2009年12月20日日曜日

明治十四年十二月山口県治医員の部

郡        別                                  獣医
            産婆
            薬舗
大島     0 13 2
玖珂 13 129 25
熊毛 8 1 11
津野 13 32 22
佐波 8 78 11
吉敷 11 21 16
厚狭 9 2 10
豊浦 7 2 4
美祢 12 4 12
大津 2 12 10
阿武 19 8 19
見島 0 0 0
赤間関 2 20 1
通計 104 322 143

2009年12月18日金曜日

毛利本藩の馬医

役職系統表では馬医は藩主の支配する『手廻頭』配下『奥番頭』支配『馬医』で『側医』と同格とされている.

2009年11月30日月曜日

馬喰語源考

馬喰語源考
 博労,馬九郎,馬口郎,馬郎は皆同じで牛馬の周旋を生業とする.本来は馬のみを扱うのが馬クロウで,牛を扱う者は仲間内では牛博労と呼んで区別する.牛博労は更に細分化し,色々な名称が付けられている.
 馬クロウと呼ぶ時に最初に考えるべき事は馬をバと呼ぶ事である.普通には馬の音はムマ・マ・メでバは漢音である.もし,これをマと読むならマクロウとなって競馬用語になってしまい,メクロウなら女衒となる.
 次はクラウである.一般には喰らうの文字を充てたが,喰らうの文字は家畜を扱う者が最も嫌う言葉で,是故に九郎,口郎・・・博労の語が作られた.もし,食べる事を意味するなら喰らうではなく動詞の喰らふとなる.この言葉はクロウトの略で,漢字で書くなら馬玄人から人を取れば良い.玄人とは物事に明るい人,反対が素人で,バクロウとは馬の事に特に通じている者を指す言葉である.ならば,牛の玄人は何と呼ぶか?バクロウ仲間はこれをウシバクロウと云う.無理に牛をゴと読むはご苦労様となる.
 駄馬とは荷を荷う馬で,ダバと呼ぶ.労賃が駄賃である.ダマ・ダメと読めばまるきり別のものになる.
 シロウトは素人と書く.類縁の言葉に青二才がある.この青は馬の毛色の青で,音はアヲでアオではない.青みがかった艶のある濃い灰色の二才駒.生意気盛りで素人の手には負えない.手練の馬玄人のみが扱える馬で,この馬がもしハミを外せば・・・日本語の中には動物に関する言葉が沢山隠されているようである.

2009年11月28日土曜日

斉民要術巻第六

養牛馬驢騾第五十六 相牛馬及諸病方法 巻六 七葉 治牛馬病疫気方 血馬患喉痺欲死方 治馬黒汗方 馬中熱方 治馬汗凌方 治馬疥方 治馬中水方 治馬中穀方
・・・この書は中国の家畜療治書の原型である.相畜より療治へと展開する.相畜とは家畜の解剖生理学的特質で,これを踏まえて家畜の疾病(疫)を診断し,療治を行う.疾患の場合は灸・鍼・烙,病気の時は薬を服する療治は,現在と異なる所はない.この期に馬は嘔吐出来ない動物,牛は反芻する動物を正しく理解して療治しているから,馬の胆嚢炎の診断をした近世の武士馬医よりは腕は確かである.斉民要術に関してはネット上に多くの情報があり,グーグルで簡単に検索が可能である.

2009年11月21日土曜日

建暦元年十一月十六日の記録

内裏で牛が絵所で死亡.十八日間は穢れているのに,光家が知らずに我が家に来て,わたしも穢れました.頭中将も又穢れに触れてカラカミの祀り,鎮魂の祀りが中止になるとの事.外出は夜半過ぎ.
絵所はゑどころ.疫病はえやみ.崇神記 毒気はアヤシキイキ.神武 疫のケガレのカレは彼.タソガレは彼.病む・やむ.やまふ やむ・病む・止む・已む・罹む 死ぬに同じ
寛喜の飢饉と疫病による大量死.疫病の人畜共通伝染病の可能性.人・牛ならパラミクソウイルスか?牛馬・人なら細菌性のものか?

2009年11月17日火曜日

第弐拾八号
獣医免許規則別冊ノ通制定シ明治十九年七月一日ヨリ施行ス
右奉 勅旨布告候事
                      太政大臣三條實美
明治十八年八月二十二日
                      農商務卿伯爵西郷従道
 これにより近代獣医学が始まり,近世の伯楽の牛馬医術が絶えた.勅命である.
御名御璽
                   完

 あとがき
 書きたる事の真偽は不明.記したる者は皆鬼籍に入りて,学ばんとすれども,答ふる者既に在らず.只々後日の為に記し置くものなり.
 長州学舎にて                 架夢茶庵記.
参考書  新村出編 「広辞苑」岩波書店 1993年
     「斉民要術」中華書局版 中華民国六十九年三版

2009年11月8日日曜日

馬の記録と出土馬具

仮序章

『三国志・魏志』東夷伝・倭人に曰く「その風俗は淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑緜を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」
『後漢書』東夷伝・倭にも「牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と.『政治要略』には「応神天皇の御世,百済進牛馬自此而後倭国有牛馬」と記す.尾張熱田の貝塚,鹿児島出水貝塚出土の馬歯骨は後世のもの也.縄文の馬は理化学的年代測定より中世のものと同定.
『記』上天斑駒.『神代紀』上天斑駒.『万葉』推古二十年 馬ならば日向の古摩.『神代紀』上 保食神・・・頂代為牛・馬云々.保食はうけもち,毛もののけと飯のけは同義.うかみたまのみことは食稲魂命.
『和漢三才図会』に牛馬の伝来は五三五年とある.仏教公伝前後の事になる.しかし,実際には五世紀の中期古墳(大阪府羽曳野市誉田丸山古墳)から馬具が出土しているから,馬の伝来はこの頃であろうと推察される.『好太王碑文』に三九一年倭軍百済と新羅を破るとあり,四〇〇年高句麗と交戦,新羅より敗退するから,この頃に朝鮮半島から持ち込まれたとするのが,最も合理的である.
この頃に持ち込まれた馬は和名が無いからそのままの韻と漢字を充てた.マとは支那語の馬である.『万葉集』では馬をマと詠んでいる.駒は小馬で愛らしき馬,ウマはムマ・m馬で大動物.この当時,倭の国に居た獣はゐのしし(猪)とかのしし(鹿)で,ししとは肉,食用の意である.
縄文期の馬の存在を否定したのは考古学者の松井章氏で理化学的年代測定により明らかにされた.実際に縄文期の動物形土製品で牛・馬の姿をしたものはこれまで出土した記録がない.古墳から出土する馬具についてはその様式から考古学的に編年されているが,製作年代は土器編年と約五十年のずれがある.出土馬骨については多くの発掘調査記録に報告されているが,これらの報告の殆どは土器編年方式で書かれているので注意が必要である.出土馬骨による馬体の推測は学問的方法に拠らずとも,伯楽の知識で十分に理解できるものである.
古墳時代の出土馬具には鉄製品がある.この外の鉄製品は剣や甲冑などの武具である.考古学の分野では鉄製品は錆びるので長く残らないと言われているが,真偽の程は明らかでない.実際の所は,鉄は大切で有益な金属であった為,何度も繰り返し再利用されて(現在も野鍛冶では行っている)消耗し尽くされたと考えられる.かつての獣医学には鍛鉄実習があって鍛冶の技術も学んだが,馬の衰退とともにこれらも消えてしまった.鍛鉄実習で学ぶ事は蹄鉄の事だけでなく,削蹄用の刃物や外科療治に用いる烙鉄も製造し,火の扱いを学ぶから,獣医学が受け持つ分野は極めて広い.

2009年11月6日金曜日

本潅順は本潅頂

長陽幕下・村井句聴子書写馬療治書に題箋書名「本潅順」がある.書の中の書名は「本潅頂」.言葉の由来は額に水を潅ぐ密教の儀式.合格証書のようなもの.馬と仏教は何の関係もなさそうに見えるが,『馬経大全』を持ち帰った僧は弘法太子こと空海.わが国密教の祖で漢土で印度僧に真言佛経を学んでいる.もう一箇所密教が伝わった所はチベット.ここでは馬は風の馬.谷から吹く風に乗って幸せを運ぶ.五色の旗のはためくタルチョーやルンタの世界.古墳時代に海を渡って来たモンゴル系の馬とは,まさにこのチベット密教の文化を持った馬だったのである.南船北馬,北の馬の療治術は司牧安驥集として古代仏教とともに大陸より伝わり,仮名安驥集として伝えられている.わが国に馬療治の事が伝わるのは三度で,最初が古墳時代,次が弘法太子の時,最後が近世の徳川吉宗の頃.明治は既に西洋の馬になっている.これらの事を確認するために本潅頂に記される病名を「日葡辞典」で調べて見た.全て記載がある.本潅頂の内容は近世以前に作られた事は明らかである.古墳時代の牛馬の療治については,わが国の書にはもはや記載が無い.後魏の「斉民要術」を紐解くのみである.

2009年11月4日水曜日

『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉

1603年 日本イエズス会刊 『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉
Yetta ゑった 色々な仕事の中でも死んだ馬や牛の皮を剥ぎ,その皮で様々な物を作るのを職とする身分の卑しい人々.Yeta 同じ
Yedo 穢土 穢れたる国 娑婆世界 現世
Cottoi 特牛去勢してない牡牛.または純血種の牛
Facro 伯労 百舌鳥
Bacro 博労 馬の仲買人,すなわち馬の売り買いにたずさわる人

●Facuracu 伯楽 家畜の病気をなおす人

Bocuguiu 牧牛 すなわちMaqino vxi
Bocudo 牧童 Vxicai varaua
Bocuji  牧士 牛やその他の家畜の牧人
Bocuyo  牧羊 羊飼うこと,または羊飼
Boguiu  牡牛 Cotoino Vxi
Cauaguinu 革衣
Cauago  皮籠 日本で作るある形の皮製の籠
Cauagoromo 皮衣
Cauaqiri 針灸療治の始め
Cauatabi 革単皮 革製のTabis
Cauaya 皮屋 帯皮製造人の家.Tabis 造りの家
Cauaya  皮屋 死んだ獣や牛の皮を剥いで皮籠を作ることを業とする人 Cauaranomono
Cauabacama 革袴
Itamegaua 撓皮 まだ鞣していない皮で毛はないが強くて固いもの.皮籠の皮など
Cauaranomono 河原の者 皮屋に同じ.死んだ獣の皮を剥ぐ者であり,また,癩病やみの者に対する監督権を持つ者
Guiu 牛馬 牛家 牛面 牛肉 牛頭 牛羊 Guiuに雄牝の区別なし
Qegare 穢れ 汚れ 不潔 穢れ,るる,れたは血と悪口の穢れ.穢し,す,いたは名を穢す.
Qe 普通の 日常のもの 複合語以外には用いられない.気は気配の気
Qetba 結馬 大便をし兼ぬる馬
Saumauaxi 猿回し
Sarunamexi 猿の鞣革
Chori 長吏 他の人が認めている頭.ゑった 河原の者の頭
Chaxen 茶筅 身分の記載なし.宮番・番太も.番はあり.

