2011年12月29日木曜日

化成業と太鼓の製造

明治二十五年東京府警視庁令第三十七号・魚獣化成場取締規則に,化成業とは『魚獣ヲ原料トナシ,油,脂肪,膠,鞣,肥料其他工業材料ヲ製造スル』とある.太鼓の製造業者は直接生皮を屠場に注文し,鞣し加工は太鼓業者が行う.太鼓には傷の無い良質の皮が必要なため,解体業者を指名する事もある.

2011年12月26日月曜日

屠場文化.桜井厚・岸衛編.創土社に記載された博労

この書では博労を家畜商とする.博労の職種が衰退するのは耕運機が発達する六十年代で,この頃からすき焼きで美味い近江牛がいなくなったとする.牛が最も美味いのは六歳頃で,現在の肉牛の平均年齢は二歳半とする.牛の年齢は歯で決め,産児数は角で計る.

2011年12月18日日曜日

北斎漫画六編の蹄繕い

伯楽による蹄の繕い.流石に北斎は一流の絵師だけあって良く見ている.包丁の裏表まで誤りは無い.更に助手の描写は実際に目にした者だけが描ける絵である.馬という動物は四足では自在に動けるが,三足では立つだけ,二足になると転ぶから,簡単な徒手保定で蹄の繕いが出来る.牛馬の手足を持ち上げるのは随分と力が要るように見えるが,実際は三本の手足に体重を分散するので,保定する人間はわずかの力である.考古学者の論文には馬はデリケートな動物で扱い難いとする者が多い.確かに馬は知能が高く,繊細な生き物ではあるが,調教されると大変に扱い易い動物になる事も確かである.明治大帝愛馬の逸話の数々が「日本馬政史」にある.
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2011年12月13日火曜日

療馬方符

療馬方符 大きさ縦三寸六分横二寸一分,匡郭三寸方形,半葉五行,行空一格十五文字.題箋書名 療馬方符 全
版芯書名欠

 療馬方符 全
 
 療馬方符
   緒言
一国家維新以来博く海外各国の所長を採取す此に於て人才輩出し文学技芸駸々乎と して日に月に開明に就く 詢に千歳一時の秋 な り苟くも文芸に従事する者奮発勉励せざるは莫し独り怪しむ世の馬医者流仍漢流の疎漏杜撰の習に因襲する者多く洋流の精緻玄妙の学を講習す

る者尠きを予此に憾あり乃ち自ら剪劣を省みず彼一千八百六十二年美国蘇篤涅安実氏著する所の療馬書一編を訳し以て江湖の有志に問はんと欲す然れども職務鞅掌にして未だ速に其業を卒ゆる能はす故に先づ治療上日常必要の薬剤篇を鈔訳し印刷して以て同僚に頒つと云ふ
一篇中に載する所の薬名は大概先哲

の訳例を襲用す其未だ訳を経ざる者は姑く原名を写し以て後の君子を俟つ
一秤量は各国普通の者を用ゆ然れども爰に其比例を掲げ以て初学に便す

ガロン  バイント  ポンド  オンス
公八彬 彬十六オンス ポンド十二オンス オンス八オンス
ダクラム三スクルフル 銭同ダクラム スクルフル二十グレイン グレイン一厘六毛六
明治七年三月下旬
周三識

療馬方符目次
更換剤 催眠剤 鎮痛剤 制酸剤 殺虫剤 鎮痙剤
下剤 収斂剤 発泡剤 腐蝕剤 膏薬 浣腸剤 爽心剤 緩和剤 発汗剤 催膿剤

利尿剤 塗擦剤 乳剤    袪痰剤 解熱剤 洗滌剤 麻酔剤 清涼剤 鎮靖剤 
衝動剤 健胃剤 上血剤 強壮剤
目次終

療馬方符
美国 蘇篤涅安実氏著
陸軍二等軍医正 三浦煥校訂
陸軍馬医副 深谷周三鈔訳

更換剤

更換剤の語は其字義穏当ならざれども世間普通の語にして衆人の耳目に慣習して了解し易きを以て因襲する而巳其配剤各個の薬性に就て一々之を諭し更換の効を呈する
は什麼の理を以てするやと問はば各自に此を詳説する事難し但総て更換剤と称するは強壮薬健胃薬等の別ある如く各個一定の疾病に投与し其奏効を冀望す可きものにあ

らす唯一時に病勢を撲滅し其猛威を変革するにあるのみ通例其効を収むる事緩慢なりとす而して肝腎皮膚の如き排泄器には能力を呈する事更に確実なり
第一方皮膚病を治す
吐酒石五オンス,生姜末三オンス,阿芙蓉一オンス,舎利別適宜を以て,十六丸と為し,毎夜一粒を與ふ
第二方清涼剤

バルバドース産蘆薈一オンス西班牙石鹸一オンス半,生姜末半オンス,舎利別適宜を以て六丸と為す毎朝一粒を服す
第三又方
バルバドース産蘆薈一銭半,吐酒石二銭,西班牙石鹸二銭を以て丸とす
第四方尋常更換丸
黒硫化安母尼亜二銭,乃至四銭

硫黄二銭,亜麻仁末乃常水適宜を以て一丸とす
第五方分泌不良を治す
硫黄花六オンス,吐酒石五銭乃至八銭,昇汞十グレイン亜麻仁末適宜を取り熱湯にて混和し製して六丸とし一週間に二回或は三回に分服す,
第六方胃弱を治す
甘汞一刃,蘆薈,葛斯加里児刺末

建質亜那末,生姜末,各一銭石鹸三銭舎利別適宜を以て丸とし,一週間に二回或は毎隔夜に分服す,
催眠剤
催眠剤は知覚を失わはしめ以て疼痛を鎮静する能あるものを云ふ其功殆んど麻酔薬に斎し内服すれば単に麻酔の功を奏す其施用の尤も切実にして且つ安穏なるは吸収せし

むるに在り殊に瞑朦水コロールホルムの如きは方今一般に賞誉せる良薬にして他に類似せる品ありと雖も未だ其用法の如斯く切実なるものを聞かず縦令ひ麻酔沈痛の作用は常に一轍たれとも其功の優劣に至ては同日に論す可らす今亜爾箇児を以て例するに麻酔沈痛に至るまでの際多少精神に不良の感動を起し且つ其功を収むるの作用は続発なるが故

に用量も亦多からざるを得ず是を以て或は危険証を誘発するの畏あり
鎮痛剤
又麻酔剤と名く此諸薬胃に入り速に血液に混じ一異の能力にて神経中枢に効を呈し先ず神経系を興奮し続て乍ち之を抑圧す此続発作用を速にせんと欲せば須らく用量を増すべし都て皆な神経系を沈静し以て下痢を止め或は疝
痛又強直の

如き痙攣を緩快す殊に亜芙蓉の如きは馬の鎮痛薬として最も賞用す其用量須らく多かる可し
  第七方鎮痛飲疝痛を治す
亜麻仁油一彬,的列併其底那油一オンス,乃至亜芙蓉液一オンス,乃至二オンス,混和し,毎一時分服せしめ軽快を得るに至る
第八方鎮痛丸緩性疝痛を治す
亜芙蓉末半銭,乃至二銭,西班牙

