三 好 竹 壮
第一次大戦が終り大正天皇の御大典があった頃私は卒業しました。顧
みれば五十年に垂んとし、私自身も古稀を迎えるに至り記憶もうすれま
したが、ほんとにいい時代だったと思います。
当時の卒業生が毎年二回県下のどこかの温泉に集って同窓会を開き、
誰も死にそうな顔をしているものは一人もなく頼もしい限りです。当時
校舎も建築間もなく整頓していて、校門から本館までの道の両側に梨の
ダイヤモンド仕立てがならび、右手に花園、畜舎、左手に養蚕室、獣医
科の実習室があり、寄宿舎も南、北、西寮と舎監室の四棟。起床、食
事、就寝ともラッパの音でキチンとしたものでした。何しろ若い食い気
盛りで、正午のラッパが鳴ると各教室から雪崩をうつて食堂に殺到し、
豚汁等の予報があった時など、少し遅れると肉など一片もない味噌汁を
吸わねばならず、それでもしんみように上級生のすむのを待って頂いた
ものです。階下が寝室、二階が勉強部屋でした。二年間は南寮四室に、
三年目には西寮一室に変りました。
巡察の河村舎監長の金縁眼鏡の底の眼光が憤った。寒稽古では河村先
生に引ぼり出されてへ卜へトになるまで打込みをやらされたことも今思
えば先生が懐かしい。大正五年の三月卒業し、その年の徴兵検査で丙種
国民兵役、従って兵隊の経験はありません。緑あって農商務省の畜産試
験場や種半場で両教育を受け、大正十年兵庫県産業技手拝命、県庁、郡
役所、種畜場と七年居て山口県へ出向を命ぜられ、県庁に二年、玖珂郡
に二年、昭和七年五月種畜場勤務を命ぜられ、爾来二十年種吾場に勤
務、昭和二十六年四月退職致しました。
昭和七年には門脇場長が退職され、県の畜産主任技師(当時は農務課
の畜産係でした)中島周蔵氏が場長となられたが、兼務である為め岡本
一郎技師が場務主任で、庶務主任が小田村技手、業務係は私と三好保夫
君、助手一名、小便一人という陣容でした。その頃は家書も少く、農場
の日雇人夫も一日五拾銭位だったと思いますが、いつもワンサと押しか
け、過剰人員をことわるのが困難だった時代で、従って仕事も思った様
にでき、終業後は球が見えなくなる迄テニスをやれたものでした。当時
の農務課長原田知杜氏と中島場長の発案で、県下の民有種牡牛を一掃
し、和牛改良の目標に近い広島、岡山両県産の墳牛を県で購入し、種音
場で育てて民間に有料で貸し付け、貸付期間が過ぎたら無償交付すると
いう新案を実施する故、果して毎年何頭宛育成すればよいかという調査
を命ぜられ、一週間位県庁に行って毎年三十頭宛購入育成する案を樹て
ました。
この時の新規要求予算額が五百円だったと記憶します。この仕組を知
事さんに説明してもなかなか判ってもらえず中島場長も閉口されたらし
い。綿密な中島場長の計画されたこの制度はずっと続けられ、終戦後数
年して家書保健衛生所ができ、種牛の人工受精が実施されるまで続いた
と思います。一面本県には阿武郡に無角牛が居り、これをどうするかの
問題も中島さんの頭痛の種でしたが、阿武郡には無角牛改良の指導者井
上之文民、渡辺茂氏が居られ、難局を切り抜けてよく今日の盛大さに導
かれた功績は何といっても偉大であると思います。
三年毎に開かれる中国五県連合畜産共進会ではいつも無角和種が本県
としては優位に在った為、有角産地の方々はいつも不満でしたが、実際
他県に比しはっきりした特徴をもった牛ができないことは、私達として
も何ともやるせない思いで一杯でしたが、肉牛では断然他県をしのいで
やつと溜飲を下げたものでした。
畜産講習というのが門脇さん時代からあって、十名内外一カ月間場外
の民家に泊って場で講習を受けていました。この時代に講習を修了され
た方々に本県畜産改良の為に尽された方が多いのは特色でした。この人
数を増して場内で教育する為に寄宿舎と講堂を兼ねたものを建設するこ
ととなり二階建一棟を造りました。予算が千六百円だたと思いますが、
今も尚使われています。
新規予算がなかなか取れず中島さんの時代に厩肥舎一棟と倉庫一棟が
できた様に思います。中島さん御退職の後任は内田氏でこれも兼任でし
た。和牛登録の事業が盛になって来たのもこの時代でした。次が伊藤氏
でその次が井上氏でした。既に岡本技師は佐賀県の主任官として転出さ
れ、緬羊舎や育牛舎の建設、乳製品の製造、人工受精の実施など数々の
功績を残されました。
昭和十四年には日華事変が起き七月突如三好保夫氏が応召。一時一人
で二人役やり、従業員にも次々応召があり、戦時体勢はヒレヒレと押し
寄せました。
井上場長の前半昭和十五年に主任場長西周馨氏が和歌山県から転任さ
