2014年6月6日金曜日

平仲国と太子流の由来・日本馬政史より

平仲国と桑嶋流
「仮名安集」の成立は慶長九年1604年、「若狭国志」に因れば「仮名安驥集」は元雲州の産で京極家の招きで小浜に住す橋本道派・一閑和尚らの刊。平仲国は馬師皇の安驥集を代々伝え、藤原仲綱より道蝸-道派に伝うとある。
桑嶋家伝「伯楽病理口伝」元和六年1620年に本朝伯楽開起平仲国也とある。
桑島家の系図は
九州肥後平仲国息安国-伊勢国源道義息尚義-越後国平盛頼-備前国平義親-奥州藤原心海入道仲時-仲綱の母-息藤原仲綱-桑嶋平六息藤原宗綱-天下一桑嶋肥前掾(昔の国司三等官の名)藤原実綱-桑嶋采女正藤原重綱とある。
太子流は承応元年1652四月望日相伝「馬病療治書」一名「療馬元鑑集」の由来に『人王三十一代敏達天皇五世孫井手左大臣橘諸兄公末孫、山城国自水野里出、尾州知多郡小川村一色住人、水野下野守、末孫喜心より馬医道伝来、然る後宮崎勘右衛門伝受後鈴木五助伝当家為秘書』

いずれも十七世紀のことで、聖徳太子・厩戸皇子や遣唐使と結び付くものではない。この話は徳川幕府お抱えの馬医・桑嶋流の伝説に尾鰭が付いて広まったものとみえる。


2014年5月12日月曜日

平仲国・桑嶋流は馬師皇系、太子流は別系

平仲国と桑嶋流
「仮名安驥集」の成立は慶長九年1604年、「若狭国志」に因れば「仮名安驥集」は元雲州の産で京極家の招きで小浜に住す橋本道派・一閑和尚らの刊。平仲国は馬師皇の安驥集を代々伝え、藤原仲綱より道蝸-道派に伝うとある。
桑嶋家伝「伯楽病理口伝」元和六年1620年に本朝伯楽開起平仲国也とある。
桑島家の系図は
九州肥後平仲国息安国-伊勢国源道義息尚義-越後国平盛頼-備前国平義親-奥州藤原心海入道仲時-仲綱の母-息藤原仲綱-桑嶋平六息藤原宗綱-天下一桑嶋肥前掾(昔の国司三等官の名)藤原実綱-桑嶋采女正藤原重綱とある。

太子流は承応元年1652四月望日相伝「馬病療治書」一名「療馬元鑑集」の由来に『人王三十一代敏達天皇五世孫井手左大臣橘諸兄公末孫、山城国自水野里出、尾州知多郡小川村一色住人、水野下野守、末孫喜心より馬医道伝来、然る後宮崎勘右衛門伝受後鈴木五助伝当家為秘書』

いずれも「日本馬政史」より。九州の平氏とは壇ノ浦の合戦の落ち武者であろうか?

2014年5月5日月曜日

「日本家畜売買法」中央獣医会雑誌付録・明治二十五年三月

kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796389
佐藤晴明は「日本馬政史」の編纂主任。前記のデジタル版は正誤表を欠く。

2014年5月4日日曜日

推古天皇三年の事

三年夏四月、沈水、漂着於淡路嶋、其大一圍。嶋人、不知沈水、以交薪燒於竈。其烟氣遠薫、則異以獻之。五月戊午朔丁卯、高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之。是歲、百濟僧慧聰來之。此兩僧、弘演佛教並爲三寶之棟梁。秋七月、將軍等至自筑紫。
日本書紀の記述では馬医も橘猪弼もない。