石鹸二銭,龍脳二銭,生姜末一銭半,糊丸とし或は糖蜜丸とし,毎一時に分服し,疼痛全く止むに至るべし,常に膀胱に包裏し貯ふべし
第九尋常鎮痛丸
亜芙蓉半銭,乃至一銭,石鹸二銭乃至四銭,生姜一銭,乃至二銭,遏泥子末半オンス,乃至一オンス,葛縷子油半銭,舎利別適宜を以て丸と為

し,或は温麦酒半彬に溶解し,飲剤として與ふ,
第十方加多流下痢を治す鎮痙飲亜刺比亜護謨一オンス,
熱湯一彬に溶解し,薄荷油二十五滴,亜芙蓉液半オンス,
乃至一オンス半を混和し,朝夕分服すべし
第十一方慢性下痢
石灰末,亜剌比亜護謨末,各半オンス,亜芙蓉液半オンス,薄荷水一オンス,混合

し,朝夕に分服す
   制酸剤
此の薬剤は大量に用ひ以て胃酸を中和する性あるものにして或は更換剤の区分に属すとせり即ち亜児加里及亜児加里性の品なり然ども馬に用ゆるの方は未だ之を聞かず
   殺虫剤
虫類を駆逐する薬品にして学者或は希臘語にて「アンヂエルミンシク

ス」と呼び或は羅甸語にて「プルミフェヂス」と称ふ英人鄙俗の称呼にて唯虫薬と云ふ其作用虫類をして衰憊せしめ或は死斃せしめ且つ腸管の裏面を刺激し之を駆除するの性あり
第十二方殺虫丸[カムギー氏嘗て之を賞用せり]
亜魏二銭,甘汞一銭半,七葉樹皮末一銭半,綿馬油三十滴,糖蜜適

宜を以て丸となし,夜間に与え,翌朝左の下剤を投ず
第十三方
亜麻仁油一彬,的列併其底那油二銭,混和し用ゆ
鎮痙剤
鎮痙剤は筋肉の非常に攣縮する疾病即ち稸掣及四肢痙攣等に用いゆ此諸病は其原由異なりと雖ども一般刺衝機の亢盛に由るが故に治方は

姑息に所置せんより寧ろ之を根治するに若かす他の下剤鎮痛剤更換剤興奮剤強壮剤等の如く薬品学へ区分を為す諸薬より選択し採用すべし故に多く方符を掲示するは無用に属するに似たり但其特異効能ある品一二を示し其各箇の本能は別に詳説せず
第十四方治疝飲
的列併其底那油三オンス半,亜芙蓉液

一オンス半,蘆薈一オンス」先づ蘆薈末を温湯に溶解し爾後余の薬品を和し,與ふ
第十五方浣腸法
的列併其底那油六オンス,蘆薈二銭,温湯六彬に溶解し,次に的列併其底那を加え,蜜に撹拌し用ゆ
第十六方鎮痙飲
杜松子酒四オンス,乃至六オンス,蕃椒丁幾二銭,亜芙蓉液三銭,温油一彬

半に混和し飲剤とす,若し惞衝の徴を看れば須らく後服を止むべし
下剤
下剤は其配合薬品各自の本能成分を異にすと雖ども皆是れ腸管の排泄機能を催進する性有る者なり甲は其刺激にて腸の筋衣を収縮し効を奏し乙は饒多の水液を排泄せしめ恰も腸管を洗滌する如き能を

呈し丙は二個の作用を兼併す而して各自其能力を達するに腸管の部分を異にす甲は小腸を衝動し乙は唯小腸に路を取る而巳にして此に感触せず通過し去り大腸に至り能を呈す丙は二個の効能を併せ全腸に効を奏す又下剤に一異性の品あり便ち水銀剤大黄等の如し肝臓に感触し然後本能を呈す是れ一回血中に吸収され再び滲出し其作用を

顕すものなりまた薬液を静脈に注入すれば直ちに能力を腸に波及する事更に遽なり之を施すには須らく腹部静脈の下部に於てすべし下剤の能力皆同じと雖も其奏効の強弱にて自ら峻緩の種別を為す由て緩下剤峻下剤の名あり
第十七方通利丸
蘆薈三銭,乃至八銭,石鹸四銭,生姜一銭,を混和し沸騰せる熱湯

の少量を以て溶解し,次に常丸の度に至るまで,徐々に蒸発せしめ丸に造る,此方能く腹痛を治す,
第十八方温下丸
蘆薈三銭,乃至八銭,炭酸曹達半銭,香竄末一銭,葛縷子油十二滴混和第十七方の如く,次に油を加ふ,
第十九方緩利丸


蘆薈三銭,乃至五銭,大黄末一銭,乃至二銭,生姜末二銭,葛縷子油十五滴,第十七方の如く混和す,
第二十方緩利丸胃弱の馬に用ゆ蘆薈三銭,大黄一銭,乃至二銭,生姜末一銭,葛斯加里児刺末一銭,葛縷子油十五滴,炭酸曹達一銭半,前方の如く混和す,
第二十一方甘汞下剤
蘆薈三銭,乃至六銭,甘汞半銭,乃

至一銭,大黄一銭,乃至二銭,生姜半銭,乃至一銭,石鹸二銭,前方の如く混合す,
第二十二方緩下飲
蘆薈三銭,乃至四銭,白桂一銭,乃至二銭,酒石英一銭,薄荷水八オンスに混和す,
第二十三方
蓖麻子油三オンス,乃至六オンス,バルバドース産蘆薈三銭,乃至五銭,炭

酸曹達二銭,薄荷水八オンス」先つ薄荷水温め蘆薈を溶解し,然る后他品を投す,
第二十四方緩和開達下剤
蓖麻子油四オンス,瀉利塩三オンス,乃至五オンス,燕麦煎汁二ポンドを以て混合す
第二十五方緩和下剤
蓖麻子油四オンス,亜麻仁油四オンスを熱湯一彬に混合す

第二十六方卒倒に用ゆ
蘆薈四銭,乃至六銭,食塩六オンス,芥子末一オンス,常水二彬に混合す
第二十七方緩和清涼下剤軽感胃に用ゆ
瀉利塩六オンス,乃至八オンス,シ勿乙二彬,
第二十八方灌腸
食塩四オンス,乃至八オンス,シ勿乙八オンス,乃至十六オンス,
収斂剤

収斂剤は内外共に用ひ若くは直ちに局部に撒抹し若くは血液に吸収せしむる等なり蓋し其作用は動物の組織を収縮するならん然とも之を精密に試験せんと欲し細に其効理を窮極すれは恐らくは大ひに疑團を生するに至らん或は其理の未た詳かに了解し克はさるものは唯一異妙力有るものとし暫く之を措くへし内服は飲剤とし又外用して

潰瘍及損傷等を治す
第二十九方血尿を治す
阿仙薬末半オンス,明礬半オンス,葛斯加里兒刺皮末若くは糖蜜適宜を以て丸とし,一日両度に服用す
第三十方蜜尿を治す
阿芙蓉細末半銭,生姜二銭,槲皮末一オンス,明礬適宜を採り加蜜兒列茶一彬に,溶解し用ゆ,

第三十一方膿潰に用ゆ
明礬末四オンス,鉛丹膏一オンス,
第三十二方
皓礬四オンス,酸化亜鉛一オンス,研和す
第三十三方収斂飲
護烏刺爾度越幾斯二銭,乃至三銭,常水半彬,
第三十四方
硫酸銅一銭,乃至二銭,常水半彬,
第三十五方蹄踵の腫瘍に用ゆ