フランシスコ・シャヴィエルは1549年から日本で布教活動を開始.当時の宣教師には聴罪師と説教師があった.『日葡辞典』は宣教師の語学学習の為に1580年頃から長崎のセミナリオ,コレジオで編纂が始まり,1590年に発明された印刷術によって刊行された.1603年は徳川家康が征夷大将軍になった年で,中世と近世の境目の時である.

2009年10月8日木曜日

穢多身分廃止と勧業局

太政官布告明治四年三月十九日 従来斃牛馬有之節ハ穢多江相渡来候処,自今牛馬者勿論,外獣たりとも総而持主之もの勝手ニ所置可致事.


明治四年八月二十八日 穢多非人称非廃候条.自今身分職業共平民同様たるべき事.


明治四年十月二十六日 旧穢多・非人苗字許可


明治四年民部省伺書 民部省ヨリ,従来エタノ輩ヲ平民ニ伍セザルノ失当ナル儀ヲ弁官ニ呈シ先ツ穢多非人等ノ称ヲ廃シ,且ツ之ニ産業ヲ授ケンガ為勧業局ヲ東京大阪ノ両府ニ開設シ該民ヲ入局セシムルコト各二ヶ年間,外国人ヲシテ製革造靴ノ方法,牛酪.薫肉ノ製法等凡ソ世上必需ノ工業ヲ之レニ伝習セシメ兼ネテ貯金ノ方法ヲ設ケ,該民業ヲ卒エ貯金亦若干両ニ至ル者ハ平民籍ニ編入シ従前ノ課役ヲ免ジテ一般ノ課役ニ服セシメンコトヲ稟候ス.但シ工業ヲ伝習スルハ該民ニ限ラズ之ヲ請フ者ニハ入局セシムル也.

2009年9月3日木曜日

長州藩牛馬と雑戸の数

宰判名
       馬    穢多 戸   穢多 人   茶筌 戸   茶筌 人   宮番 戸   宮番 人
大島 3032 5 5 37 69 400

奥山代 2230 254

45 164
7
前山代 2138 259

23 92

上関 2845 110 32 131 93 467

熊毛 3275 330 291 1357 34 127

都濃 2119 441 254 1266


166
三田尻 812 3554 199 1033 1 4 9 34
徳地 2459 468 50 228



山口 1621 1861 115 481

19 77
小郡 781 3324 134 622

31 148
舟木 2504 2458 154 703

15 82
吉田 3546 1085 68 317

12 49
美祢 2309 1468 62 302

16 68
先大津 3709 390 20 93

13 49
前大津 2516 502 23 105 5 24 16 54
当島 2560 926 102 542

29 124
奥阿武 5111 1165 111 415 2 7 29 103
     計 43567






当島穢多猿曳

8 44



当島浜非人

41 208



2009年9月2日水曜日

ばくろう

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定番相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取得侯所、
日切二至り代銀不埒之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩ェ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙ニ書附置申之由
候へ共甚不謂儀候条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭ェ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯欺又ハ最前之牛馬差戻シ候救いつれ之道埒明可申侯、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯欺、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相答候、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外ェ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人工売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二村、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主工差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
候事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 

2009年9月1日火曜日

              下羽坂村 一雑戸七拾四軒         垣之内 

 傳云、往古ハ十八軒にて今の西門前町のうしろ川邊に往居せしか、今に至りても其所を
 
固屋々敷と呼ひ御年貢地なるを垣ノ内の者持傳へ侯、慶長の比今の垣ノ内といふに居を 
 遷したるよし、その証左の如し  
 巳上
 今度於山口垣之内こ御断申屋敷併畠代四拾壱枚、巳来共こ御除被遣御公儀郷中
 夜廻役馳
走可仕所如件   慶長九年 三月三日      相嶋作右衛門書判
 此御書下之畠代とあるハ、御一紙除ニ田四反壱畝拾七歩高八石垣之内屋敷と有之分なる
 へし   
 又
 御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉左衛門ニ申付侯、   
 日向(毛利就隆)様 甲州(毛利秀元)様 美濃守(吉川廣正)様御領分之儀は相除、
 
 其外之分は御蔵入諸給領共ニ皮屋役中江右之吉左衛門より其沙汰可仕侯間、異儀有間敷
 
通其郡中諸村之庄屋中江可被申聞候、給領之庄屋江も旁より可被申渡候、恐々謹言
 
 正保弐年          (児玉元恒)
     三月七日     
   児 淡路
      諸郡 御所務代中
 御武具方御用の特牛皮素垣之内者より百枚充上納仕来候を故有て御両国長利中江割符仕

 
候事のよし其時の御調書と相見候、しかるに此地にかきりて長利と云ハすして垣の内と

 
唱へ来候、他郡長利の居所にハ平民と混し不申ため外側に四ふちの垣を結ひ廻し其内に

 
住居する故にも垣の内と唱るよしの説あれと、右の御書下の文面にてハ垣の内示地 

 
名とも相聞へ候、和名抄に戸とありて五畿内には垣外といへるより地名おのつから  
 
符合する故垣の内とるならんか、又御具足皮御紋付物他国御進物の小豆革草人等限
 ある御用をも被仰付、御除の地に住居すると云ひ、御国中にてハ彼等か類の中にても品 
 
よろしき簾も有之、商売につきて他国へ出入る時も往来御手形に垣の内の者とある抔
 
き故よしある事にや、前に出せる御書付ハ過し天保弐卯の年郷民風狂の如くに騒立、此
 
垣の内にも至りて破壊せし写のミ存れり

右の家数七拾四軒之内十八軒、古来より芝の上抔と称して村々へ手を分ちて夜廻りなとせ
 しより今に至りても本軒と呼ひ銘々受の村方を時々廻る事也、或説に芝持といへるは村々
 斃牛馬の時芝原抔へ拾るを支配せる故に斯唱ふるといへと、夜廻り馳走役の事抔考れは右
 の説信かたし、されと何をもて芝とよへる故事不詳、二季に米麦を貫又困究に及ふ等の時、
 其村方に扶助を乞ふ事ありて芝と唱ふるを寺院に比すれハ檀家に似たるもの欺


防長風土注進案は天保の末に作られたので,二年の大一揆の後である.この時,百姓勢は
三田尻の町・村役人,商人,穢多を打壊し,続いて山口へと向っている.山口では下羽坂
村の垣の内が打壊された.

2009年4月16日木曜日

屠畜検査 公衆衛生福祉技術告示 最高司令部公衆衛生福祉部

屠畜検査 公衆衛生福祉技術告示 最高司令部公衆衛生福祉部 一九四六年十二月

左記屠肉検査規則は日本に於る統一ある屠肉検査の実施を確立する目的を以て,公衆衛生官への教導のために好評されたものである.日本の厚生省は本検査法を採用し,之が適用を都道府県に指令すべきである.

第一節 執行機関の機構

屠肉検査は厚生省の屠肉検査部によって主管される.屠肉検査業務に従事する各常置職員は此の種業務に必要な資格を有してはじめて任命される.昇進は能力,態度及び勤務期間を基準として行われる.

1検査員呼称,任務,義務

A主任検査員.之等は各屠場に於る事務の監督と執務とを担当する検査員である.かかる検査員は部長に対し或は部長に任命された者に対して報告する.彼等は履歴で決定されると同時に職責に対する適合性により選択せられる.

B監督検査員.之等は部の職員の業務の指令指導,監督を担当する検査員で必要に応じて他の職責をも果たす.彼等は業家の必要に応じて割当てられ,主任検査員に報告する.

C巡回検査員.之等の職員は屠場を検査し,業務の遂行を指導し又屠肉検査を規定する法規並びに指令が正しく尊奉されているか否かを確かめる.彼等は監督検査員,主任検査員を含む部の職員と協議する.彼等は検査の統一と効果とを期せんがために主任検査員を指導する.彼等はその発見を意見を付して其の部の主任に報告する.

D獣医屠肉検査員.之等の地位に対する受験志願者はすべて獣医専門学校の卒業者でなければならない.獣医屠肉検査員は主任検査員の指揮の下に生体検査と死後検査を行い,各自の部門に於る衛生を強化し又其他の業務を遂行する.

