『博労さあ』と『犬捕り』
○○さあ・・・当地では戸主と長男およびその嫁には『まあ』の敬称を付ける慣わしがある.『寅ァまあ』の長男は『辰ゥまあ』で,その妻は『ネーまあ』となる.従って『辰ゥまあ』の『婆まあ』とは『寅ァまあ』の『ネーまあ』である.次男は『次郎さあ』となるが,これが『次郎まあ』となると,長男が若死にして跡を継いだか,養子に来た事になる.その他は『さあ』の敬称で,現在の「○○さん」に相当する.この『さあ』の敬称は,名前以外に社会的地位や職業名に附される事も少なくない.
『博労さあ』もその内の一つで,牛馬の療治を生業とし,お上発行の獣医免状を持つ者である.正確に言えば明治十八年の太政官布告に拠って獣医は国家免許の生業となったが,この恩典に浴したのは県知事の推薦を得て,内務省所轄・官立の駒場の農学校に入学を許された一握りの元士族の若者達で,近世の各藩では『むまのくすし』とか『馬医』,あるいは『御馬医』と呼ばれた連中である.これに比べ『伯労さあ』とは一子相伝の療治術を親方に習った後に,地方の学校や養成所で駒場農学校卒の獣医を先生にして,近代西洋式獣医術を学んだ者達で,明治から大正時代,地方によっては戦後間もない頃にはまだ『伯楽』と呼ばれていた.
筆者の記憶にある『博労さあ』は赤皮のジャンパーと半長靴を纏ってメグロの単車に跨り,川の向こうから『セッパク』の治療にやって来た.牛馬の病と言えば「タチ」「コシ」「ナイラ」で,これらは『博労』でも療治可能な病であったが,『セッパク』は獣医師免状持ちの『博労さあ』の診断書・検案書が無いと,表向きは食肉に回せない厄介な病気であった.
さて,もう一つの『博労』は,決して『博労さあ』と敬称を付けて呼ばれる事はない.何故なら彼らの身分は近世では賎民とされていたからである.明治四年の布告まで彼らの本来の生業は斃牛馬の皮革の取り扱いであったが,家畜の解剖学の知識を得た為に牛馬の療治がいつしか出来るようになっていた.勿論この時に士分の『御馬医師』も存在していたのだが,彼らは陰陽五行論の漢方獣医学を書物で学んだだけで,実際の療治技術は賎しい身分の『博労』にかなう事はなかった.最も優れた牛馬療治の達人は百姓たちから『伯楽さま』とさえ呼ばれていたのである.
現在『獣医師』と呼ばれる生業の祖先には士分の『馬医』・『陸軍獣医』以外に,民間出身の『伯楽』『博労』等が含まれている.
家畜に限らず愛玩動物を取り扱う世界にも同様の蔑視がある.昭和二十五年制定の「狂犬病予防法」第三条に定める狂犬病予防員は,ごく最近まで『犬捕り』とか『犬殺し』と呼ばれていた.法の上では狂犬病予防員は都道府県の職員で獣医師となっているが,百姓・町人あがりのザブ(一般庶民)には,『はしか犬』の捕獲に動員された穢多・非人と同じに見えるのである.白衣に青の腕章の予防員は『犬捕り』の旦那で,実際の捕獲に手を下す手下は穢多よりも更に下と見られた『朝鮮人』の『犬殺し』となるのである.
参考文献:『はしか犬』布引敏雄著「長州藩部落解放史研究」三一書房1980年
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