2016年12月27日火曜日

下小鯖皮番所跡
































下小鯖皮番所
山口に藩庁が移る以前は毛利藩の中心は萩で、萩から瀬戸内海に出る途は萩往還を通って佐々並から山口の上竪小路経由で石州街道に出、これを小郡の方向に少し下って鰐石橋を渡って勝坂の峠を越える道である。古い三田尻往還は現在自転車道として整備されているが、下小鯖の辺りでは新しい国道252号線と略並ぶ格好となっている。ここに一軒の建築機械のレンタル会社があるが、その直ぐ側に天保二年の大一揆発祥の地・皮番所の跡とする石碑がある。これはグーグルのストリートビューでも見る事ができる。この石碑の前に立って国道252線を見ると如何にもこれが三田尻往還であるような錯覚に陥るが実際の昔の途は石碑の向こうにある幅六尺ほどの小径である。
 この小径に立って天保二年のその時に想いを馳せる。御目付所の日記には「駕籠に乗った対州交易御用達石見屋嘉右衛門と召使の安五郎と荷駄一匹、さらに対州交易御用達中ノ関の上屋儀兵衛の一行は、七月廿六日晩方、山口小鯖の観音原と申す所を・・・」

この場所に皮番所を設けたのは三田尻港に行く抜荷の皮を見張るためであった事は明らかである。もし、逆に三田尻方面から萩に向かう皮荷があったとしても、それは藩の御用品であるから百姓風情が手出し出来るものではない。更にこの当時、この辺りで皮の処理が出来る者は下羽坂の垣の内の穢多のみで、彼らが萩に皮を送る場合は荷駄に載せて萩往還に向かうから三田尻とは逆の途になる。更に上納の皮を大阪送りにする場合は下羽坂から川船で小郡の東津に津出しをするのが最も便が良い方法である。

死牛馬買仲間について 大阪府大「社会科学論集」6.7


2016年6月12日日曜日

革工

増補訂正「工芸志料」は黒川真頼著で東洋文庫として現在でも販売されているが、ネット上では宮内省博物館蔵版・有隣堂明治二十一年十月再版のものが公開されている。この巻五が革工で、ここには昔、百済の工人が革工を伝え、聖武天皇の頃に革工が盛んになると共に、この頃に革工人以外に『諸獣ノ皮ヲ剥キ肉ヲ屠ル工人』が出てくるとしている。この工人が『恵止利』で後世に『恵多』と呼ばれるようになったともしている。更に武家社会の時代になる頃、皮を剥ぐ工人は卑しい者として別村落となり、これをエタと呼ぶようになったとしている。その後、徳川家康の時代になると皮剥工は一処に集められて平民とのまじわりを禁止され、長吏(越後の国ではブンジ・ジナコともいう)と称されるようになった・・・としている。正確には慶長五年の『牛馬犬の皮は剥皮工に非ざるよりは之を剥ぎて革と為すことを得ざらしむ』の令である。

2016年4月1日金曜日

菊池東水について

菊池東水 生・没年不明。名、武樹、久之進。一橋家の馬医で太子流。天保年間にオランダの馬医学を学び嘉永五年「解馬新書」を江戸尚古堂より発行。「解馬新書」の序に我が国の医馬の道は大国主命・少彦名命にはじまり、聖徳太子の時代に高句麗の僧・慧慈が橘猪弼に朝鮮半島の馬医術を伝えたと記している。

2016年1月30日土曜日

ゼンリンの地図から

一番古い昭和58(1983)年の地図では山口市吉敷下東の屠畜場は山口市屠畜場となっている。1987と1993年は山口県屠畜場、1995年が山口市食肉センターとなっている。

2016年1月24日日曜日

著者の捏造 一画多いと・・・

問に一画加え間とすると・・・

間の字の方が刻み憎い。この書の元になる中国本は寳善堂梓とのみあって著者名は無い。日本人による翻刻であるから中国音を記す必要はない。列挙される本屋の名から近世末から明治頃か?
一箇所のみの誤記なら書き込みミスで済むが、三箇所も続くと・・・


新刻針醫叅補馬經大全 4巻

著者

    • 馬, 師間 バ, シカン ma, shi jian

書誌事項

新刻針醫叅補馬經大全 4巻
馬師間編輯
河内屋喜兵衛 , 菱屋藤兵衛 : 永樂屋東四郎 , 吉野屋仁兵衛 , 和泉屋吉兵衞 : 須原屋新兵衛 : 岡村庄助 : 和泉屋金右衛門 : 岡田屋嘉七 : 山城屋佐兵衛 : 須原屋伊八 : 須原屋茂兵衞, [出版年不明]
タイトル別名
馬經大全
新刻叅補針醫馬經大全
新刻叅補馬経大全
叅補馬經大全
新刻針医参補馬経大全
タイトル読み
シンコク シンイ サンホ バキョウ タイゼン

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学而不思則罔