2009年4月7日火曜日

準非人「猿飼」

準非人「猿飼」
高柳金芳著『江戸時代非人の生活』昭和五十一年十月四版雄山閣・東京
◎中世には既に非人が存在する。この身分は戦場における戦死者、屍馬の処理、武具、馬具、 竹細工、履物の手工業を業とする。
◎猿飼の伝説
 猿飼は達磨を職の祖とし、小山判官政氏に始まると云う。『紀伊国名所図会』によれば、 小山判官には二人の息子があり、長男政在には猿を譲り、次男に鷹を譲った。紀伊国那賀郡 山路荘栄谷村。猿飼は弾左衛門支配の穢多と非人の中間の身分。
 猿飼は弾左衛門支配の賎民であったが、髪はざんぎりでなく袴の着用を許され脇差を差 す者もあった。人別帳は弾左衛門支配。
◎家康と猿飼長太夫
 天正十八年(一五九〇)家康江戸入府の時、乗馬の足が痛む。『弾左衛門由緒書』には
一、寅(天正十八年)御入国御時、御馬足痛沓摺皮被仰付、御馬為御祈祷猿引御尋之上、私先祖支配之猿引召連能出、御祈祷仕候処病馬快気仕候。依之為御褒美鳥目頂戴仕候とあり。 
◎天保十四年・阿部正信『駿国雑志』には猿飼頭・滝口長太夫が家康のお召にあずかったのは天正十一年駿府在城の頃とする。猿飼の守護勝先神(日吉山王)の呪を唱え之れを祈 祷し病馬三頭平癒。以来、年々銭四貫五百文と猿の餌豆一俵を賜わり、正月、五月、九月、十二月の各三日に御厩の祈祷を命ぜらる。

2009年4月2日木曜日

部民

日本列島中央部を支配下に置く政権が成立して行く時期は、騎馬の術は征服者の重要な支えとなった。律令国家の成立以後も支配組織にはウマによる駅伝の制度が不可欠で あった。国家の飼育した動物は、ウマ、タカ、ブタ、イヌ、ウシで、猪飼・犬養の部民はブタ・ イヌの飼育を担当した職掌である。ウマとウシは牧で飼育されていた。国家の飼育する動物は社会の上層部に所有され、飼育担当者は動物への優越感を持つと同時に憐愍の情をも生 んだ。また、狩猟は君主の大権となった。
◎氏姓制度の部民。農民や技術者は氏姓制度の政治体制では地方の豪族である国造、県主稲置、伴造の配下となる。品部とは職能部民。中央の有力な臣は平群・葛城・蘇我、連は大伴・物部・中臣。
氏姓制度の身分・地位は世襲されたが、官僚制度の位階は一代限りであった。冠位十二階は大化の改新後位階を増し大宝律令の完成時には三十階となった。氏姓の制度は685年に八色の姓となった。やくさのかばね

仏教の伝来 538年あるいは552年とされている。六から七世紀の渡来人は韓民族の王族や 文化人に技術者が中心である。五経博士、司馬達等、易・暦・医博士等で飛鳥文化の形成に 貢献した。

我が国最初の諜報機関は馬飼部

我が国最初の諜報機関は馬飼部 
 日本書紀の第十七巻、継体天皇元年の条に河内馬飼首荒籠 (かわちうまかいのおびとあらこ) と云う人物が出てくる。 彼は北河内の樟葉の辺りの淀川の河川敷に開いた牧場で馬を飼うことを生業とし、馬飼部と呼ばれていた部族の首長である。 この馬飼部が、組織的な諜報機関としては、おそらく、我が国最初のものではなかったろうかと思われるのである。

 時は今から千五百年も前、六世紀初頭の事。 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。

 男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。 彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。 そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。 そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。 男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

 しかし、真実は、このような平和的なものではなかったと多くの研究者は考えている。 大和に覇権を確立していた応神王朝も、中興の大王雄略の没後は混乱と紛争が相次ぎ、 地方には群雄が割拠して末期的状況であった。 各地の豪族たちは風を望んで中原 (ちゅうげん) に進出して大王位を簒奪 (さんだつ) せんものと野望を膨らませた。 丹波の倭彦もその一人であり、越前近江の男大迹もその一人であった。 また、筑紫の王なる磐井もその一人であった。 最初に大和への進出を図った倭彦王は激戦の末に大伴金村の軍に敗れたが、 男大迹は二十年にもわたる長い長い戦いの後に大和に入り、遂に前王朝を滅ぼして、新たな王朝を開いた、 と云うのが真実に近いと考えられている。

 そして、河内馬飼首荒籠も単に男大迹の王の諮問に答えたと云うだけのものではなく、 男大迹の王の諜報機関の役割を担ったものと見られている。

 彼はこの間にあって、越前にある男大迹に逐一詳細な情報を提供した。 大和における混乱の状況、丹波勢と大伴金村の戦闘の状況、その戦いにおける金村軍の損耗状況、 それらの情報を越前に運び、今こそ立つべき好機であることを彼は男大迹に告げた。 いよいよ軍を起こすに及ぶと、その道案内の役を担い、我が一族の居住地なる楠葉に至るや、 そこを総司令部の場所として提供したのである。 男大迹大王が継体天皇として即位したのも、この楠葉の総司令部においてであった。

 河内馬飼首荒籠、彼はどうして情報機関の役割を担うことができたのか。 それは馬飼という生業によるものに他ならない。 当時、淀川の河川敷や河内潟に浮かぶ大小の島々には、馬の飼育を行う牧場が多数散在していた。 荒籠を首長とする楠葉牧も、そうした牧の一つであった。 馬は四世紀末頃から応神王朝と共に畿内に現れる。 馬飼たちは応神王朝において大王家に所属した下級の部民であり馬飼部 (うまかいべ) と呼ばれた。 彼らは飼育した馬を大王家に貢納し、それが大王家より貴族たちに下賜される。 その時、その馬の馭者もまた馬飼部のところから派遣される。 上流階級の人たちは乗用車を自分で運転するのではなく、お抱えの運転手に運転させる。 自動車より以前の馬車も、お抱えの馭者が馭するものであった。 これらと同様に、古代における馬も貴人は自ら馭すのでなく、馬の口取は馬飼部から派遣された男たちが行う。 彼らはあちこちの貴人のもとへ派遣され、それぞれに貴人たちに近い所で近侍する。 そして、彼らが耳にした情報は自ずから馬飼部の首長の所へ集まってくる。 これが馬飼部が情報機関たりえた理由の一つであると私は考えるのである。

 もう一つの理由は、彼らがその馬を用いて行った遠隔地間の交易によるものと考えられる。 彼らは大王家に貢納した残りの馬を、諸国の貴族たちに直接に売却して利益を得ることも行ったであろうが、 それと共に、それらの馬を荷物の運搬にも利用したであろう。 彼らは諸国の産品を大和の海石榴市 (つばいち) や河内の餌香市 (えがのいち) に運び、 また、それらの市 (いち) で仕入れた品を遠い諸国へ運んで、その間で利益を得た。 そうした馬飼たちは行先の国々で、その土地の情報を耳にし、 それらの情報はまた、自ずから彼らの首長の下に集まってくる。

 男大迹の大王は、彼らが持っている情報機関としての機能の重要性を、いち早く認識して、 彼らと厚い誼 (よしみ) を通じていたのである。 単に、知り合いだったとか、付き合いがあったとか云うものではない。 それと云うのも、当時彼らは社会的に 「下賤の者」 であった。 継体紀には 「貴賤を論ずるなかれ」 と云う継体自身の言葉が出てくるし、 履中紀には馬飼たちには入墨が施されていたことが記している。 古来、動物の飼育を業とする者は卑しい者とされていたし、 さらに、士農工商の語の示すように商人はもっとも低い階級であった。 彼らはこれら二重の意味において下賤であった。 彼らは社会的に差別されていた。 男大迹はその情報性において敢えて彼らを厚遇したのである。 そこに、私は、彼男大迹大王の持つ先進性と凄さを思う。 そして、荒籠 (あらこ) たちが男大迹のために献身したのも 「宜 (むべ) なる哉 (かな) 」 と思うのである。 

2009年3月29日日曜日

百姓の顔

百姓の顔 「被差別部落の民話・田中龍雄著 明石書店発行」
 むかし、飛騨国の人手の多い部落では、不作の年がかさなるたびに、代官所から戒められて、浄場めぐりをくりかえしたと。
 しきたり破る飼い主を、そのままにして見逃がせば浄場、村場の守りできぬ。
 そのうえ部落うちのぞうよもいるで、斃馬の届けを腕こまねいて待つよりも、戒めどおりに浄場をめぐり、村のようすを見届けようとな。
 そのつど人手をかき集め、目を光らせて乗りこんだとよ。
 行く先ざきの村役へ仲間の使いを走らせて、浄場めぐりの先ぶれしてな。ほかの仲間が手分けして、馬を飼っとる百姓家の庭さきから声をかけたり、人を見るとや聞きこみをして、馬の所在をたしかめたがな。
不作つづきの百姓家では,ません棒を立てかけたまま、寝藁一本見つか                          らぬほど、ねぶったように片づけた厩はかりが目立ったと。
 およそ飢饉とよばれる年は、その年だけが飢饉でのうて、まえまえからの不作がたたり、毎年根こそぎ年貢をとられ、隠して貯めた喰いもんが日ごと日ごとに減るおりに、一旦雪でもつもるとな。
 人の往き来が絶えてまい、喰いもん探しの場がせまくなり、まず病人や年よりがひだる腹かかえて弱ってまって、一日ごとにやせ衰えたと。
 地中の虫や木の皮や、草の根、木の根を煮て喰って、はては枕の蕎がらさえも腹のたしじゃと口に入れたと。
 喰えぬもんでも喰うすべを知っとる者が生き残り、喰えるもんでも喰うすべを知らんもんが死んでまったでな。
 ましてや、どこぞの飼い馬が倒れてまった、と聞いたがさいご。
 ひだる腹かかえた百姓たちが目の色かえて我れ先に、よってたかって切りきざみ、奪いあいして引きちぎり、それぞれ抱えて隠してまって、猪,熊なみに喰ってまい、皮も残さぬ始末じゃったと。
 どこそこで馬が喰われて皮がない、なんぞとな。人づてに噂を聞いた仲間のうちに
 「おのれの斃馬に手をかけながら、口をぬぐってわしらをば皮剥者とは身勝手じゃぞ」
 と、いきまく者もおったがな。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に、身分や定めはその余のことじゃ。わしらが飼っとる席ならば、焼いて喰おうと煮て喰おうと、勝手じゃろうが、と村うちで開きなおればそれっきりでな。代官所でもしまいには、見て見んふりをしとったと。
 飢饉が過ぎてもとうぶんは斃馬の届けが絶えてまい、部落の者が声あげて浄場の権限ふりかざしても、煙の上がらぬ始末じゃったと。
 飛騨国うちの部落では、維新いぜんにそれぞれが浄場、村場を手放すと、受ける部落がないままに、雇われ百姓や山仕事に精をだしたでな。
 不作や飢饉がないおりに、斃馬の始末に手こずった百姓たちは是非もない.
人がやること、ひとつこと。その身になれはなんでもやるて。
 浄場めぐりをそのままに、斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。
 美濃国では村々へ、馬を勝手に屠るな、と庄屋の強い達しがあってな。触れも不服な代官所では、やがて領内の馬持ち一統を庄屋ともども呼びつけて、かさねて強い戒めようじゃと。
 そのころ馬持ち百姓は、怪我や病いで切迫の馬を馬医者に診せもせず、部落の者にも知らせんでな。組内ぐるみで吊り出して、薮や林へ運びこみ、その場でつぶして皮剥いで、肉は田や畑のこやしじゃと、こまかく刻んで分けあったとよ。
 頭や骨は埋めてまったが、生皮ばかりは慾欠いて、部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。
 たびかさなるで庄屋から、つづけて部落へ達しがあって、皮にかかわる百姓をその場できっと取り押さえよ。隠しだては同罪で、訴人の者には銭をくれると、慾で釣ったがな。
 百姓がおのれの馬をどう片づけようが、わしらは痛くも痒くもないぞ.皮だけ貰えば渡世ができる。手間がはぶけてありがたや、とな。訴人までする仲間はおらなんだと。
 浄場めぐりの仲間らが林の道を抜けたらば、百姓たちがかたまって馬の始末をしとったで、つい物珍らしさに近づいて
 「ごくろうさまじゃ」
 と、仕分けの仕ぶりをまじまじと眺めとったらな。
皮を剥いどる百姓たちが、つくなったまま手を止めて、白眼ばかりで見上げたと。
 それも気にせんと眺めとったら、なんのことない百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がないで、やたらと刃物で掻き回し、皮を削ぐやら、穴あけるやら、声も立てんと馬一頭を、てんでばらば引き散らかしといて
 「いつまで覗いとるっ、去れと言うのが聞えんかっ」
 と、わめくでな。
 「その生皮を引き取るが、せっかく一枚の大皮に穴やら傷やらつけてまい、もったいないことするもんじゃ」と溜息ついたら
「皮は後ほど届けてやるで、ごたく並べず立ち去らんかいっ」
 と、血のりのついた包丁で向こうの道を指しといて、
「こやしつくりの邪魔するなっ」
と言わんでもよいことほざいたでな。
日ごろ馬持ち百姓が、切迫の馬をつぶして喰って、こやしにしたと誰はばからず、百姓なりの顔をしてな。部落の者を賤しめるのがごう腹じゃったで、ここぞとばかり
「なんのこやしじゃ」
 「田畑のこやしじゃ」
 「馬の肉を一口ほどに切り刻み、味噌のころ煮で喰ってまい、糞たれたのがこやしかや。いかにも念の入れようじゃ」
 と、言いだくれてやったがな。
 斃馬をかこんだ百姓たちは、立ち上がるどころかつくなったまま、肩の間に首たれて、まるっきり顔がなかったと。