2014年5月2日金曜日

斃牛馬処理に関する戦前の記録・青空文庫より


 今もなお諸所に小字こあざを牛捨場または馬捨場と称する所がある。また小字という程でなくても、俗にそう呼んでいる場所が各地に多く、現に昔は死牛馬をここへ捨てたものだなど伝称せられているところも少くない。これは一体どうしたものか。
 我が国は農業国である。したがって耕作を助けしめるべく牛馬を飼育する事が多い。また運搬用、騎乗用、あるいは挽車用としての牛馬の飼養も古来かなり多かった事であるに相違ない。これらの老いて役に堪えなくなったもの、また斃死したものの始末をどうしたであろうか。
 言うまでもなく我が国においても太古は牛馬の肉を食用としたものであった。神武天皇御東征の時に、大和の土人弟猾おとうかしは生酒を以て皇軍をもてなしたと「日本書紀」にある。牛肉を肴として酒を飲んだものであろう。また「古語拾遺」には大地主神が、牛肉を以て田人に喰わしめたが為に、大年神の怒りにあったともある。怒りにあったとしても古代国民が牛肉を喰らったことのあったには疑いない。その後天武天皇の御代に至って、詔して牛馬犬猿鶏の肉を喰うを禁ぜしめられた。これは必ずしも肉食の禁というではなく、人間に飼育せられて人間の用を弁ずるもの、または特に人類に最も近似したるものを屠殺して食用に供することは人情として忍び難いという点にその動機があったに相違ない。さればその以前にこれらの物が食用に供せられたことは疑いを容れないのである。これより後にも豚の飼育は行われた。無論食用の目的であるには相違ないが、これは食用以外に人間の用を為さぬものであるから、右の制令にも漏れたものであった。右の禁令あって後にも、なお牛を殺して漢神を祭るの習慣は各地にあって、平安朝になってもさらにその禁を重ねられた事であった。その牛は無論犠牲として神に供し、後にこれを食したものであるに相違ない。しかし仏法の普及とともに牛馬を殺すことは罪業のことに深いものとして教えられた。「霊異記」には牛を殺して漢神を祭ったが為に恐ろしい現報を受けた話もある。こんな宣伝がだんだんと国民間に普及せられるに及んで、普通民はもはや牛馬を喰わなくなった。「古語拾遺」の田人牛肉を喰った祟りの話も、けだし普通民が牛馬も喰わなくなった後の産物かもしれぬ。
 殺生肉食嫌忌の宣伝から起った食肉禁忌の思想がだんだんとこうじて来て、従来もっぱら食肉用の獣と見なされて、その名称を俗にシシ(「宍」にて肉の義)とまで呼ばるるに至った程の鹿しかの肉を喰った者でも、数十日ないし百日間神社参詣を遠慮せねばならぬというが如き、いわゆる諸社禁忌のやかましく叫ばれるようになっては一般民は牛馬の肉を喰うものを甚だしく賤しむに至った。この際においてただ屠者すなわち餌取えとりの輩のみは、その殺生を常習とする事から、相変らず旧来の習慣を墨守して、これを喰うことを避けなかったが為に、自然と一般民から疎外せらるるに至ったのは実際やむをえなかった。はては自身屠者ならずとも、一般に牛馬を食するものはこれを賤称して餌取と呼ぶことにまでなって来た。「今昔物語」に見ゆる北山及び鎮西の二つの餌取法師の話の如きも、畢竟牛馬の肉を食する俗法師を呼んだものである。そのエトリが訛ってエタとなった。かくてその思想がだんだんとこうじて来て、鎌倉時代には一般の肉食殺生の常習者をも時にエタとも非人とも呼ぶことになった。漁家の出たる日蓮聖人が自ら「旃陀羅」すなわち屠者の子なりとも、また「畜生の身」なりとも言われたのはこれが為である。
 かくの如き時代において、もはや人間の用をなさぬ老牛馬の処分の事は、一般民にとってかなり厄介なものであったに相違ない。ここにおいてか牛捨場馬捨場なるものが生じたのだ。家に飼養する牛馬が斃死した場合において、自らこれを処理するの法を知らず、またこれを処理すれば「穢れ」がその身に及んで神に近づく事が出来ぬというような迷信のあった時代において、これをある特定の場所に委棄するという事はやむをえなかったに相違ない、ただに斃牛馬のみならず、もはや使役に堪えなくなった老牛馬を飼養して、いたずらにその斃死を待つという事も、自己の生活にすらしばしば脅かされた一般民にとってはかなり迷惑な事であったに相違ない。ここにおいてかいわゆる牛捨場馬捨場には、しばしば老牛馬をも委棄したものであったと思われる。自ら家に飼養した老鶏を屠殺するに忍びず、さりとてこれをそのまま飼養してその老いて斃るるに至るを待つの煩多きを避けんとして、これを神社の境内に放飼し、参詣者の賽米によって生活しつつおもむろに死を待たしめるという習慣は、昔は各地にこれを見たものだ。恢復の見込みのない病奴婢を路傍へ捨つるというような無慈悲の所行までが、しばしば行われたような昔の時代において、老牛馬を捨てるくらいの事はその当時の人々にとってそう不思議でなかったに相違ない。
