皮を水に浸して戻してから脳漿鞣を行った.この鞣方は古くからのもので1950年代頃まで行われていた.

浄場めぐり

浄場めぐり
 むかし、数ある部落のなかで四、五軒ばかりの部落では、仲間の人手が少ないうえに、年がら年じゅう近在の野良仕事やら山仕事にやとわれて、そればっかしの日暮らしでな。
 いつのまにやらしきたりの浄場はもとより、村場のつとめを受けかねて村々からの知らせがあれば、人手の多い部落につたえ、場銭をもらって肩がわりしたと。
 代官所でも山里なぞの数のすくない斃馬なんぞの扱いは、村から小言のでぬかぎり、見てみぬふりのありさまでな。
 これさいわいとあんきして、たとえその日の喰いぶちでも、決まった仕事の鋤、鍬とれば、目はしきかせてだれまわる浄場めぐりがうとましくなり、その余のことは放ってまって、雇われ百姓に執心したと。 肩がわりした部落では斃馬の出どこをたしかめて、仲間の浄場に相違はないか、大川なぞを渡らずに大八車ではこべるか、車のかよわぬ山奥ならば、皮だけもらって戻れるか。
 その地の村役の口ききで、始末のできる場があるか、なんぞを問いただしてな。間違いないかを見さだめたと。一頭分の斃馬なら二百三、四十貫はゆうにあったで、山坂ばかりの道のりならば、あんまり斃馬が大きいと、前でかじ棒がはねあがるのでな。荷台のしりに三本もの地づりを立ち高につけて、車の輪にははどめのころをつり、坂道くだる用心したと。
 たとえ日がえりの道のりであれ、浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだがな。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかったと。
 雨が降ろうと日照りであろうと、笠のかわりのほおかむり。手拭ででこにひさしをつくり、車をかこんだ七、八人が顔もあげんと押していったと。
 集めた皮はいのししや熊の毛皮とひとつにしてな。
 ちぢまぬように竹張りをかけ、大きな凧をならべたように、部落の小道に立てかけたり、塩づけにして貯めといて、なめしの部落へ運んで売ったと。
 雪の降る日に酒田の畦道で、行き逢うたのが馬連れの百姓でな。 部落の仲間が目八分で、沼田に片っぼの脛まで入れて、馬を避けたが避けだらなんだと。
 馬の胴っ腹で顔こすられたで、もう片っぽも踏みこんで、そのまま馬を通したが、両脚が抜けんで困っとったと。
 そしたら百姓が振り向いて
 「そこに、そのまま突っ立っとれ。案山子のかわりに使ってやるわ」
 と言いだくれたでな。
 仲間がすかさず言い返したと。
「お前が曳いとるのは浄場の馬じゃ、やがて死ぬまで預けとく」
 夕立ち雨が降っとるおりに、源弥さが家でのさこいとって、向こうの河原を眺めとったらば、百姓たちが馬曳いて通ったと。
 通ったわい思ったらば、またぞろ馬が曳かれていったと。
 この夕立にどこぞで馬市でも立っとるかやなと。そこで源弥さがお嬶言ったと。
 「お嬶、見よ。あの馬は一頭余まさず村場の馬じゃ。さすればわしらが預けた馬じゃ。わしらの身上を百姓が曳くわ」

解説と考察
 この一話で,穢多の斃牛馬取得のありさまを手に取るように見る事が出きる.少人数の部落では雇われ仕事で生計を営むようになり,本業の斃牛馬の取得は,その権利を他の大人数の部落に金銭で譲り渡している.
穢多が個人的に斃牛馬の取得が可能な場所がしきたりの浄場で,百姓の牛馬が死亡した場合は,定まった場所に捨てるように定められている.この場所を百姓の側では「ダブ」とか「牛・馬捨て場」と呼んでいる.また,西日本ではこの区域を「旦那場」とか「芝」とも呼んでいる.
しきたりの浄場は村はずれにあり,この場所から部落への斃牛馬の運搬は人力でも何とか可能である.しかし,他人の浄場は遠方にあるために,斃牛馬の運搬には様々な困難がつきまとう.近世の馬は小さいと言っても二百貫目以上の目方があり,男手八人は最低限必要となる.従って荷車も代八人の大型車・大八車である.大八車は小型の車力と混同される場合があるが,近世の家具・建具は荷台の広さが三尺・六尺あれば殆どの荷物は運搬が可能なように作られている.災害の多いわが国では,箪笥・長持はどんなに大きくとも竿で運べるように仕立てるのが指し物の常識であった.アルミサッシが使用される以前の戸・障子・襖は並みの家なら自転車のサイドカーで運べる程の量.大きな屋敷でも荷車・リヤカー一車程しかない.
一貫目は3.75kg.二百貫目は750kg.1tの荷重に耐える木製の荷車と言えば大八車である.この大八車も道の状況では通行出来ない場所が数多くある.川,山道など物理的に通行出来ない時と,積荷の種類・季節によって通行出来ない時がある.この様な場合は最寄の始末の出来る所に斃牛馬を運び,生皮を採って残りは穴に埋めた. 
『浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだ。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかった・・・』生皮を採取した斃牛馬は油を付けて焼却するとされているが,実際は食用に供した場合が少なくない.
鎌は縄・筵を切る道具で,剥皮・解剖に用いる刃物は出刃としている.先の尖った身の厚い出刃包丁を連想するが,出刃包丁で捌くのは魚・鳥程度で,大型の獣の皮を剥ぐのには適していない.現在でも剥皮は剥皮刀と呼ぶ薄身の両刃の刃物を使用している.使い勝手を考えれば剥皮に使用する刃物は出刃包丁よりも,馬繕いの爪きり包丁に似た刃物であろう.剥皮に続く解体では鋭い出刃包丁が便利である.
解体には・・・勝手な名称であるが,「猟師流」・「肉屋流」・「学者流」等の流儀がある.「猟師流」や「肉屋流」は腑分けの経験の蓄積から生まれたもので,「学者流」は明治以降の西洋獣医解剖学・病理解剖から派生したものである.いずれにせよ近世の馬医者は腑分けを行っていないから,解剖学的な知識がない.馬の胆の腑の患いと見立てて,「馬と鹿は胆の腑が足らぬ故に,足らぬ者を馬鹿と云う」と,知識を持つ者から馬鹿にされる.
学而不思則罔