れました。在職二年で中央畜産会に転出され、昭和十六年私が場長を拝
命しました。昭和十四年は未曽有の早魅で一夏中困りぬき、やつと下流
の岩永の水源地から逆に水を揚げて場に達する水道を布設しましたし、
豚舎一棟を新築しました。その頃三好保夫氏は一時帰郷半年位勤めて又
南方へ出征しました。
此の頃から人手不足で圃場が荒れるので耕怒磯を購入してこれを補う
よう予算を出したら、年や馬を飼う種畜場で耕寂磯とは何事かと大叱ら
れ、勿論予算は拒否されました。今は亡き当時の農務課長が現状を見ら
れたら、さぞかし今昔の感が深かろうと残念な気もします。
牧夫が居なくなるから女(寡婦)を雇入れましたが、何組も居るとそ
れでなくてもかしましいのが、互に角づき合いで始末に了えない。幸に
風紀問題が起きなかったのがもうけもの位。一般でも人手不足で、その
頃になると学校の女先生方が襲って牛馬耕の講習をやるやら勇ましいこ
とでしたが、食物が大豆御飯ときているので、大部分の人達がおなかを
こわし閉口しました。
人手不足ですから職員も朝五時から起きポロ出し搾乳などやりました
が、効果的には今までの半分位しか出来ません。青年学校生徒、農民道
場の生徒等動員してもやりきれません。
終城の年の五月から七月まで赤郷に飛行場ができるというので種畜場
小隊というのが編成され、泊り込みで土工作業につきました。国民軍動
員と同じことでした。十九年の三月からできた農兵隊というのがありま
した。小学校を卒業した男子が美祢中隊というのを編成し、種畜場の寄
宿舎を居所とし農家の手不足に出動して働く仕組みでした。隊長が知人
でしたので場の用務も隊員に手伝ってもらい大いに助かりました。これ
が終戦の時も在場して終戦後も毎早朝整列して唱えごとをし、天突き体
操をやり意気軒昂でした。
丁度その頃、たしか八月の下旬警察から電話があり「特こう課長の内
意であるが、今まで山口刑務所に入れていたスパイ容疑者が釈放され、
湯田までの国道を散歩させているが、子供が石を投げるので危いから種
畜場へ収容しようと思うがどうか」といってきた。特こう課長は元の農
務課長で、ここの様子をよく知っていられるのですが、私は考えた。ス
パイ容疑者というが言いかえれば日露戦争に於ける横川沖の如き志士で
はないか。こちらは欺戦国だ、なまじなことはできないと思い、室がな
いから受け入れられないと返事すると、間もなく、牛房を手入れしてで
もよいから貸せという、仕方がないから、こちらの職員宿舎を明けて彼
等を収容し、自分等が牛舎の二階へでも移ろうと考え、兎も角牛舎では
困りますと返事したというのは、彼等を収容しても例の農兵隊の連中は
まだ戦う気持で訓練をやっている。
飛んだことになったと思ったが、其の後何ということもなく立消えに
なった。あの時牛舎に収容したら今頃はこちらが命がなかったろうと時
々首筋をなでてみたことでした。昭和二十三年頃から続々復員してきた
若い兵隊上りの青年達を三十名宛六カ月訓練して、有畜農業の指導者を
作ろうと県の農業会の養成所を開いて二年つづけた。大いに助ったこと
もあったが、何しろ殺ばつな連中のこと、手こずったことも一入だっ
た。気を抜く為に劇の練習を仕事の合間にやらせて厄をよけたこともあ
った。
その後は漸次平静になったが、昭和二十六年一月家内が死亡したのを
期に同年四月退職した。実は種畜場の移転論が県会でも出るし、何とか
決論が出し度いと考えていたし、場の建物も旧いし、戦後の農業経営に
寄与するには機構設備の大改革を必要としたので、二十五年の秋、当時
の田中知事の御来場を乞い、郡内選出の県議二人に立会斡旋して琴っこ
とにした。当日は場の近くの小山の上から場の周囲を展望して貰い、地
理的の適否等も聞きたかったので、馬に乗っていただいて自分が案内し
た。
目的を果して下山の途中、田中知事日く「中国各県の種畜場は再度視
て廻ったが、当場は牧場としては適地であり移転の要はない。明年は改
造費一千五百万円程やるから新しい構想の許に大改造せよ」とのこと。
場長室に帰って両県議交え、更に右の話を確約された。裁断流るるが
如しというのは、この人にしていえることだとつくづく敬服すると共に
闘志を新にした次第であった。然るに明けて一月家内が死亡し、加えて
家庭的事情が急迫していて遂に退職を決意せざるを得なかった。
後任の中村場長がその計画を遂行したのが現在の種畜場であるが、今
や農業改革の時代に入り、和牛というのが肉牛となる等、畜産も大いに
変ったし種畜場も試験研究機関に変貌しっつある。
茫々三十年顧みて感深いものがあります。
大正五年 獣医科卒 山口県種畜場長
現 美祢市議