「牛病新書」は明治七年三月香雲閣蔵版で静岡・柏原学而訳、陸軍一等軍医正・正六位石川良信閲とある。訳者は十五代将軍慶喜の侍医の蘭学者。「流行牛病予防説」の著もあるところをみると明治初頭のシベリヤ沿岸牛疫流行の折に調査した大学東校の人物とは、まさにこれであろう。獣医学の歴史にはまだ登場した事のない書である。
「牛病新書」の内容について更に調査してみた。緒言で訳者は『一牛医学モ亦自ラ人間有用ノ一学ナリ然ルニ吾邦未タ其学ヲ講シ其術ニ習フ者アルヲ聞カス・・・蓋シ予固ヨリ牛医タラン事ヲ欲スル者ニ非ス・・・』と述べ、原本は1866年のオランダ獣医学校教頭プロプァーニューマンの家畜医書第六版とある。
注目すべきは『牛医』の名称である。明治始めのこの時期に職名としてあったのは『馬医』で、それ以外は『伯楽』か『馬喰』程度である。正式に獣医の名称が用いられるのは、明治十四年からで、免許制度の制定は明治十八年からである。
「流行牛病予防説」との関連もあるので巻ニの第五章『牛疫即チリュンデルペスト』にも目を通したが、太政官布告にあるような予防法は記載されていない。
獣医免許制度制定直後、日本の獣医学はドイツ式が主流となるために、蘭学のこの書も全く陽の当たらないものとなってしまったようである。