2009年9月3日木曜日

長州藩牛馬と雑戸の数

宰判名
       馬    穢多 戸   穢多 人   茶筌 戸   茶筌 人   宮番 戸   宮番 人
大島 3032 5 5 37 69 400

奥山代 2230 254

45 164
7
前山代 2138 259

23 92

上関 2845 110 32 131 93 467

熊毛 3275 330 291 1357 34 127

都濃 2119 441 254 1266


166
三田尻 812 3554 199 1033 1 4 9 34
徳地 2459 468 50 228



山口 1621 1861 115 481

19 77
小郡 781 3324 134 622

31 148
舟木 2504 2458 154 703

15 82
吉田 3546 1085 68 317

12 49
美祢 2309 1468 62 302

16 68
先大津 3709 390 20 93

13 49
前大津 2516 502 23 105 5 24 16 54
当島 2560 926 102 542

29 124
奥阿武 5111 1165 111 415 2 7 29 103
     計 43567






当島穢多猿曳

8 44



当島浜非人

41 208



2009年9月2日水曜日

ばくろう

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定番相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取得侯所、
日切二至り代銀不埒之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩ェ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙ニ書附置申之由
候へ共甚不謂儀候条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭ェ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯欺又ハ最前之牛馬差戻シ候救いつれ之道埒明可申侯、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯欺、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相答候、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外ェ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人工売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二村、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主工差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
候事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 

2009年9月1日火曜日

              下羽坂村 一雑戸七拾四軒         垣之内 

 傳云、往古ハ十八軒にて今の西門前町のうしろ川邊に往居せしか、今に至りても其所を
 
固屋々敷と呼ひ御年貢地なるを垣ノ内の者持傳へ侯、慶長の比今の垣ノ内といふに居を 
 遷したるよし、その証左の如し  
 巳上
 今度於山口垣之内こ御断申屋敷併畠代四拾壱枚、巳来共こ御除被遣御公儀郷中
 夜廻役馳
走可仕所如件   慶長九年 三月三日      相嶋作右衛門書判
 此御書下之畠代とあるハ、御一紙除ニ田四反壱畝拾七歩高八石垣之内屋敷と有之分なる
 へし   
 又
 御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉左衛門ニ申付侯、   
 日向(毛利就隆)様 甲州(毛利秀元)様 美濃守(吉川廣正)様御領分之儀は相除、
 
 其外之分は御蔵入諸給領共ニ皮屋役中江右之吉左衛門より其沙汰可仕侯間、異儀有間敷
 
通其郡中諸村之庄屋中江可被申聞候、給領之庄屋江も旁より可被申渡候、恐々謹言
 
 正保弐年          (児玉元恒)
     三月七日     
   児 淡路
      諸郡 御所務代中
 御武具方御用の特牛皮素垣之内者より百枚充上納仕来候を故有て御両国長利中江割符仕

 
候事のよし其時の御調書と相見候、しかるに此地にかきりて長利と云ハすして垣の内と

 
唱へ来候、他郡長利の居所にハ平民と混し不申ため外側に四ふちの垣を結ひ廻し其内に

 
住居する故にも垣の内と唱るよしの説あれと、右の御書下の文面にてハ垣の内示地 

 
名とも相聞へ候、和名抄に戸とありて五畿内には垣外といへるより地名おのつから  
 
符合する故垣の内とるならんか、又御具足皮御紋付物他国御進物の小豆革草人等限
 ある御用をも被仰付、御除の地に住居すると云ひ、御国中にてハ彼等か類の中にても品 
 
よろしき簾も有之、商売につきて他国へ出入る時も往来御手形に垣の内の者とある抔
 
き故よしある事にや、前に出せる御書付ハ過し天保弐卯の年郷民風狂の如くに騒立、此
 
垣の内にも至りて破壊せし写のミ存れり

右の家数七拾四軒之内十八軒、古来より芝の上抔と称して村々へ手を分ちて夜廻りなとせ
 しより今に至りても本軒と呼ひ銘々受の村方を時々廻る事也、或説に芝持といへるは村々
 斃牛馬の時芝原抔へ拾るを支配せる故に斯唱ふるといへと、夜廻り馳走役の事抔考れは右
 の説信かたし、されと何をもて芝とよへる故事不詳、二季に米麦を貫又困究に及ふ等の時、
 其村方に扶助を乞ふ事ありて芝と唱ふるを寺院に比すれハ檀家に似たるもの欺


防長風土注進案は天保の末に作られたので,二年の大一揆の後である.この時,百姓勢は
三田尻の町・村役人,商人,穢多を打壊し,続いて山口へと向っている.山口では下羽坂
村の垣の内が打壊された.

学而不思則罔