解説と考察

①浄場、村場の守り: 斃馬の取得権限が及ぶ範囲を浄場・村場と呼んでいる.芝などと同義語.明治以前は斃馬の取得は穢多の権限とされていた.生馬の斡旋を行う者は馬喰労,牛馬の療治を行う者は伯楽,士分の持ち馬を療治する者は馬医者である.
②浄場をめぐり: 穢多による浄場の点検
斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。黒田三郎著『信州木曽馬ものがたり』昭和52年 信濃路発行の「馬のとむらい」
に同様の記載がある.馬をかつぐのには最低でも8人の男手が必要である.人力運搬は一人あたり25-30kg.小型の牛馬なら何とか人力で運べる.車力で運ぶ方法も考えられるが,重量と大きさ,道路の状況から無理と判断される.
③切迫の馬を馬医者: 外科・内科疾患で死に瀕している事を切迫と呼んでいるが,切迫の用語自体は明治期・西洋獣医学導入後のもので,近世の牛馬療治書にはこの用語は無い.
生皮ばかりは慾欠いて、生皮は穢多にとって最も重要な取得物.武具となる皮革を上貢する事で斃牛馬の無料取得権が保障されていた.『部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。』は,商品として斃牛馬が流通しはじめた事を示している.
④仕分けの仕ぶり: 解剖の様子.解剖だけなら腑分けとなるが,食用が目的であるから仕分けと呼んだのであろう.素人の技であるから当然稚拙である.『百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がない』と,玄人は良く観察している.百姓達は自分の持ち馬・牛を食用に屠殺している.

殿さんの馬

被差別部落の民話・殿さんの馬
 むかし、大垣の殿さんの馬が倒れてな。早や切迫のありさまじゃったと。
 城下町からうまやへ通う馬医者もおったが、なんせ親代々の引き継ぎで、治療といえばただ一つ、親が伝えた耳学問が頼りでな。たとえふわけを望んでも、斃馬は残らず部落へ運んでまうで、五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者がおったとよ。
 うまや番の小者が庄屋と連れだって部落へ来てな。城の重役さまの御意向で、お馬の病いを治すため、治療に手だれな者たちに馬医者の手伝いをさせるよう、身分は問わぬのお指図じやったと。
 ならばと部落の長老が、三つの部落と寄り合って、名指しで選んだ十人を、城のうまやへ差し向けたがな。面目つぶした馬医者が、 
「重役さまも物好きじゃ.田んぼのかかしを見るような」
 と、姿みるなりどぷついたとよ。
 うまやの番人が
「馬医者どのの御診断で、お馬は胆の患いじゃ」
と教えてくれたんで、部落の者が顔見合わせたと。この世の中の生きもので、胆のないものは馬と鹿。たらぬからこそ馬鹿じゃと言うに、無いものを患う馬があろうかと、いまさらながらあきれたと。 火急のさいじゃ遠慮は無用と、役人にせきたてられた一同が馬のぐあいをとっくり見たと。
 この馬は間違いもなく食滞じゃ。あてがう飼い葉が多すぎて、日ごろの調教が不足ゆえ、消化ぐあいがにぶいまま、腸がつまって熱まいて、押えてみても腫れとるぞ。こりや糞づまりの気もあるで、このさいいつもの荒療治、屁をさすまでが勝負じゃが、生きるか死ぬかは馬の運、今夜ひと夜さ皆んなして、賭けてみようとうなずいたとよ。
 にきで聞き耳たてとった馬医者がまたぞろいきり立ち
「不浄者のぶんざいで、こんどは治療に手をだす気かっ」と、血相かえてつめ寄ったが、うまや役人に押し止められたと。
 まず、大釜に湯をわかせ、さらし三反、座布団三枚、綱三本、唐辛子三合、筒一本じゃと注文したれば、馬医者どころか役人までのけぞるほどに驚いたとよ.
 倒れた馬をとり囲み、手桶に汲んだ湯の中へ、唐辛子三合ほりこんで、持参の草の実ひと握り両手でもんで掻きまわしたが、これが部落のロづたえじゃと。
 筒先きを喉もと深く差し入れると、喉の呼吸と調子をあわせ、三つ四つ五つと一升五合、馬の胃の腑へ流しこんだと。
 うまやの梁に綱三本を掛けおろし、腹と脇腹に座布団三枚あてがって、上から綱を引き廻し、ひの、ふの、みい、で綱引いて、倒れた馬を引き起したとよ。
「うぬらっ、お馬を殺す気かっ」
 と馬医者がわめいたが、こちらもいまは命がけ、返事無用と綱引いて、馬のひづめがすれすれに地につくほどにつり上げたと。 さらしの布を手ごろに裂くと、釜で煮たてた湯につけて、馬の体をあたためながら、背から腹へと揉みほぐしてや繰りかえし、腹に巻いとる座布団へ、手桶でたっぷり湯をかけたので、うまやに湯気がたちこめて、馬が
脂汁をたらたら流し、まるで湯治場にみえたとよ。湯をわかす者、馬の体をさする者、綱の加減をはかる者、湯気もうもうのうまやのなかで、部落の仲間が声かけあって、身も世もなしの荒療治をつづけたと。
 夜がしらじらと明けるころ、仲間のひとりが声あげて「やあ、聞こえるぞ、聞こえるぞ」と、馬の腹に耳あてがって叫けんだと。さては、と一同が耳すませたら、奥のほうから、ごろ、ごろ、湯気をたてとる馬の腹が鳴ったとよ。腹が鳴ったらしめたもの、いま一息と続けると、こんどは、ぐい、ぐい、ごろ、ごろ、と長鳴りしたぞと言う間もおかず、うまやのはめ板が割れんばかりの屁が出たと。 
「馬が屁をした」「屁が馬をした」とな。
運ぶ手桶を投げだして、どっとばかりに駆けよった部落の仲間が口々に
 「やった、やったっ」 と小おどりしたと。綱引き役がゆっくりと綱をゆるめて降ろしたらば、馬が四っ足ふんばって,おのれの力で立ったとよ。
もう安心じゃ、濡れた寝藁を替えるでなと、うまやの外へ引きだせば、治療の騒ぎを聞きつけて屋敷うちからぞろぞろとさむらい衆が寄ってきたと。 
  昨日にかわる馬の姿を一目みて「さすが名医じゃ」「馬医者どのは大垣藩のほまれじゃぞ」と、口々に誉めそやしたらな。前へでてきた馬医者が、にわかにぐっと胸を張り、さて、おもむろに馬の手綱を握ったと。
土下座しとった部落の者が、歯ぎしりをして立ちあがり、何か言おうとしたらばな。一緒におった長老が
 「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」
 と、肩をおさえてなだめたと。
 そのおり馬が首ふって馬医者の手綱をふりほどき、夜も引き明けの風のなか、鼻ふるわせて高々と二度も三度もいなないたとよ。

解説と考察
城下町からうまやへ通う馬医者は腑分け(解剖)の経験が無いから,五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者である.従って殿様の御馬は胆嚢が無いのに『お馬は胆の患い』となる.話の中にあるように馬と鹿には胆嚢が無いから,馬医の診断は明らかに誤診である.一方,被差別部落出身の治療に手だれな者たちは,不浄者が故に腑分けの経験もあり,一見して馬は食滞,腸がつまって熱が出た糞詰まりの状態で,馬が伏して病む程危険な切迫した状態である事を見抜いている.
唐辛子三合の唐辛子は番椒.太閤秀吉の時に朝鮮より種を取来るとされる.漢方で薬として用いられるのは明代から.薬味は辛,薬性は温.煎剤には殺菌作用がある.持参の草の実ひと握りとは,おそらく牽牛子,アサガオの種であろう.牽牛子は民間・百姓の薬で大小便の不通に著効がある.薬味は苦,薬性は寒.この処方の内服と,吊り馬にしてのマッサージ・温浴の治療法は極めて理にかなっている.
てだれな者達の荒療治が功を奏して,馬は治癒するが,手柄の部分は『さすが名医・馬医者どのは大垣藩のほまれ』と馬医者に持ち逃げされてしまう.
一緒におった長老の「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」の言は,牛馬の療治に携わる者の心意気を良く表し,その言葉に反応した馬の様は,馬の方が馬医者よりも賢い生き物である事を語り伝えている.  