酢酸鉛一銭,家猪脂一オンス,練合,
第三十六方収斂膏
消酸銀末半銭,護烏刺爾度越幾斯一銭, 家猪脂一オンス 練合し毎夕少許を取り用ゆ
発泡膏
発泡膏は外皮を刺激し以て真皮と外皮の間に明汁を滲出せしめ由て水胞を発せしむ然とも毛髪上に攤すれは其効を達せす用方二様あり

甲は反対刺激を目的とし外表を刺激し新に一軽証の病患を造り以て内部或は隔離せる部分の患苦を減少す乙は馬胃通例水胞膏と名け唯以て局部の血管より明汁を滲出せしめ其部の患苦を軽快す始め刺痛し続て水液滲漏し来る又其刺激力にて吸収を催進するの能あり
第三十七方緩和発泡膏対衝方とし用ゆ

家猪脂四オンス,溺茶的列併底那一オンス,芫菁末六銭,混和し施用す,
第三十八方強発泡膏,対衝法とし用ゆ,
的列併底那油一オンス,硫酸二銭,謹慎し研和し,次薬を加ふ,家猪脂四オンス,芫菁末一オンス,練磨し用ゆ
第三十九方強発泡膏,対衝法に用ゆ
強発泡膏四オンス,屋里瓦尼謨油半

オンス,龍骨木細末三銭,芫菁末半オンス,混和し用ゆ,
第四十方急製発泡膏,対衝法に用ゆ,
芥子末八オンス,常水にて泥とし,的列併底那油二オンスを加へ,強石鹵砂精一オンスを混合し,急性掀衝等に胸腹及ひ脊椎に塗擦薬とし用ゆ,
第四十一方水胞膏

強水銀膏二オンス,屋里瓦尼謨油二銭,昇汞二銭

三銭,練和して手頭にて擦入す
第四十二方強水胞膏スブレンツ足部息肉レングポンス蹄脚腫瘍等に用ゆ
第二沃度汞一銭,乃至一銭半,家猪脂一オンス,用方先つ脚の毛を剃去し然後之を塗擦し,痛苦を起すに至れは,日々亜兒尼加花剤を以て洗浄すへし,此法亜兒尼

加花丁幾一オンス,常水十二オンス,乃至十五オンス,に混合す
第四十三方,流動水胞膏,
芫菁末一オンス,的列併底那精二オンス,メチーラテツト酒一彬を混合し十四日を歴る後に至て用ゆ
第四十四方
芫菁末一オンス,尋常木醋一彬を混合し十四日を歴る後に用ゆ
腐蝕剤

腐蝕剤は其元質の化学的作用にて動物組織を荒蕪する性有るものなり二種に区分す便ち一は烙触法例之鉄烙の如し一は劇腐蝕剤なり鉱類を以てす苛性加里消酸銀昇汞等の如し
(烙触法)は外科手術篇に詳なり爰に掲示するは尋常化学的作用にて功を収むる劇腐蝕剤のみ
(苛性加里)は施用し難し貯蓄の方難けれはなり且つ馬に用ゆるは極て稀なり
(硝酸銀)は方今賞用するの一品にして常に諸般の顆粒状潰瘍に用ゆ
(硫酸銅)胆礬は硝酸銀に同しく必要品なり然とも較や劣れりとす膝月國の外傷及息肉の如き総て疣贅及顆粒状の腫瘍に擦薬とす

(昇汞)撒末とし疣贅息肉に甚た効あり然とも注意熟考して用ゆへし些少の疾患には屡々之を用ゆれとも大創傷には老練の巧手にあらすんは能く施用し能はすとす其方摩擦後暫時を過き除却して洗滌すへし腐蝕方とし用ゆる方法は尚ほ後篇を参考すへし
(砒石)昇汞の如く刺激激烈ならされとも之を用ゆる甚た稀なり凡て疣贅息肉の尖頭に擦入すれは則ち結痂して速に脱落す
(塩酸安質母尼)又安質母尼酪と云ふ苛性加里に比すれは較や強し単用し或は多少の水を加へ希薄にして用ゆ
(格魯兒亜鉛)有力の腐蝕薬なり七銭を取り常水一彬に和し経久の瘻瘡に注入す

(緩性腐蝕剤)緑青」散末一分に家猪脂三分を和し軟膏とし用ゆ
(赤降汞)右に同し
(枯礬)細末とし撒布す
(白糖)末とし用ゆ
(硝酸銀液)硝酸銀五グレイン乃至十五グレインを蒸留水一オンスに溶す
(胆礬液)胆礬十グレイン乃至十五グレインを蒸留水一オンスに溶す

(格魯兒亜鉛)一グレイン乃至三グレインを常水一オンスに溶す
膏薬
硬膏は多く脛脚熱する者に適す而して野外に放牧する者には須らく綿布にて繃縛し以て自由を得さらしむへし
第五十九方常用硬膏
ビルキュデー松脂四オンス,バルバドース産多兒六オンス,蜜蝋二オンス,鉛

丹四オンス,
右先つ松脂,多兒,蜜蝋を練合して後鉛丹を加え,其稠和を得れは,放冷し貯ふ,若し硬固に過れは家猪脂,及麻油少許を加ふ,蓋し気候の寒暖に関し,硬軟一定せす
第六十方亜兒尼加膏
加奈答拔撒謨二オンス,亜兒尼加葉末半オンス,

右拔撒謨に亜兒尼加葉を混し次に的列併底那精を加へ,徐々に攪拌し稠和するに至れは薄布に展し,全脛に貼す第五十九方の膏薬にて,之を纏束して,繃轉すへし」亜兒尼加は血管の衰弱を治するの效あるか故に有力の強壮外敷薬とす,
灌腸剤
灌腸剤は腸の壅塞及痙攣を軽快す

るの效あり通常単微溫湯或は燕麦煎汁を以てす機械は必す撓屈管にして障扇ある品を採用すへし
痂痛に的列併底那を以て灌腸に施すは痙攣剤の條を看るへし下剤灌腸法は下剤の條を看るへし
第六十一方鎮痛灌腸剤
亜芙蓉二銭を水に溶し,糊粉適宜を溫湯に和し相混し用ゆ

爽心剤
爽心剤は全身を一時に衝動す殊に胃に效あり労働過度にて身体衰弱する者に用ゆ
第六十二方強心丸
葛婁子末六銭,生姜末二銭,丁香油二十滴,糖蜜適宜を以て丸とす
第六十三方
遇泥子末六銭,益智末二銭,括矢

亜末一銭,葛婁子油二十滴,糖蜜適宜を以て丸とす,
第六十四方強心飲
精製溫麦酒二彬,生姜砕細多量を加ふ,
第六十五方強心丸
遇泥子末半オンス,海葱末一銭,没薬末一銭半,百露拔兒撒謨適宜を以て丸とす
第六十六方去痰錠

甘草末半オンス,護謨安母尼亜幾三銭,トリユ拔兒撒謨一銭半,海葱末一銭,亜麻仁末適宜,熱湯にて攪拌し,一塊を造る,
緩和剤
此は腸管腎臓及膀胱の刺衝機過敏を緩和する目的に用ひ兼て尿の分泌を催す
第六十七方緩和飲
亜剌比亜護謨半オンス,常水一彬に

