下羽坂村 一雑戸七拾四軒 垣之内
傳云、往古ハ十八軒にて今の西門前町のうしろ川邊に往居せしか、今に至りても其所を
固屋々敷と呼ひ御年貢地なるを垣ノ内の者持傳へ侯、慶長の比今の垣ノ内といふに居を
遷したるよし、その証左の如し
巳上 今度於山口垣之内こ御断申屋敷併畠代四拾壱枚、巳来共こ御除被遣御公儀郷中
夜廻役馳走可仕所如件 慶長九年 三月三日 相嶋作右衛門書判
此御書下之畠代とあるハ、御一紙除ニ田四反壱畝拾七歩高八石垣之内屋敷と有之分なる
へし
又 御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉左衛門ニ申付侯、
日向(毛利就隆)様 甲州(毛利秀元)様 美濃守(吉川廣正)様御領分之儀は相除、
其外之分は御蔵入諸給領共ニ皮屋役中江右之吉左衛門より其沙汰可仕侯間、異儀有間敷
通其郡中諸村之庄屋中江可被申聞候、給領之庄屋江も旁より可被申渡候、恐々謹言
正保弐年 (児玉元恒) 三月七日
児 淡路 諸郡 御所務代中
御武具方御用の特牛皮素垣之内者より百枚充上納仕来候を故有て御両国長利中江割符仕
候事のよし其時の御調書と相見候、しかるに此地にかきりて長利と云ハすして垣の内と
唱へ来候、他郡長利の居所にハ平民と混し不申ため外側に四ふちの垣を結ひ廻し其内に
住居する故爰にも垣の内と唱るよしの説あれと、右の御書下の文面にてハ垣の内示地
名とも相聞へ候、和名抄に餘戸とありて五畿内邊には垣外といへるより地名おのつから
符合する故垣の内と称るならんか、又御具足皮御紋付物他国御進物の小豆革烟草人等限
ある御用をも被仰付、御除の地に住居すると云ひ、御国中にてハ彼等か類の中にても品
よろしき簾も有之、商売につきて他国へ出入る時も往来御手形に垣の内の者とある抔旧
き故よしある事にや、前に出せる御書付ハ過し天保弐卯の年郷民風狂の如くに騒立、此
垣の内にも至りて破壊せし写のミ存れり
右の家数七拾四軒之内十八軒、古来より芝の上抔と称して村々へ手を分ちて夜廻りなとせ
しより今に至りても本軒と呼ひ銘々受の村方を時々廻る事也、或説に芝持といへるは村々
斃牛馬の時芝原抔へ拾るを支配せる故に斯唱ふるといへと、夜廻り馳走役の事抔考れは右
の説信かたし、されと何をもて芝とよへる故事不詳、二季に米麦を貫又困究に及ふ等の時、
其村方に扶助を乞ふ事ありて芝と唱ふるを寺院に比すれハ檀家に似たるもの欺
防長風土注進案は天保の末に作られたので,二年の大一揆の後である.この時,百姓勢は
三田尻の町・村役人,商人,穢多を打壊し,続いて山口へと向っている.山口では下羽坂
村の垣の内が打壊された.
牛に膽あり.鹿馬これを欠く.足らぬ故にこれを馬鹿と呼ぶ.牛膽に玉のやうなるものあり.名付けて牛黄.神農本草経に驚癇寒熱,熱盛狂痙を治し,邪を除き鬼を逐うと.また,左経記に河原者の獲りたる牛の珠の事あり.牛黄を獲るは秘伝にして他言無用の秘事なり.以て秘すべし.秘すべし.ヲンロケンジンバラキリクソワカ.
2009年9月1日火曜日
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学而不思則罔
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