天狗の足あと

天狗の足あと 

 むかし、美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたりじやったとよ。
 なんせ斃馬の皮だけ目につけとったで、丈夫で生きとる馬や牛を、わざわざ落とすなんぞ、ほってもなかったでな、役人は部落に斃馬だけを始末させといて取締ったとよ。
 馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせて、双方におのれ勝手な真似をさせんなんだと。
 斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送ったが、やがて皮革の値がつり上るにつれて、おのれの欲が先きに立ってな。斃馬が出たと、いち早く聞きでかした部落のもんが勝手に駆けつけ、百姓もまた村方にかくれて取り引きしたで、これを部落ではさんしょの拾い得、首姓は捨て得と呼んだとよ。
 拾い得に役人の咎めがないと見定めると、部落の金持ちは人手を使って、大びらに村々の斃馬さがしに目を配ったが、そのうち、岐阜あたりの部落に、佐吉という目はしのきくじんがおってな、拾い得の人足に使われとったと。
 世間は昨今、天狗党の噂でひっくり返えっとってな、やれ、昨日は行列が高富村へ向けて芥見村から長良川を押し渡ったが、なかに白髪あたまの婆さがおって、これが巧みに馬をのりこなし、天狗党を指図して川越えさせたげな、なぞと噂を聞くたんびに、天狗党よりも婆さが乗った馬に気をひかれたとよ。
 戦する気で行列組んで諸国を押し渡るからは、乗る馬、引く馬も連れとるで、これから先の道中で、かならず斃馬が出るじゃろとな。もうけ話に連れはいらん、斃馬はぜんぶ拾い得とばかり、たった一人で天狗党の後を追ったと.
 根尾村の道をあっちこっちと目を配って念入りに探しまわって歩いたが,まずは冬枯れの尾根道に猫の仔一匹落ちとらなんだと.
 たどりついた根尾村は,大雪で,親が懇意な猟師に聞けば,天狗党は今朝がた雪掻き分けて出立したと.
 あわてて村のはずれから、越前ごしの谷間の一本道を追ったらば、三尺ばかりの狭い雪道を、板ほどにも踏みしめた天狗党の足跡のなかに、馬沓の跡も残っとったと。
 ここまで追って来たからは、せめて斃馬の一頭でもと、耳たぶ握って走ったらば、目もくらむような崖っぷちの金具ん下に、
 「あった、あった」
推量どおり馬が落ちとったと。
はるか河原の雪の上に、ぴ-んと四つ足を空へ突っ張って、藁馬みたいにひっくり返ったは、深しあぐねた斃馬じゃったと。
 あたりに馬の荷が散らばって、崖の上から細引きが一本垂れたまんまのありさまは、馬を落した誰れぞが泡喰って崖の中途まで降りてはみたが,余りの高さに胆をつぶしてあきらめたな、と見てとったと。
 佐吉も切ない思いでな。
 この大雪の最中に四、五丈もある崖下の斃馬や荷物が拾えるはずも、運べるはずもなかったで。
 雪解けの春まで待っとっても、河原の斃馬は鳥やけものの餌食になって、残るは骨ばっかじゃ.
 ああ、この世はどいつもこいつもこのおれに、銭もうけさせんように出来とるわ、とな。
 あきらめも早いじんで、すぐさまその場から引き返したとよ。 途中、雪道に突き立ててあった槍の柄を拾ってな、かついで家へ戻ったが、戸口の隅の暗いところへ天びん棒と一緒に立てかけといたと。
 昭和のはじめにな。
 佐吉爺さんの三〇何回忌の法事をするとて親類一同が集まったと。
 戸口の隅を片づけとったら、爺さんの一つ話に聞いた槍の柄がほこりにまみれて出てきたと。
 越前の部落から嫁に来とったかかさが話を聞いて、
 「わしの姥さが娘のころ、仲間の娘と連れだって、海岸ばたの松原へ松ご掻きにいってな。
 熊手で松ごを掻いとったら、熊手の先きがにわかに重うなって動かなんだと。
 力をこめて引っばると、熊手の先きに髷がからんだ生首が二つも転がり出たとよ。
 にきで松ご掻いとった娘の熊手にも、また一つ生首がかかってな、こっちは髷が皮ごと抜けたんで、はずみを喰って尻もちつくやら、叫ぶやら、いずれの首も両眼を見開いて、泥のつまった口をばっくりあけとったと。
 べったり腰を抜かしたまんま震えながらも辺りを見廻したらば、数の知れんほど埋められた者の先が、まるで枯草を敷いたように砂の上でなびいとったとよ。
 娘二人はな、松原の俄作りの首打ち場の真ん中で、松ごを掻いとったんじゃと。それいらい、婆さはな、自分の髪の毛でさえ気分を悪うして、思い出すたんび熱を出したそうな」とな。
越前ごえした天狗党が、部落のにきの松原で一人残らず首打たれても、
そりや覚悟の上じゃで構わんが、この槍の柄の持ち主も覚悟さだめて死ねたじゃろか、なにも供養じゃと一同して、習い覚えた経をあげたと。


解説と考察

➀美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたり さんしょの意味は不明.せっぱくは切迫.傷病家畜の一部は獣医師の診断により切迫屠殺が可能である.と畜場法第九条 二 獣畜が不慮の災害により負傷し,又は救うことができない状態に陥り,直ちにと殺することが必要である場合. 三 獣畜が難産,産褥麻痺又は急性鼓張症その他厚生省令で定める疾病にかかり,直ちにと殺することが必要である場合. 四 遠洋航路を航行する船舶内・・・
②馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせ・・・穢多には斃牛馬の無料取得権がみとめられている.


③斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送った・・・なめし屋はこのほかに猟師からも動物の毛皮を手に入れている.なめし屋は原皮を水に浸して戻してから脳漿鞣を行った.この鞣方は古くからのもので1950年代頃まで行われていた.

浄場めぐり

浄場めぐり
 むかし、数ある部落のなかで四、五軒ばかりの部落では、仲間の人手が少ないうえに、年がら年じゅう近在の野良仕事やら山仕事にやとわれて、そればっかしの日暮らしでな。
 いつのまにやらしきたりの浄場はもとより、村場のつとめを受けかねて村々からの知らせがあれば、人手の多い部落につたえ、場銭をもらって肩がわりしたと。
 代官所でも山里なぞの数のすくない斃馬なんぞの扱いは、村から小言のでぬかぎり、見てみぬふりのありさまでな。
 これさいわいとあんきして、たとえその日の喰いぶちでも、決まった仕事の鋤、鍬とれば、目はしきかせてだれまわる浄場めぐりがうとましくなり、その余のことは放ってまって、雇われ百姓に執心したと。 肩がわりした部落では斃馬の出どこをたしかめて、仲間の浄場に相違はないか、大川なぞを渡らずに大八車ではこべるか、車のかよわぬ山奥ならば、皮だけもらって戻れるか。
 その地の村役の口ききで、始末のできる場があるか、なんぞを問いただしてな。間違いないかを見さだめたと。一頭分の斃馬なら二百三、四十貫はゆうにあったで、山坂ばかりの道のりならば、あんまり斃馬が大きいと、前でかじ棒がはねあがるのでな。荷台のしりに三本もの地づりを立ち高につけて、車の輪にははどめのころをつり、坂道くだる用心したと。
 たとえ日がえりの道のりであれ、浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだがな。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかったと。
 雨が降ろうと日照りであろうと、笠のかわりのほおかむり。手拭ででこにひさしをつくり、車をかこんだ七、八人が顔もあげんと押していったと。
 集めた皮はいのししや熊の毛皮とひとつにしてな。
 ちぢまぬように竹張りをかけ、大きな凧をならべたように、部落の小道に立てかけたり、塩づけにして貯めといて、なめしの部落へ運んで売ったと。
 雪の降る日に酒田の畦道で、行き逢うたのが馬連れの百姓でな。 部落の仲間が目八分で、沼田に片っぼの脛まで入れて、馬を避けたが避けだらなんだと。
 馬の胴っ腹で顔こすられたで、もう片っぽも踏みこんで、そのまま馬を通したが、両脚が抜けんで困っとったと。
 そしたら百姓が振り向いて
 「そこに、そのまま突っ立っとれ。案山子のかわりに使ってやるわ」
 と言いだくれたでな。
 仲間がすかさず言い返したと。
「お前が曳いとるのは浄場の馬じゃ、やがて死ぬまで預けとく」
 夕立ち雨が降っとるおりに、源弥さが家でのさこいとって、向こうの河原を眺めとったらば、百姓たちが馬曳いて通ったと。
 通ったわい思ったらば、またぞろ馬が曳かれていったと。
 この夕立にどこぞで馬市でも立っとるかやなと。そこで源弥さがお嬶言ったと。
 「お嬶、見よ。あの馬は一頭余まさず村場の馬じゃ。さすればわしらが預けた馬じゃ。わしらの身上を百姓が曳くわ」