溶解し飲液或は末とし朝夕に分与す
第六十八方
亜麻仁四オンス,常水二彬にて煎熬し,稠厚となるに至るを取り,前方の如く与ふ
第六十九方亜兒答亜飲
有て亜兒的亜二握,常水二彬,第六十八方の如く,煎熬す,用方も亦同し,

発汗剤
此は表皮に一の感能を起し蒸発気を催進し若くは其量を増さしむる者なり
第七十方尋常発汗飲
流動酢酸安母尼亜(民垤列里精)三オンス,乃至四オンス,阿芙蓉液一オンス,を混合し,夜間に与ふ,
第七十一方
流動酢酸安母尼亜二オンス,硝酸亜

的兒二オンス,用法前方の如し,
第七十二方(ハイドポヲント)病名に用ゆ
吐酒石一銭半,龍脳半銭,生姜末二銭,阿芙蓉半銭,葛婁子油十五的,亜麻仁末に熱湯を和し丸とし,一週に二回,或は三回に分服せしむ,
第七十三方(ハイドポヲント)病名激甚ならさる者

金硫黄末二銭,生姜一銭,葛婁子末六銭,遇泥子油二十滴,混和す用方前に同し,
凡て発汗療法を施すには必す毛布を被ひ適宜に運動せしめ而して発汗すれは則ち直ちに之を止め皮膚を刷ひ全く乾くに至るへし
催膿剤
催膿剤は化膿を促し以て金創或は潰瘍を療す

第七十四方催膿軟膏
赤降汞二オンス,溺茶的列併底那一オンス,蜜蝋一オンス,家猪脂四オンス,
先つ的列併底那 蜜蝋家猪脂を混合し,微火に上せ攪拌し,其稠和を得れは火を去り放冷する時に至り赤降汞を和し攪拌す
利尿剤
利尿剤は尿の分泌及排泄を催進する者にして其薬性に従ひ其効能も

亦異なれり甲は胃の交感にて直に腎に効を呈し乙は一旦血中に吸収され再ひ血液より分離し以て尿の分泌を催す其効皆な血液の水分を減する者なり故に身体諸部蜂窩膜より滲出する諸液の吸収を催す
第七十五方衝動利尿丸
松脂末三銭,サルトプルュンネルレー三銭,石鹸三銭,杜松子油一銭,混和す,

第七十六方清涼利尿丸
硝石末半オンス,乃至一オンス,龍脳一銭,杜松子一銭,石鹸三銭,亜麻仁汁適宜を以て丸とす
第七十七方利尿散
硝石末半オンス,乃至六銭,松脂半オンス, 乃至六銭を研和す
第七十八方峻利尿散
硝石六銭,龍脳一銭,乃至半銭,研和す

塗擦剤
塗擦剤は外用して興奮及鎮痙の効あり指頭にて皮膚に擦入し内部の疼痛及炎勢を誘導す
第七十九方芥子塗薬
芥子末六オンス,流動諳母尼亜一オンス半,的列底那油一オンス半,常水適宜を以て泥とし用ゆ
第八十衝動塗擦薬
龍脳半オンス, 的列底那油一オンス半,

酒精一オンス半,混和す
第八十一方蹄根腫等に施す解凝膏
水銀膏二オンス,龍脳半オンス,迷迭香二銭,的列底那油一オンス,混和す
第八十二方強解凝膏
水銀膏二オンス,バイ油一オンス,屋里瓦尼謨油半オンス,芫菁末半オンス,混和す
第八十三方極強解凝膏
第二沃汞半銭,乃至一銭,亜兒尼

加葉末一銭,流動石鹸二オンス,混和す
乳剤
凡そ油質物に含蓄する球塊を亜刺比亜護謨或は蛋黄の如き粘滑物にを研合し稠和するを乳剤と云ふ而して其効気管及ひ気管支の粘膜刺衝機亢進するを緩和す
第八十四方単乳剤
亜麻仁油二オンス,蜂蜜三オンス,水一彬,

先つ炭酸加里一銭を取り,蜂蜜及加里を水に溶解し,徐々に亜麻仁油を加ふれは,乳様液となる,用方朝夕に
に分服す
第八十五方複方乳剤
龍脳一銭,阿芙蓉末半銭,遇泥子油三十滴
右三品を白糖に和し,研磨し,徐々に第八十四方単乳剤七オンス,を加ふ

去痰剤
気管支粘膜の分泌を催進する効あり故に欣衝を軽快し且つ咳漱を緩解す
第八十六方欣衝なき軽易の咳漱にて尋常去痰剤を与ふ,便ち亜刺比亜護謨半オンス,海葱末一銭,石鹸二銭,蜂蜜適宜を以て丸とする者なり
第八十七方軽く咳漱の胃病に因

する者を治す
阿魏三銭,瓦児抜奴謨一銭,炭酸諳母尼亜半銭,生姜一銭半,蜂蜜適宜を以て丸とす
第八十八方強去痰丸
吐酒石半銭,甘汞十五グレイン実芰答利斯半銭,海葱末半銭,亜麻仁汁或は常水適宜を以て丸とす,須らく注意し用ゆへし
解熱剤

解熱剤は熱勢に起由する動脈神経の刺衝機更新するを一般に緩和す故に一は神経動脈を緩和し一は皮膚腎臓の分泌を催進し効を奏す
第八十九方解熱丸
硝石四銭,龍脳一銭半,甘汞阿芙蓉各一刃,亜麻仁末常水適宜を以て丸とす
第九十方
吐酒石一銭半,乃至二銭,達刺俔

篤護謨末二銭,亜麻仁末を以て丸とし前方の如くす
第九十一方
硝石三銭,龍脳二銭,前方の如く丸とす
第九十二方清涼錠
硝石六銭,乃至一オンス,白糖末にて塊を造る
第九十三方清涼飲
硝石一オンス甘硝石精二オンス,実芰答

利斯丁幾二銭,沕乙一彬
洗滌剤
局部に貼し以て其部を清涼にし血管を強壮にす
第九十四方外部欣衝,清涼洗滌剤
護烏刺爾度越幾斯一オンス,醋二オンス,酒精或はジン三オンス,常水一彬半,混合綿布に浸し患部に貼し後繃
帯を施す
第九十五方四肢,或は食道及肩背

欣衝等に用ゆ
磠砂一オンス,醋四オンス,酒精にオンス,亜児尼加丁幾
二銭,常水半彬を以て混合す
第九十六方,悪性潰瘍滌剤
硫酸銅一オンス,硝酸半オンス,常水八オンス,乃至十二オンス,混合す
第九十七方眼滌剤
硫酸亜鉛二十グレイン,乃至二十五グレイン,常水六オンス混合す

第九十八方眼部強滌剤
硝酸銀五グレイン,乃至八グレイン蒸留水一オンス,混合,毛筆にて貼す
麻酔剤
麻酔剤は鎮痛薬に算入し馬医の薬剤には之れを区別せす鎮痛剤を参看すへし
清涼剤
獣類は人身に比すれは温度較や降れり故に通例冷気冷水氷塊其他蒸