 しかしながらまた一方においては、牛馬の皮革の需要はかなり多かった。その肉もまた無論口腹の慾を充たすに足るものである。捨てられた老牛馬や斃牛馬の皮革を利用することなく、またその肉を食用に供することなしに、いたずらに腐敗に委することは実際社会的にも不利益な次第である。ここにおいてか社会の落伍者たるいわゆる屠者の輩は、いわゆる牛馬捨場を尋ねてこれが利用の途を講ずることを忘れなかった。彼らは捨てられた老牛馬を屠殺してその皮を剥ぎ、肉を喰らい、また捨てられた斃牛馬についても同様の事を行った。そしてさらにその取り残された牛馬の肉をあさって、それを喰って生きたという憐むべき落伍者も少くはなかった。前記「今昔物語」に見ゆる二つの餌取法師と呼ばれた非人法師の如きは、正にその憐むべき落伍者の徒であったのである。
 非人法師とは平安朝における地方官の虐政に堪えかねた公民等が、自ら身を沙門に扮して出家逃亡するに至った浮浪民の群である。延喜の時代において三善清行は、公民が課役を避けて逃亡し、為に課丁の甚だしく減少した事を極言している。彼は当時の天下の民三分の二までは禿首の徒であると云っている。彼らは家に妻子を蓄え、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらい、私に髪を剃りみだりに法服をつけて、形は沙門の如きも心は屠児すなわちエトリに似たものであると云っている。これいわゆる濫僧ろうそうなるもので、その屠児に似たという事から、「延喜式」ではこれを濫僧屠者と並称しているのであるが、鎌倉時代にはその濫僧をも通例ただちに屠者すなわちエタと呼んだとの事が、弘安頃の著と認められる「塵袋」に見えている。しかしこの称呼は実は鎌倉時代になって始まったのではなく、実は平安朝時代からの事であった。「今昔物語」の餌取法師は正にこれである。
 非人法師等は多く村落都邑の場末に流れついて小屋住まいをなし、為に河原の者、坂の者、散所の者などと呼ばれた。そしてその集落にはいわゆる長吏法師なるものがあって、これを統率していたものであった。これすなわち既に「霊異記」に見ゆる浮浪人の長に当るもので、その勢力の往々盛んなるものの少からなんだ事は、寛元年間における清水坂及び奈良坂の坂の者たる非人法師等の闘争に関して、長吏法師の提出した訴状を見てもその一斑が窺われる(「民族と歴史」四巻三号四号を見よ)。そしていわゆる牛馬捨場に捨てられた牛や馬を拾得して、これを処理するの利益多き特権は、おのずからこの長吏法師等の壟断するところとなった。後世にいわゆるエタをチョウリ(長吏)もしくはチョウリンボウ(長吏坊すなわち長吏法師)と呼ぶ地方の少からぬのはこれが為であるに相違ない(もちろん長吏のすべてがそれを扱ったのではなかったけれども)。
 牛馬捨場の特権は実際彼らにとって利益多きものであった。したがってその権利はしばしば彼らの間に高価に売買せられた。その牛馬捨場に死癈の牛馬を捨つる範囲内において飼養せらるるところの牛馬は、いつかはその権利者の手によって処理せらるべきものであった。すなわちその権利者は、その範囲内の村落に生じた癈牛馬死牛馬の上に処理の権利を有するものであったのだ。したがって彼らはその牛馬が所定の捨場に委棄せらるるを待ってこれを拾得するばかりでなく、しばしば通告を受けてただちにその癈牛馬を生じたる家からこれを引き取り、自己の権利を有する捨場に牽引運搬してこれを処理する場合が多かったらしい。地方によっては江戸時代に至ってもなおその飼主より、祝儀の名目によって相当の手数料を徴し、これを引き取るの習慣を有する所もあった。もちろん地方によっては一定の権利者を認めず、相当の代価を提供して競争してこれを引き取る習慣の所もないではなかった。
 江戸時代には老牛馬を屠殺委棄するの無慈悲なる行為を禁じたが為に(奈良奉行の触書にこの禁制見ゆ。他の地方でもそうであったらしい)老牛馬は通例飼養者の飼い殺しとなっていたが、斃死の後は必ず捨場に委棄するか、しからずばエタに通告してその処理に委せねばならなかった。武蔵八王子在の百姓がかつて自らこれを処理したが為に、エタ頭弾左衛門より抗議を提出して、為に面倒な悶着を惹き起した事件もあった。
 牛馬捨場の売買はもちろん一切の権利を永久的に授受するものもあったであろうが、多くは一定の日限を付して行われたようである。この場合においてはその期限内に生じた死牛馬は、当然その買得者の所得に帰すべきものである。したがってその村落内の病牛馬がその期限内に死没せざるにおいては、権利者にこれを引取るの権利を失うが故に、夜間密かに毒を与えて、その死を早からしめたという弊害も少からなんだようである。中には健康なる牛馬を毒殺して、為に処罰されるというものもないではなかった。
 捨場の権利の売買は時としてかなり高価に取引きされた。遠州S村T氏所蔵の文書にこんなのがある。