解説と考察
 この一話で,穢多の斃牛馬取得のありさまを手に取るように見る事が出きる.少人数の部落では雇われ仕事で生計を営むようになり,本業の斃牛馬の取得は,その権利を他の大人数の部落に金銭で譲り渡している.
穢多が個人的に斃牛馬の取得が可能な場所がしきたりの浄場で,百姓の牛馬が死亡した場合は,定まった場所に捨てるように定められている.この場所を百姓の側では「ダブ」とか「牛・馬捨て場」と呼んでいる.また,西日本ではこの区域を「旦那場」とか「芝」とも呼んでいる.
しきたりの浄場は村はずれにあり,この場所から部落への斃牛馬の運搬は人力でも何とか可能である.しかし,他人の浄場は遠方にあるために,斃牛馬の運搬には様々な困難がつきまとう.近世の馬は小さいと言っても二百貫目以上の目方があり,男手八人は最低限必要となる.従って荷車も代八人の大型車・大八車である.大八車は小型の車力と混同される場合があるが,近世の家具・建具は荷台の広さが三尺・六尺あれば殆どの荷物は運搬が可能なように作られている.災害の多いわが国では,箪笥・長持はどんなに大きくとも竿で運べるように仕立てるのが指し物の常識であった.アルミサッシが使用される以前の戸・障子・襖は並みの家なら自転車のサイドカーで運べる程の量.大きな屋敷でも荷車・リヤカー一車程しかない.
一貫目は3.75kg.二百貫目は750kg.1tの荷重に耐える木製の荷車と言えば大八車である.この大八車も道の状況では通行出来ない場所が数多くある.川,山道など物理的に通行出来ない時と,積荷の種類・季節によって通行出来ない時がある.この様な場合は最寄の始末の出来る所に斃牛馬を運び,生皮を採って残りは穴に埋めた. 
『浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだ。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかった・・・』生皮を採取した斃牛馬は油を付けて焼却するとされているが,実際は食用に供した場合が少なくない.
鎌は縄・筵を切る道具で,剥皮・解剖に用いる刃物は出刃としている.先の尖った身の厚い出刃包丁を連想するが,出刃包丁で捌くのは魚・鳥程度で,大型の獣の皮を剥ぐのには適していない.現在でも剥皮は剥皮刀と呼ぶ薄身の両刃の刃物を使用している.使い勝手を考えれば剥皮に使用する刃物は出刃包丁よりも,馬繕いの爪きり包丁に似た刃物であろう.剥皮に続く解体では鋭い出刃包丁が便利である.
解体には・・・勝手な名称であるが,「猟師流」・「肉屋流」・「学者流」等の流儀がある.「猟師流」や「肉屋流」は腑分けの経験の蓄積から生まれたもので,「学者流」は明治以降の西洋獣医解剖学・病理解剖から派生したものである.いずれにせよ近世の馬医者は腑分けを行っていないから,解剖学的な知識がない.馬の胆の腑の患いと見立てて,「馬と鹿は胆の腑が足らぬ故に,足らぬ者を馬鹿と云う」と,知識を持つ者から馬鹿にされる.

2009年3月24日火曜日

『博労さあ』と『犬捕り』

   『博労さあ』と『犬捕り』


 ○○さあ・・・当地では戸主と長男およびその嫁には『まあ』の敬称を付ける慣わしがある.『寅ァまあ』の長男は『辰ゥまあ』で,その妻は『ネーまあ』となる.従って『辰ゥまあ』の『婆まあ』とは『寅ァまあ』の『ネーまあ』である.次男は『次郎さあ』となるが,これが『次郎まあ』となると,長男が若死にして跡を継いだか,養子に来た事になる.その他は『さあ』の敬称で,現在の「○○さん」に相当する.この『さあ』の敬称は,名前以外に社会的地位や職業名に附される事も少なくない.
 『博労さあ』もその内の一つで,牛馬の療治を生業とし,お上発行の獣医免状を持つ者である.正確に言えば明治十八年の太政官布告に拠って獣医は国家免許の生業となったが,この恩典に浴したのは県知事の推薦を得て,内務省所轄・官立の駒場の農学校に入学を許された一握りの元士族の若者達で,近世の各藩では『むまのくすし』とか『馬医』,あるいは『御馬医』と呼ばれた連中である.これに比べ『伯労さあ』とは一子相伝の療治術を親方に習った後に,地方の学校や養成所で駒場農学校卒の獣医を先生にして,近代西洋式獣医術を学んだ者達で,明治から大正時代,地方によっては戦後間もない頃にはまだ『伯楽』と呼ばれていた.
 筆者の記憶にある『博労さあ』は赤皮のジャンパーと半長靴を纏ってメグロの単車に跨り,川の向こうから『セッパク』の治療にやって来た.牛馬の病と言えば「タチ」「コシ」「ナイラ」で,これらは『博労』でも療治可能な病であったが,『セッパク』は獣医師免状持ちの『博労さあ』の診断書・検案書が無いと,表向きは食肉に回せない厄介な病気であった.
 さて,もう一つの『博労』は,決して『博労さあ』と敬称を付けて呼ばれる事はない.何故なら彼らの身分は近世では賎民とされていたからである.明治四年の布告まで彼らの本来の生業は斃牛馬の皮革の取り扱いであったが,家畜の解剖学の知識を得た為に牛馬の療治がいつしか出来るようになっていた.勿論この時に士分の『御馬医師』も存在していたのだが,彼らは陰陽五行論の漢方獣医学を書物で学んだだけで,実際の療治技術は賎しい身分の『博労』にかなう事はなかった.最も優れた牛馬療治の達人は百姓たちから『伯楽さま』とさえ呼ばれていたのである.
 現在『獣医師』と呼ばれる生業の祖先には士分の『馬医』・『陸軍獣医』以外に,民間出身の『伯楽』『博労』等が含まれている.
 家畜に限らず愛玩動物を取り扱う世界にも同様の蔑視がある.昭和二十五年制定の「狂犬病予防法」第三条に定める狂犬病予防員は,ごく最近まで『犬捕り』とか『犬殺し』と呼ばれていた.法の上では狂犬病予防員は都道府県の職員で獣医師となっているが,百姓・町人あがりのザブ(一般庶民)には,『はしか犬』の捕獲に動員された穢多・非人と同じに見えるのである.白衣に青の腕章の予防員は『犬捕り』の旦那で,実際の捕獲に手を下す手下は穢多よりも更に下と見られた『朝鮮人』の『犬殺し』となるのである.
参考文献:『はしか犬』布引敏雄著「長州藩部落解放史研究」三一書房1980年

2009年3月23日月曜日

水藩医官 原昌克著  改訂 瘈狗傷考

 水藩医官 原昌克著  改訂 瘈狗傷考

                         編者 岸浩

前説

 わが国の家畜伝染病流行の起源に興味を抱いて,爾来十余年を過ぎた.その端緒は牛疫であり,すべて朝鮮半島における大流行の直後に一致するというドラマティックものであった.但し私は原典を見ない限りは引用を避ける頑固性分なので,正保牛疫(1646-)と貞享牛疫(1684-)は報告していない.しかし,何れも発生の起点は既報の寛永牛疫(1638-41)寛文牛疫(1672-73)と同じく,山口県か福岡県に限定している.

 牛疫以外に文献上判然とする家畜伝染病に狂犬病がある.この疫病は潜伏期が長く,温血動物の殆んどが感受性を持っており,余りも資料が断片的なので,医学史の中でも流行史の形では捉えられていない.江戸末期に定着した伝染病なのか,牛疫同様にその都度侵入を受けたのかも不明の侭である.確かにこの研究は至難の業だなというのが実感である. 長州藩においても五代将軍綱吉の「生類憐みの令」をうけて生類保護が講ぜられているが,萩城下における野犬の横行は目に余ったとみえ,正徳元年には捕獲野犬島流しの御触れが出されている.この野犬を棄てた島とは,現萩市三見沖の鯖島(無人島)である.但し殺処分した者(穢多)は,入牢となっている判例があるので,建前はあくまでも捕獲であったと見える.

 長州藩記録の中では,狂犬は「はしか犬」または「麻疹犬」と明記され,その初見は元文五年の,一,はしか犬見当次第早速捕へ,穢多へ相渡候様ニとの事「御触控目録(山口県文書館所蔵)」から始まっている.この事と野呂元丈の「狂犬咬傷治方(元文元年刊)」

の中に『それ狂犬の人の咬ふこと,我邦古来未だこれを聞かず,近年異邦り此病わたりて,西国に始まり,中国上方へ移り,近頃東国にもあり』の一節が,前述の至難の業と思いつつも,なお私の研究心を魅了して離さないのである.

 例えば西国に始まりであるが「両郡古談(大分県立図書館所蔵)」の享保十八年の条に,一.享保十八年五六月頃より犬夥敷麻疹に而多くるい人ニ喰付く.はれ候者ハ疵口甚痛,病犬の熱毒皮肉臓腑ニ通り多く死す.尤去子年,長崎辺より流行,牛馬等へも喰付候段,打殺川にも入る也.此薬玉霊丹妙也,小豆禁食也  とあるとおり,野呂元丈の認めた近年とは三年前のことで,西国とは長崎近辺と推察されるのである.長州萩城下街の狂犬捕獲令は,長崎発生から九年後の布令となるが,関門海峡が流行遅延のガードとなっていたのであろう.海峡が有るといっても,人牛馬から犬に至るまで一件につき○○文という舟賃規則も残っているので,潜伏期の狂犬が九州から本州に侵入することは易々たるものといえる.患者から健康人への感染があったことも否定はできまい.

 享保十七年,長崎近辺に発生した狂犬病の蔓延スピードは眼をみはるものがある.例えば 一.享保十七年壬子年,(前略)今年西国筋ハ不気候ニ有之.備前,備中,広島,備後辺之犬迄も病とつき,人民に噛付キ,多ク人損シも有之.播州辺迄も同様之由也.(後略) 「草間伊助筆記巻一(大阪市史第三)」 とあるとおり,現在の山陽沿線を,真一文字に東上している.野呂元丈の執筆と出版は如何にタイミングが良かったかと言わざるを得ない.また改めて狂犬病の猛威に驚くばかりである.

 さて,原昌克(=子柔,通称=元与,号=南陽)の著作「瘈狗傷考」の字訳を思い立った理由は,偶々病を得て入院し,時間をもて余したことのほかに,野呂元丈が記した東国の発症事例と,昌克の治験例が明記されているからである.東国における発生の初めは,管見するところでは寛保元年正月,津軽藩領内の該当記録に見られる.