発を促す性の浄剤を用ゆ
鎮靖剤
此薬剤は精神の官能を侵さすして血管神経の機能を減する品なり其尤も著しきはなり但蓄積毒の名あり縦令ひ少量なれとも久しく連用すれは其効一頓に顕れ全量を服するに齊し須らく注意すへし其他双鸞菊も亦心臓の鼓動を減却して危険症を発せす其効将に実芰答利斯に斎しと云
衝動剤
衝動剤は神経及血管系を衝動す他の薬剤の局部を衝動する者と漸や異なれり例之は下剤の腸の裏面を衝動すと雖とも全躯は却て之を鎮静す(バルエキセルレンシ)抜群の意と称せる衝動薬は脳髄及心臓の機能を衝動催進する者なり
第九十九方

右麦酒二彬炭酸諳母尼亜半銭,乃至二銭生姜丁幾四銭混和飲液とす
其他は強心剤を参看すへし
健胃剤
健胃剤は胃中に病疴を生し消化を妨ぐるを治す
第百方健胃丸
建質亜那末半オンス,生姜末一銭半,炭酸曹達一銭,糖蜜適宜を以て

丸とす
第百一方
葛斯加里児刺末一オンス,没薬一銭,西班牙石鹸一銭,単舎利別或は糖蜜適宜を以て丸とす
第百二方
格綸撲末半オンス,乃至一オンス,括失亜末一銭,大黄末二銭,混和す第百一方に同し
止血剤

止血薬とは内外を論せす出血を止むる者にして大抵機械にて之を処置す外部の出血は常に強腐蝕薬或は鉄烙を賞用す然とも亦注射薬ならされは能はさる所あり鼻刃血の如し須らく次方を用ゆへし
第百三方
マチコ葉胡椒の類半オンス熱湯一彬を以て煎し,放冷して,濾過し,鼻中に射注す

内部止血薬は収斂剤を参看すへし
強壮剤
強壮薬は全躯をして強壮ならしめ長く健康を保たしむる者なり興奮剤の如きは一時の強壮薬と考ふへし斯に掲るは虚性熱病後の如き衰弱に賞用する者なり
第百四方強壮丸
硫酸鉄半オンス,加蜜児列越幾斯一オンス,混和し丸とす
第百五方
砒石十オンス,生姜一銭,遏泥子末一銭,達刺侃篤護謨末二銭,単舎利別適宜を以て丸とす,之し甚た有力の強壮剤なり


療馬方符大尾

2011年12月2日金曜日

近代日本の馬と戦い

岩手県立博物館調査研究報告書 第17冊「ひと・うま・戦い・旅」 2001 岩手県立博物館の24pから武市銀次郎の『近代日本の馬と戦い』がある.明治期の馬匹改良や軍馬の去勢について講演している.日露戦争当時の軍馬の体格は殆ど四寸から三寸とする.

2011年11月30日水曜日

鳥取農学会報の付図・うなぐら


昭和五年 の本橋論文の付図.見島ではうなぐらのみのやり方で耕作している.このやり方は六世紀に大陸から牛と共に伝わって来たものであると言われている.
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2011年11月24日木曜日

馬経大全の書誌的研究

日本獣医史学雑誌 第23号 昭和633
原著

馬経大全の書誌的研究

                       架夢茶完児
                   (昭和六十一年二月八日受付)
 旧東北帝国大学図書館の蔵書・和乙八二八八に『馬経大全』がある.この書の絵扉の題は馬経大全,目録部書名・新刻参補馬経大全で,春夏秋冬四集四巻から成る.編者の名は国師・馬師善堂の梓である.春集の巻頭書名は新刻参補針馬経大全,四辺は双行,目録部のみ有界で,匡郭は縦二十一五糎,横十三五糎,毎半葉十一行,行二十六字,仮名混り漢文である.夏集は新刻参補針馬経大全,春集同様の版であるが,行二十八字となる.秋集は新刻参補馬経大全,末尾に大字で参補馬経大全秋集終とある.更に冬集は参補針馬経大全と書名が変わり,目録部は無界となる.冬集末の奥附は書林西村市郎右衛門蔵版で,刊年等の記載は無い.奥附の後には半葉の広告がある.
 『馬経大全』について謝成は『中国養馬史』(1)の中『元亨療馬集』をもとにして,明暦二年(一六五六)に日本の国師・馬師が編集し刊行されたと述べているが,馬師とは日本人の実名であろうか.実名とすれば一体いかなる人物で,『馬経大全』は『元亨療馬集』からどのような経緯をたどり刊行されたのであろうか.本文はこれら数々の疑問点を明らかにすべく,西村市郎右衛門蔵版の『馬経大全』を手掛かりに,書誌的研究を試みたものである.

  一,西村市郎右衛門について
 
 西村市郎右衛門は一人ではなく,数代にわたり名称が継承される江戸時代初期からの,かなり有力な京都の書肆である.板元所在地は,天和から元禄頃が京都三条油小路東へ入ル町,宝永頃は烏丸通六角下ル,享保年間になって堀川錦小路上ルと変わる(2)
  元禄から享保にかけては,わが国でも出版が盛んになり,刊本も増加するが,それと共に幕府の取締りも強化されて,出版業者達は京,大坂,江戸と,それぞれに書林仲間を作り,相互に連絡,監視,統制を行う.この当時の仲間記録に『京都書林行事上組済帳標目』(3)があるが,宝暦から明和にかけて西村市郎右衛門の名はしばしば登場する.以下は,明和三年(一七六六)の記録ものである.図一参照.
         (図一)
 
  『一,療馬醫便西村市郎右衛門出板馬療撮要銭屋三郎兵衛出板之所大坂本屋新右衛門方馬療弁解指揖付越之分新右衛門持被上候事大坂行事より書状之写』
  西村・療馬便と銭屋・馬療撮要〔馬療針灸撮要・作者泥道人,宝暦十年(一七六〇)刊〕に対し,大坂本屋新右衛門が馬療弁〔作者似山子,宝暦九年(七五九)刊〕と内容が同じであるとのクレーム(差揖)を付けた事件の記録である.
大坂本屋新右衛門の主張が正しければ,似山子,泥道人療馬撮用の作者は同じ人物という事になる.このような例は少なくなく,当時の出版方法からしても版木を入手しさえすれば,中身は元のままで,書名,作者名を作り変える事は簡単で,しばしば行われたと考えられる.しかし残念ながら,『上組済帳標目』の古いものは欠けでおり,西村市郎右衛門は代々同じ名称を用い,刊本も多数にのぼるため,この標目中から『馬経大全』を選び出す重はできなかった.そこで改めて西村市郎右衛門蔵版『馬大全』自体を調査し,検討を加えた.

 二,載文堂の広告と奥附

 西村市郎右衛門蔵版『馬経大全』冬集巻末には,半葉広告があると先に述べた.図に,この広告を示す.
  この丁の上下段には,岡本為竹一抱子述作の医書十二と,左側につの医書々名があり,『馬経大全』もこの内に加えられてる.板元は京堀川通錦小路上町,載文堂西村市郎右衛である.岡本為竹とは近松門左衛門の実弟で,一抱子と号する人物であるが,彼の述作書の書名は,上段右より貞享二年(六八五),同五年(六八八)元禄三年(六九〇),同四年(六九一),同八年(六九五),同十三年(七〇〇),下段は元禄九年(六九六),同十二年(六九九),未刻,未刻,刻,享保十三年(七二八)とほぼ刊年順にならべられている(4).左側には唐本も見られるが,竹中通庵の李士材三書は元禄六年(
                    (図二)

六九三),鍼法口決指南(和田養安)は享保十三年(七二八)の刊本である.
 既刊書の刊年から,この広告は間違いなく享保十三年(七二八)以降に印刷発行された事がわかる.しかもその年には,三つの岡本為竹述作医書は未刻である.未刻の一つ回春脈法指南六巻が,載文堂より『病回春脈法指南』六巻として刊行されるのは享保十五年(七三〇)の事である.つまりこの広告は,享保十三(七二八)~十五年(七三〇)の間に作られたとしか考えようがないのである.享保十三年(一七二八)と言えば,ちょうど西村市郎右衛門が,京六角通烏丸西へ入ル町から,広告にある堀川通錦小路上ル町へと出版元を変えた頃である.つまりこの広告には,書物の宣伝以外に,出版元を変えた事を知らせる目的があったのではあるまいか.
 広告の前には奥附がある.ここには,単に書林西村市郎右衛門蔵版と記されているが,つぶさに調べると,この部の下の匡郭には段差がある(図三).

 
                     (図三)
しかも双行は行間寸法が異なる.他の葉には,このような段差のある匡郭は全く認められない.著者も木版の経験があるが,このような版の乱れは明らかに埋木である.版木に鋸を入れノミで割落して,別の版木を埋めたのである.では,新刻と称する版に,埋木をしてまで版元の名を入れねばならなかった理由は何であろうか.他人の版元の名がそこに刻まれていたとしても,それならば平ノミで削り落せば十分に事足りる.その理由は他に存在した.享保七年(七二二)十一月の『一,何書物によらず,此以後新板之物,作者并板元之実名,奥書為致可申候事』(御触書寛保集成」の布令である.これまでの広告と奥附の調査から,西村市郎右衛門蔵版載文堂『馬経大全』は享保七年(七二二)以降の刊で,販売は享保十三(七二八)~十五年(七三〇)頃と推測されるのである.

三,河内屋喜兵衛版馬経大全」

 先の『馬経大全』が,その後どのような運命をたどるかは定かでない.再び登場するのは,幕末の頃,所は大坂心斎橋通北久太郎町である.馬事文化資料館徳館の厚意を得て,所蔵される河内屋喜兵衛版『馬経大全』と照合してみた.両者は紛れもなく同一の版木を使て刷られたもののようである.
 載文堂『馬経大全』の版木が河内屋書兵衛の手に渡ったのである.河内屋『馬経大全』にも刊記はない.しかし奥附に並ぶ売元十[須原屋茂兵衛,同伊八,山城屋佐兵衛,岡田屋嘉七,和泉屋金右衛門,岡村庄助,須原屋新兵衛,和泉屋吉兵衛,吉野屋仁兵衛,永楽屋東四郎,菱屋藤兵衛](江戸)(江戸)江戸)(江戸)(江戸)(江戸)(江戸)(江戸)(京都)(名古屋)(名古屋)の名から,発売されたのは明らかに幕末期である.
 余談になるが,河内屋『馬経大全』の刷り上りは上等である.上質の版木としては硬い桜が用いられるが,これとても刷り重ねるに従って,段々につぶされ,不鮮明な刷り上りとなる.河内屋の版が載文堂のものより鮮明である事は,なぜであろうか.年代的に見て復刻である事は明らかである.

 四,馬経大全の記録

 これまでの調査で,載文堂-河内屋,享保-幕末,京都-大坂を『馬経大全』に関して線で結ぶ事ができた.そこで次は,享保年間を出発点にり,古い記録をたどる事にした.
()好書故事(5)
  書物奉行近藤正斎の残した記録である.巻五十八・九に次の条がある.
 長崎唐方覚書 享保八卯年九月
 「一馬之書右は馬鏡大全之外時相用書持渡候様被仰渡卯番船主李亦賢御請,但翌々巳年二月療馬集部同人言遣候を六番船主朱允光持渡為御褒美李亦賢へ銀三枚被下置」
 これには書名が『馬鏡大全』とあるが,御褒美付の特別注文書である.『六番船書籍改』(6)により享保十年(一七二五)の舶載書を調べると,『元亨療馬集』一部一套に『折本馬医書』二冊である.
()江戸幕府編纂物(7)
この本では『有徳院殿御実紀』附録巻十五の「其後仰により馬経大全の和解をもつくりて奉れり」との官医・林良適の記述を引用している.さらに著書・福井保は,『馬経大全』は明の馬師があらわした馬医の書で,『新刻参補針馬経大全』と称する明刊本が舶載され,京都の書肆・上村次郎右衛門が翻刻した和刻本も流布していたと述べている[上村版については,善堂本重刊として杏雨書屋蔵書杏五五六四に書名があるが,元禄九年(六九六)以前に刊行されたものである(後述).
()徳川時代出版物出版者集覧(9)
これでは,狩野文庫蔵本の『馬経大全』について触れている.一つは玉水屋・北尾八兵ヱ版と,今一つは先に述べた西村載文堂の版である.玉水屋・北尾八兵ヱ版は,営業年間から元禄十一年(六九八)~享保三年(一七一八)の刊行と考えて誤りないであろう.いずれも明・馬師問の編とするが,馬師を明国の人とする証拠に乏しい.
()倭板書籍考(10)
元禄十五年(一七〇二)に京都の木村市兵衛によって書かれた自筆の記録である.
『新編集成馬方』には馬経大全の標名があり,「馬経大全」八冊は朝鮮人の作,『参補馬経大全』は非和本と記録している.
朝鮮活字刊本「馬経大全」について,三木栄は,著書(11)の中で「『新刻参補針警馬経大全』四巻四冊は『郷薬集成方』と同じく李曙が訓錬都監小活字を以って仁祖十一年(一六三三)に刊行したもので馬師なる者の撰で明の書である.」と述べている.
 朝鮮活字本の馬経大全は,杏雨書屋蔵書乾五一七九に,『新刻馬経大全』秋集一巻朝鮮名撰朝鮮活字本一として,一部分がわが国にも現存している.朝鮮における『馬経大全』は壬辰・丁酉の倭乱,丁卯・丙子の胡乱といった戦乱に処するため,それまでの安集系『馬医方』に変わり,明から導入されたものである(11).朝鮮では,明のいかなる書を基に『馬経大全』を刊行したのであろうか.
()正徳-寛文の書籍目録(12)
正徳五年(一七一五),宝永六年(一七〇九)〔元禄九年(一六九六)の改版〕,元禄十二年(一六九九),元禄五年(一六九二),貞享二年(一六八五)版,延宝三年二六七五),寛文十年(一六七〇)の書籍目録にはいずれも「八馬経大全馬師編」とある.元禄九年(一六九六)以降のものには,八上村次(郎右衛門)の小字が付され,前述の上村版は,この時すでに刊行されていた事が明らかにされる.
()和漢書籍目録(13)
この目録は無記銘であるが,書誌的には寛文六年(一六六六)頃のものとされる.『馬経大全』の書名はあるが,刊年,編者,版元等の記載はない.
()東寺観智院蔵治二年書写本(10)
わが国最古の書目集とされる治二年(一六五九)の寺観智院蔵書写本には,『馬経明集』,『同大全』あり,「経大全」の名がある書物が存在した事が明らかにされる.