 一.元文六辛酉年正月地震,同月より犬に病付而有増ノ犬絶程死候.方々ニ而犬ニ喰付れ,死候人も有.其外並馬並狼等も病と見へ,多く所々ニ而死.「永禄日記」

 瘈狗傷考を字訳し終えて感銘を深めたのは,原昌克が随所に私見を開陳していることゝ,徹底した灸冶療法である.いみじくも昭和二十五年七月十四日,東京大学農学部会議室において狂犬病をめぐる座談会が開かれている.昭和二十三年から東京近辺で大流行したときのことで,その議事録は「日本獣医協会雑誌第三巻第八号255~263頁」に登載されているが,その終尾に「人の狂犬病の症状と手当」が記載されている.これを見ると,私は原昌克が自信を持って全治させたとする灸療法が,正しかったと思わざるを得ないのである.因みに左記に述べる局所療法,GHQBEECHWOOD博士がMedical Times(1949)の中から紹介したと脚注されている.この米式焼灼法に用いられた「発煙硝酸」を,日本式灸治療法に置き換えた場合,瘈狗傷考は愈々その価値を見直される医書となるのではないだろうか.少なくとも私は瘈狗傷考の字訳を通じて,文政三年八月十六日,六十八歳を以て没した原昌克を尊敬すること頻りである.本書は当時三十歳の著作となる.

   人の狂犬病の症状と手当 抜粋 出典・・前掲

 焼灼法

 噛まれた部位を囲んで,健康な皮膚の上にワセリン軟膏(Petrolatum)の輪をかき,その内部に毛細ピペットを使って,一滴ずつ発煙硝酸を垂らす.酸は傷の各部にもれなく行きわたらせるが,健康な皮膚にはつけないようにする.この療法は,咬まれてから三~四日たった後に行っても有効である.

 その他傷を石鹸と水とで洗い,生理食塩水で灌注するという考案については,数年前に反対が起り,検討が行われた結果,次のような点が明らかにされた.

①リンパ液や血流は,狂犬病毒の侵入門戸ではない.

②狂犬病毒は,非常に遅い速度で神経幹を通って脳に達する.

③発煙硝酸は組織やウイルスを破壊殺滅する作用のほかに,ごく深部に存在するウイルスも,殺滅し得る深達力を有する.

④できるだけ多くのウイルスを,侵入門戸で殺滅すべきである.それは予防液を応用しても,それはある限られた量のウイルスに対して患者を保護するに過ぎないからである.

⑤顔面に傷痕を残すことは,焼灼法の適応を阻止する理由にならない.それは顔面の咬傷が中枢神経系と密接しているから,どうしても行わなければならないという理由の方が,一層急を要するからである.

  昭和五十五年七月二十日脱稿     於 長州吉敷郡・椹野川畔

                       獣医学博士 岸 浩



原玄与先生著 瘈狗傷考  江都書舗 青藜閣発行

    序

 原子柔の黄岐の道に於ける,其れ心を用ひざる所無けん耶.琑々遣らず,以て常に有らざるに及ぶ.常に有らざる者,弁博及ばざるに非ず.亦或は稀に之に及ぶと雖も,未だ以て之を心に経ざるなり.則ち当に希有にして用いること無かるべし.

 夫れ瘈狗の毒は,水火より猛なり.而して常に有らず.有れば則ち一日二日にして一を以て萬に至る.如し若し苟くも触れば則ち人之に死す,水火に似たるを有す欤.火は以て撲滅すべく,水は以て雍ぐべく,以て決する可なり.瘈狗の毒は撲滅雍決の術なし.弁博亦希に及べば則ち薬石も竟にその治を失うなり.

 予の幼時,一日人来りて云く,某地に瘈狗ありと.明日又人来りて云く某里に瘈狗あり.戒む可しと.一日二日にして一を以て萬に至る.邑里州県,処として有らざるなし.然り,常にあらざれば則ち希に及ぶもの亦希なるが故に,治又其治を得ず.乃ち死者何ぞ限らん,爾来殆ど五十年.又常に有らず.弁博又希に及ぶと雖も今又かくの如く有り.

 予の幼時,嘗て見る所則ち至る.所謂其れ水火より猛なり.子柔,希に有る瘈狗を以て治其の治を得ず.故に之を諸書より蒐閲し,希に及べは則ち集む.竟に巻と為し,人をして其の所に及ばしめんと欲するも逮ばず.予菐に已に面視し,一を以て萬に至る.特に子柔心を用ふるの深きを嘆ず.年の後を我より先んずる者,一たび之を見れば則ち皆能く之を識る.子柔其れ勤めよ哉.

  安永辛丑仲春  淡園 埼 允明 序  印 印


  瘈狗傷考を刻するに叙す

 吾が友子柔の業たる,三世其の美を済す.生死骨肉,治を請うて市の如し.門人笈を負いて,諄々誘掖し,数を守ること清明,論着籍を成す.或は帳秘を問ひ,先ず此の莢を授く.毒の身に逼る何ぞ疾急がざらん.瘈狗人を囓む.其の毒深く入る.一に治療を失せば鍼石及び難し.犬と医と交も害を為す.是れ其の論の以て立つ所,先に急に後に緩し.行して将に習う所を伝へんとし,瘈狗傷考を刻す.

   天明三年癸卯冬    水戸   立原 萬 印


瘈狗傷考

 目次

  論第一

  治法第二

  薬法第三

  灸法第四

  刺法第五

  禁忌第六

  治験第七

 附録     毒蛇諸虫咬

        鼠咬


瘈狗傷考  叢桂亭随筆之一

         水藩医官  原昌克 子柔 甫 著 


論第一

 夫れ虫獣の人を咬害するもの多し.虎狼蛇蠍の害の若きは,深山幽谷,絶人の地,人稀に遇ふ所にして其の禍に罹るもの,亦た甚だ多からず.独り風犬の人を害するや,都鄙市朝を問はず.其の毒に触れるもの,比比相属す.若し夫れ理療一失すれば,即ち其の毒膏肓に入る.或は偶々瘥る者も亦た生冷油賦を誤食すれば則ち旧毒再発,口渇引飲し,妄語狂躁,狗叫の如し.其の証奇怪,名状すべからず.故に之を治するの法,必ず先づ躯内の毒を刈除するを以て要と為す.其の術,予め論定せざるにはあるべからず.夫れ風犬の行るや四五月の際尤も甚しと為す.城郭県鎮,烟火相臨の地,狂狗人を咬む有れば,則ち子弟悪少,相引て之を撲殺す.寒郭陋巷の若き,一犬横行,毒を数人に流す.又,常狗之と闘へば伝染して癲狗となる.是に於て禍に罹る者,亦た少からず.理療一失せば医と犬と,交々害を相為すもの虎狼より甚だし.要するに須く其の方法を照して,宿毒の遺患無かるべし.

 左氏伝に云く,国人瘈狗を逐と云う.即ち風犬なり.或は猘犬,癲狗,風犬,狂犬等の称,皆な同義なり.

 千金論に曰く,凡そ春末夏初,犬多く狂を発す.必ず小弱を戒め,杖を持して以て予め之を防ぐ.防ぎて免れざるもの,灸するに出るは莫し.百日の中,一日も闕けざるもの,方に難を免るることを得.若し初め瘡瘥へ,痛定るを見て即ち平復と言う者,是れ最も畏るべし.大禍即ち到る.死旦夕に在り.昌克按ずるに信なるかな此の言.多くは枯薬を以て傷処に貼し,瘡乾痂脱するを看て,驩て全痾と為す者,速なるは旦夕,遅きは旬月,終に鬼簿を免れざるに到る.

聖済総録に曰く,猘犬齧ば犬狂疾を発し,跑躁人を齧む.若し之に中れば,人をして疼痛止まざらしむ.発狂犬声の如し.急に之を治せざれば,亦た能く人を殺す.男子三日を過れば治せず.婦人五日を過れば治せずと.昌克按ずるに,犬毒の男女を以て理療の遅速を論ずるは蓋し妄誕也.

 胡濚曰く風狗咬傷は此れ乃ち九死に一生の病と.急ぎ斑蝥七枚を用いて,糯米を以て炒り黄にし,米を去り末と為し,酒一盞を半盞に煎じ空心温服して下を取る.小肉狗三四十枚を盡ると為す.数少なきが如きは,数日再服すること七次.狗形無れば永く再発せざる也.累に試み累に験ありと.

 孫一套曰く,斑猫七枚を用て頭足翅を去り,糯米少許を以て新尾上に於て同じく炒り,米黄香を以て度と為す.米を去りて用ひず.斑猫を以て研り砕き,好酒調へ下す.能く酒を飲む人は再び一盞を進む.傷の上下を看て服す.当日必ず毒物有り.小便に従って出づ.小狗の状の如し.未だ下らざる者の如きは,次日再進す.如し又下らざれば又之を進む.毒物出るを以て度と為す.進みて七服に至る.毒下らずと雖も亦害無し.薬を服するの後,腹中必ず安からず.小便茎中刺痛す.必ず慮からず.此毒薬の為に攻られて将に下らんとするのみ.痛甚しきもの,蕪青一匙を以て甘草湯を煎じ送下す.即ち止む.蕪青無きが如きは青黛亦可なり.疾癒て後,急に香白芷五銭,雄黄二銭半を以て末と為し,韮根を搗き,自然汁を湯酒に調へ下す.斑猫の毒を去り,水を以て浄漱し,口に青葱白を嚼み傷処に罨す.小竅を留め毒気を出す.他薬草を用て罨すべからず.