 これまでの記録の中で注目すべきは()()()の内容ある.()及び()は明から直接『馬経大全』と称する『元療馬集』がわが国に持ち込まれた記録で,発注者は時の最高権力者である幕府・将軍吉宗である.将軍吉宗は武術わけても馬術を好み,馬書・馬医書の類から,馬・馬医まで広く海外に求めた事はよく知られている(8)
 一方,()の記録は明らかに朝鮮経由である.ここで経由とするのは,三木栄の述べるように(11),大陸から輸入されたものである事による.では一六三〇年頃の当時,明で最新,最高馬医書で『経大全』の名を持つものは何か.それは,わが国からも注文のあった『元亨療馬集』に他ならない.『元亨療馬集』『馬経大全』の題が付けられる説は,明~清代に余りにも版本が多いため(14),現代中国でさえも明らかにされていない.そこで,次に中国での『元亨療馬集』の刊行流布の跡を,わが国での記録も折り混ぜてたどってみた.

五,元亨療馬集

『元亨療馬集』の始刻は,明の暦三十六年(一六〇八)の事である.原刊の序末には「暦著雍◇灘歳清和之吉,嘉善丁賓改亭氏題」とあり,明の暦三十六年四月初一日に丁賓が序文を書いた事から明らかである.『元亨療馬集』とは喩兄弟の字をもって付けられた名で,兄は喩仁,字本元,別名曲川.弟が喩傑,字本亨,号月波.夫々字二文字を採ったものである.(注◇はサンズイに君の文字)
 序文の作者丁賓は,明朝浙江省嘉善の人で字は礼原,号して改亭,隆慶五年(五七一) に進士になって三十余年間,南京で官の職に就.崇禎六年(六三三)十六世紀の後半期,元亨兄弟と親交があり二人の卓越した獣医術とすぐれた人柄をたたえて序を贈ったと言われる.
 元亨兄弟が丁賓序本『元亨療馬集』以前に療馬書を著わしたであろう事は『元亨療馬集』 の本文内容から容易に推測できるが,それを証明し得る史料はない.

() 四庫全書総目提要(16)
  四庫全書集書の詔勅が発せられたのが清の乾隆六年で完成は同四十(七八二) の事である.この記載によれば,                                              [療馬集四巻附録一巻]内府蔵本 明喩傑同撰仁傑皆六安州馬其書方論頗簡明附録一巻則醫駝方也」書名が単に『療馬集』で兄弟の字が見られない事,附録が医方である事序文について全記載がない事から内府蔵本とて収められたものはきわめて初期の書で,丁賓序本よりも古い可能性をうかがわせる.前後には『水牛経』『安集』『類方馬経』『司牧馬経痊驥通元論』,『痊驥集』等,中国古典獣医書の名が並ぶ.
()重編校正元亨療馬牛陀経全集(14)
 本書の序と校記説明には,集成と成立の過程が述べられている.「元亨療馬集lには,丁賓序本と許序本があり,原刊は丁賓序本で,許序本は清代の再版である.この二者は序以外に内容の部が異なり再版序本は,〔東渓素間砕金四十七論〕を欠く.
 東渓素間砕金四十七論は,東渓主人ことと,曲川(=) の二人による馬の生理・病理に関する問答集で,秋巻の重要な部分である.新たに開発された術,論を加えながら集成されてい過程において,削除は珍しい事であり序文と共に伝わる『元亨療馬集』が丁賓序本か許序本かを知る重要な手がかりとなるものである.(◇はサンズイに庶の文字)
()舶載書目(6)
 亨保九年(七二四) の舶載書目第十四四十四丁から五十四丁にかけて,『元亨療馬集』と『療牛集』の記録がある.
 発注は「好書故事」(5)によれば享保七寅年(七二二)十二月,寅九番船主施翼亭御請,御褒美銀三枚付の特別注文書である.
 書名に続いて目録内容を詳細に記録しているがこれは幕府からの注文書物が初めて長崎に公式に舶載された事を示している(20).目録からこの書は新刻蘇板・丁賓序本で東渓素間砕金四十七論を有している.附録は薬方である.この記録は先に『馬経大全』の日で述べた官医林良適・和解の記録と年代的によ一致する.
()典籍秦鏡(17)
 天保十二年(一八四一)辛丑秋七月の自筆序文である.これには明版と清版が区別して記載されている.明版の『元亨療馬集』は全四で,相馬全書,相馬経,療馬全集の名がある.    
()徳藩毛利家蔵本療馬全集
『元亨療馬集』について調査を重ねるうち,山口大学図書館に旧徳山藩毛利家蔵の療馬集が寄贈されているとの連絡があり,調査する機会を得たので,ここに紹介する.徳藩蔵書印のある『元亨療馬集』は四巻六,四辺双行,有界で匡郭寸法縦二十糎,横十三・五糎,毎半葉十二行,行二十三字である.扉には刻蘇板全相大字元亨療馬集金陵三山街世徳堂梓とある(図).

 次の丁は目録で「新刻蘇板元亨療馬集目録 療馬全集一百三十九論春夏秋冬四巻」と続く.巻頭書名は元亨療馬集,集は六安州獣喩本亨元,校は東渓主人・,汝顕堂梓である.(◇はサンズイに庶の文字)
 春巻は四十七丁,末に六安州獣揚潮字東源 朱鉦字従爾 同集と二人の獣医の人名がある.夏巻は元亨療馬法 六安州 曲川 喩仁字本元編 月波 喩傑字本亨集 金陵少橋 唐氏汝顕堂梓で,巻末は先の二人の名に代え,曲川撰とある.秋巻は再び六安州獣揚潮字東源朱鉦字従爾全集.冬巻は無記銘の巻末である.次いで丁数は一に改まり,目録もなしに患黒病第一が駱駝の図と共に展開する.これが附録の医方である事は,丁を進め十三丁目に「新刊醫駱駝薬方附後」と記されて初めて理解される.医方は十七丁あり,版の大きさは療馬集の部と同じである.この医方の部には編撰者等の人名は全く記されていない.
 この『元亨療馬集』には序文がない.第一目に一部糸切れは認めるも保存は良く,葉を欠いた様子はない.序文はないが,目録と内容には〔東渓素間砕金四十七論〕があり,清代再版序本以前の姿を留めている.では,六安州獣揚潮字東源らにより〔新刻蘇板〕として翻刻された元亨の療馬集とは何か
 乾隆四十年(一七七五),原刊作『元亨療馬集』を忠実に世に伝えんとして翻刻された郭杯西の『新刻注馬牛経大全集』(19)自序に次の条がある.
「喩氏伯仲.集注先賢症論.倶各善.熱意書成暦著雍◇灘歳.至康煕十九年庚申歳.吾州獣揚東源翻刻.今乾隆四十年乙末歳.又.復翻刻.……」揚東源らの翻刻した『元亨療馬集』は,原刊作七十二年の後,康煕十九年(一六八〇)に刊行されたものである.これはの再版よりも五十六年早く,原刊作の姿を留める貴重な書と言わねばならない.
 特別注文で銀三枚御褒美付の貴重書が,外様の大名の,しかも毛利支藩の徳山藩に伝えられた由来は定かでない.幕府の『元亨療馬集』は『元治増補御書籍目録』(18)子部,附録にある如く,療牛集二巻,経一巻と共に幕末まで大切に保管されている.