 又曰く,急に治せざれば小狗を生ず.必ず人を殺す.雄黄,蝉脱を等分に末と為し調へ,傷処に敷く.立ところに癒ゆ. 続く










2009年1月26日月曜日

 明治 政府の成立は慶応四年閏四月の「政体書」の公布からで,政体書での太政官制は明治二年の版籍奉還時までで,その後は二官六省の太政官制となり,更に明治四 年七月の廃藩置県後は三院制となった.明治十四年,太政官の制度が改められ内閣制度となって,畜産・獣医事が新たに設けられた農商務省の所轄となってから の記録は「農務顚末」 にある.これ以前畜産・牧畜・防疫等の事は内務省,大蔵省,開拓使が担当す るから,その記録は「太政官日誌」(官報は明治十六年七月二日に創刊. 明治四年には「外務省日誌」も刊行されているが,後述の米国公使C.E.DeLongによる牛疫流行の報告はない)に記されている.特に兵器として用いら れる馬の場合は,軍務官,兵部省,直轄御料牧場の事は宮内省の記録にもそれらが残されている.「明治事物起源」では『政府の牧畜配慮』の項で次のように記 載している.この記載に○「日本馬政史」と◎大村益次郎史料の記録を書き込んでみると,明治牧畜産業には殖産興業の一面と,国防軍事の側面があることが明 らかになる.

 

 政府の牧畜配慮

 明治政府が,畜産農芸を以て国本培養の重大事と為し,草創の際にも拘らず,これに留意せLは,経綸に其人有りしを察すべきなり.左に,農芸畜産に関する政府事業を主として摘録す.

大村益次郎史料 慶応三年十二月九日王政復古の大号令

「日本馬政史」 明治元年幕府の廃止と大総督府の設置.軍馬の事は軍務官の所管となる.大総督府厩は後に軍務官厩と改称.軍務官副知事大村益次郎は馬産を計画し,軍務官附属馬医村井某を任用.

大村益次郎史料 明治元年四月軍防事務局判事.十月軍務官副知事

明治元年閏四月官制の改正.牛馬の生産並びに売買等の件は会計官の所管.官職に御馬方馬医.

大村益次郎史料 閏四月軍務官判事 五月叙従五位江戸府判事 六月叙従四位下鎮台府民政会計掛

明治元年六月,堀田正倫をして佐倉の諸牧を管理せしむ.

八月,安房国嶺岡の牧士等稟請せる牛酪製造再興を聴す.

二年正月,租税司員大武藤助の言を容れ,合計官の管する牧牛の業を安房上総の諸牧に試み,同時に開墾を奨励す.

「日本馬政史」 明治二年四月民部官設置.牛馬の事は民部官の所管.

五月,開墾局を民部官に置く.

「日本馬政史」 七月民部官廃止.民部省となる.軍務官廃止.兵部省設置.軍務官厩は兵部省厩となる.厩馬規則改正

大村益次郎史料 明治二年七月兵部省設置.叙任兵部大輔

七月,東京の人角田米三郎等,結社して協救社と号し,養豚始め牧牛草等の業を拡充して富国の基を開かんことを謀る.其以前養豚場を横浜に設け,種豚凡そ七八十頭を養ひ,専ら肉食の用に供せりといふ.

「日本馬政史」 八月民部・大蔵省合併.牧畜事務は大蔵省通商司にて取扱い.

九月,開拓使に胆振日高の牧場を管せしむ. 

大村益次郎史料 九月四日受傷

大村益次郎史料 十一月五日歿.十一月十三日贈従三位 

十一月,通商司に於て屠牛売肉の実況を試む,既にして需用多きを加へ極めて官私の便益となれり.

十二月,通商司の管する牧牛馬に於て,洋種の牛豚(牛十五頭豚二十四頭)及製乳器機を英人より購入す,伊豆国加茂郡本澤の牧場に種牛十五頭を放つ.

明治三年四年民部省より西洋の牧草甜菜蕪菁等の種子を東京府開墾局等へ分付試播せしむ.

「日本馬政史」 明治三年五月入厩官馬の毛付産地を兵部省に報告.

五月,民部省に勧農局を於き,十二月開墾局と改称.協救社の事業は世人の賞讃啻ならず,遂に養豚をして一時流行せしめたり.

「日本馬政史」 七月牧畜事務を民部省に移転.

九月民部省勧農局新設.

「日本馬政史」 十一月宮内省に御厩局を置く.馬医師,馭者等を任命.

「日本馬政史」 十二月勧農局を開墾局と改称,牧牛馬掛を置く.

明治四年正月,和歌山藩の管内に牧牛場を開き,且つ其産牛繁殖を俟て屠牛場を設けんとの稟申を聴す.通商局の管せる牧牛馬掛を開墾局に移す.

二 月,民部省に於て荒地開墾の傍ら農学校を設け,耕牧の開進を図り叉農事に熟達したる外人数名雇傭の計画を為す.斗南藩の稟請を聴して,開墾局より洋種牛馬 を陸奥国閲七戸地方へ牽出し,良牝に配せしむ.是より先き,民部省にて岩山壮太郎三隅市之助を米国に差遣し,耕牧の事業を調査せしむ.                

三月,民部省に放て米図人ホールを雇ひ,開墾局に属して種芸牧畜の事に従はしむ.

「日本馬政史」明治四年四月開墾局改め勧業局となる.

四月,開墾局を勧農局と改稿し.開墾種芸牧畜生産の四掛を置く.

六月,シベリア海岸の家畜伝染病蔓延の徴あるを以て,予防法を布告し,禽獣皮革の輸入を禁ず,同時に民部省より家畜伝染病予防取締を令す.開拓次官黒田清隆は,米国農学教師ケロン外二名と農具家畜穀菜等の種子を携へて米国より帰朝す.

「日本馬政史」 七月兵部省陸軍条例頒布.馬匹の事は会計局(第五局)馬匹掛の所管となる.地方軍馬も担当.

「日本馬政史」七月民部省廃止により勧業局は大蔵省に移転,勧業司の所管となる.勧業司は勧業寮となる.八月,北海道開拓顧問ケロン等を吹上離宮敵官に廷見し,開拓の事を親諭し給ふ.勧農局を勧農寮と改称し,目黒村駒場野に牧畜試験場を置き,欧米の方法に倣ひ,牛馬を以て開墾に着手す.

「日本馬政史」八月勧業寮を勧農寮と改称

九月,府下青山南北町に開拓使の官園を設け,家畜及種子を栽培し,風土の適否を試験し,後漸次北海道に移せり.ケロンの建策に従ふなり.

「日本馬政史」明治五年二月兵部省廃止.陸軍省,海軍省設置.兵部省厩は陸軍省厩となる.

明治五年五月,開拓使にて,取囲より綿羊と少数の種馬を輸入す.

「日本馬政史」 十月勧農寮廃止.事務を租税寮勧農課に移す.

「日本馬政史」 明治六年三月陸軍省職制並びに条例により,軍務局を第二局と改称.第三課に於いて調馬,騎兵諸隊に属する馬医,馬医学校生徒給料の事等を所管.

明治六年五月,開拓使より牛馬養豚の良種を得んと欲する者は,東京府下渋谷村第三官園に,民有の牝畜を牽致すれば,其種付を許可する旨を広告す.  

八月,先に大蔵省の命にて,牧畜農事観察の為めに洋行したる岩山壮太郎,各種の綿羊数十頭,農具穀菜牧草等の種子数百種を携へて,米国より掃る.名東県管内牛馬疫流行す.綿羊の交尾を奨励す.

「日本馬政史」 十一月内務省設置

十一月,讃淡二国に八月以来牛馬疫流行,既に牛千七百十頭馬十四頭斃死す.

明治七年一月内務省に勧業寮を置く,勧業寮の農務課は内藤新宿試験場内に置き,洋種牛馬羊の種畜及西洋農具を貸與するを務む.

「日本馬政史」 明治七年   内務省勧業寮設置

安房嶺岡の畜牛流行病に罹る,米人ブラウンに嘱して之を治療せしむ.

四月,勧業寮新宿試験場内に,農事修学場を置き,獣医学農芸化学,農学予科,農学試業等の教師を海外より招碑するの議決す.

八月,養畜者の請に應じて,牝馬牛の交尾を許す.

十一月,太政官にて,伝染病流行地へ耕牛資金を下附す.

十二月,去年以来牛疫にて斃死せるもの,四萬二千余頭に及ぶ.

明治八年二月,牝犢の購入を米人ジョンスに托す.

「日本馬政史」明治八年   勧業寮四課で牧畜等の事を所管

五月,内務省にて,大に牧羊業を開かんが為めに,米国牧畜家ジョンスを雇用す.    

七月,牧羊開業方法を企劃し,牧羊生徒を各府県解に募集し牧地を下総にトす.

十一月,内務省にて,牧羊場を下総に相し,牧羊種牧の二大別を為し,種畜場を埴生郡香取に開き,牛馬飼ひ且つ洋製農具を試用す.

明治九年二月,疫牛処分條例を仮定す.清国人仇金寶・陸享瑞を雇ひ,家禽の人工孵卵法を拭験す.

三月,内務省良馬二百余頭を買ひ,香取種畜場に放飼す.

八月,ジョンス等を清国及米国等に遣はし,綿羊を購入せしむ.

十月,大に下総牧羊場を拡張す.

十一月,駒場野原野開けたれば,牧馬に関する試験を勧業課にて実施す.農学校新築敷地を駒場に定む.綿羊千二百除頭を清国より輸入す.

十二月,内務省より府県に令し,牧羊適應荒蕪地の縮図を進致せしむ.清国より輸入せる綿羊を,下総牧草地に移す(合計千二百八十四頭内蒙古羊八百四十頭,上海羊四百十八頭,山羊二十五頭,外に着後出産九十一頭.斃死十八頭なり.)

明治十年一月,勧農寮を勧農局と改称し,大蔵大輔松方正義に局長を兼ねしむ.局員を清国に遣はし,綿羊を購入せしむ.

六月,内務省ラシャ製造所建設地を東京千定に定む.

十月,洋種牛貸與規則を定む.

十二月,農業修業場を駒場野に移し,農学校と改む.内務省繁殖用牛馬を米国より購入す(牝牛二十六頭,牡牛十六頭,牡馬十二頭)伊太利国産の蜜蜂を購入し,之を新宿試験場に飼養し,内外蜜蜂の得失を試験す.

明治十一年一月二十四日,駒場野農学校成る,車駕臨みて開校式を行ひ賜ひ,勅語あり,又外国教師に勅諭す,内務卿大久保利通勅答す.

 







     



学而不思則罔