六,馬経大全と元亨療馬集の比較

これまでの調査において,複写ではあるが,賓善堂梓・西村載文堂『馬経大全』と,汝顕堂梓・世徳堂『元亨療馬集』を入手し,その刊年を考証した.そこで,次にこの二者の目録,図,内容本文にわたる比較と照合を試みた.比較照合は『馬経大全』の冒頭にある目録の番号順に従った.
 目録には順の変動,省略分割,誤刻があるも,まず同一である.図にも大きな差は認められないが,『馬経大全』の相馬法三十二相形駿之図と旋毛図には各所に墨ベタの部分がある(図八).これはいかなる理由によるものであろうか.あえて文字を伏せた点に,時代を背景とする作意が感じられる.本文内容では『元亨療馬集』は「出◇◇◇」と引用出典の古典獣医学書の名が明記されるが,『馬経大全』にはこれがない.その他にはわずかな文字の誤刻,生薬名の違いを認めるも,ほぼ同一である.つまりこの二者の差は,中国語か,仮名混り漢文の日本語か記述様式のみである.例えるならば,中国服と和服を着た一卵性双生児のようなものである.

七,馬師善堂

 最後に,この書誌的研究の発端となった,国師・馬師善堂について述べる.

  まず,馬師とは何処の国の人物であったろうか.わが国の多くの記録と,朝鮮経由説の三木栄は,明国の人とする.確かに中国大陸には,馬師皇をはじめ馬姓の人物が存在し,その可能性は最も高い.しかし,そのうちの誰が載文堂『馬経大全』に見られる返り点,片仮名付の日本語版元亨療馬集を翻刻し得るであろうか.大陸には日本に向けて『元亨療馬集』を翻刻したとの記録はない.

   次に,朝鮮にも馬姓の人物と『馬経大全』がある.しかし,馬師が朝鮮の人物であるとするわずかな可能性も,『倭板書籍考』の木村市兵衛は「編者ノ名ナシ」,「倭本ナシ」と否定的である.更にこの期の朝鮮半島においては,『新編集成馬方・牛方』序文にある如く,「(京畿道) 南陽(姓)房(名)士良」著と,姓名に出身地を冠して表わすを常とする.国師とは,朝鮮半島の一体何処の地であろうか.

 やはり馬師とは,謝成の述べた(1)如く日本人であろう.ただし,日本人には帰化人を除いて馬姓は稀で,この名称は架空のペンネームであると著者は考える.第一,『馬経大全』の編者が馬師ニフとは,偶然にしても出来過ぎである.しかも,わが国には泥道人,似山子と称するペンネームとしか言いようのない療馬書作者が存在する.読点もなく,難解な専門用語を織り混ぜた『元亨療馬集』に,返り点,送り仮名を付け,日本語に翻訳する事は,高い学識を有する者の成せる技で,その学識をもってすれば,「帝馬師皇脈色論」から,馬師のペンネームを作り出す事は,容易であると考えるのである.

  さて,ここに一つの不思議な書がある.浅野図書館貴重図書印のある『新刻京陵原板参補針牛経大全』上巻の巻頭書名・新刻京陵原板校正参補針牛経大全,下巻同新刻京陵原板参補針牛経指南である.版は四辺単線,匡郭二十×十一・五糎,半葉十一行,行は空一格の二十七文字,善堂の梓行とある .

                                図)

  本書の内容はこれ又『元亨療馬集』の附録療牛集『牛経大全』と同じで,書名から京陵原板本の翻刻である事が読み取れる.梓行は『馬経大全』と同じ善堂である.しかも手を加えた(参補)のも『馬経大全』と同様に針とある.針善堂梓・元亨本の翻刻と,これだけの条件が整いながら,さすがに牛の事まで馬師に問うには気がひけたとみえ,馬師問名はない.馬師問は依然として謎の人物である.
  
 本研究の調査に当たり,資料を提供された本学会理事・岸浩博士,山口大学図書館・穐永秀夫氏,に謝意を表するものである.
 
 参考文献

(1)謝成,中国養馬史,日本中央競馬会弘済会(九七七).
(2)湯沢賢之助,西村市郎右衛門(代々)の出版・文筆活動,国  
  文学・言語と文芸,88‥89108
(3)宗政五十緒,京都書林仲間記録,ゆまに書房(一九七七).
(4)武田科学振興財団,杏雨書屋蔵書目録,臨川書店二九二).
(5)国書刊行会,書刊行会叢書・近藤正斎全集,国書刊行会 
  (九〇五~一九二二)
(6)大庭,関西大学東西学術研究所資料集刊,舶載書目,関    
  西大学東西学術研究所(一九七二).
(7)福井保,江戸幕府編纂物,雄松堂(一九八三).
(8)徳富蘇峰,近世日本国民史・徳川吉宗,講談社学術文庫(一
  九八)
(9)矢島玄亮,徳川時代出版物出版者集覧,葉堂(九七六).
(10)井上正己,日本書目大成(3),井上書房(一九六三).
(11)三木栄,朝鮮医学史及疾病史,自家出版(九六三).
(12)斯道文庫,江戸時代書林出版書籍目録集成,井上書房(
  九六二).
(13)阿部隆一,江戸時代書林出版書籍目録解題・和漢書籍目  
  録,井上書房(九六二).
(14)中国農業科学院中獣医研究所,元亨療馬牛経全集,
  農業出版社(一九六〇).
(15)中国農業科学院中獣医研究所,元亨療馬集選,農業出
   版社,(一九八四).
(16)王雲五,四庫全書総目提要,台湾商務印書館(中華民国六   
  七年).
(17)荒井秀夫,国立公文書館内閣文庫影印・典籍秦鏡,ゆまに 
  書房(九八四).
(18)小川武彦,徳川幕府蔵書目,ゆまに書房(九八五).
(19)安徽省農業科学院畜牧獣医研究所,新刻注繹馬牛舵経大
  全集,農業出版社(九八三).
(20)大庭,江戸時代の日中秘話・東方選書5,東方書店(
    八〇).
書名等の記述は,長沢規矩也著・和漢古書目録記述法に依った.
        


         A  Bibliographic  Study  on Bakyo Taizen

                           KanjiSHIRAMIZU
      (Faculty of Agriculture,Yamaguchi University)
According to the records in Japan and Korea,the"BakyoTaizen"was written by the horse doctor Bashimon, of the old Chinese
dynasty, Ming. In China, however, there is not any record on 
the author of this book. Hsieh Cheng Hsia reported that this 
book had been written by a Japanese. He also mentioned that 
"BakyoTaizen" and "Genkyo RyobaShu"(published in 1606) had the same contents. He did not clarify who Bashimon was. On theother hand,"Newly Revised Shin-i BakyoTaizen"was published 
by Ichirouemon Nishimura, of Japan, probably  in 1729  (in the 
14th year of   Kyoho).    Then  the author compared contents
 between"Newly Revised Bakyo Taizen" and one of the editions of "GenkyoRyobaShu"which was published in China in 1680 and    owned by the Tokuyama branch of Mohr iClan in Japan. It was  concluded that the two books had the same content sand that   the horse doctor Bashimon was a Japanese who used Bashimon  as a penname.
学而不思則罔