一、此度さる御年貢差詰り、代々持来り候牛馬引捨の場所比木村勿論朝比奈村上十五日、此両場所金子十五両二分永代売渡申候。此場所に付場役等無御座候。依之村方親類は不申、脇より違乱妨申旨御座候はゞ、請人の者罷出、急度埒明可申、貴殿に少も御苦労掛申間敷候。為後日一札仍て如
 天保七申十二月   日
成行村売主
  儀十郎印
請人
  弥右衛門印

  政五郎印
大久保村買主
  儀左衛門殿
右の「上十五日」とは、月の上半に右両村内に生じた死牛馬の権利を云ったものなのである。
 抵当権設定の例としては、同氏所蔵文書に左の如きものがある。
   場所手形の事
一、此度未の御年貢差詰、私し代々持来候捨場所比木村勿論朝比奈村上十五日、此両場所為質物、申年より已暮迄、十年切相定申候。拾両也。
一、又金壱両三分借用申処実正に御座候。此場所に付場役等無御座候。依て村方諸親類得心の故に御座候処、若違乱妨申者御座候はゞ、連印者罷出急度埒明可申候。貴殿少も御苦労かけ申間敷、依之右之金子致調達相渡候はゞ、其場所御(○返の誤りか)し可下候。為後日之依て手形如件。
 文化九年申三月  日
 成行村
借主 新九郎印
請人 弥右衛門印
証人 政五郎印
 浜野村
同 文七印
大久保村
  三左衛門殿
   永代証文之事
一、当御年貢差支、右年切質物両場所為永代、増金壱両借用申処実正に御座候。依之村方諸親類は不申、他所よりも違乱申者有之候得ば、請人之者罷出急度埒明可申、貴殿に少も御苦労掛申間敷候。為後日一札仍て如件。外に一貫二百文。
 文政七申十一月二日
成行村
  借主 新九郎印
  請人 弥右衛門印
  同  政五郎印
相良
  三左衛門殿
右のT氏はこの種の文書を蔵すること、文化九年三月から明治四年四月までの分、通じて五十余通に及んでいる。かくしてその家はほとんど近郷の捨場の権利を独占し、代々富有なる生活をしていたのであったが、最後の文書である明治四年の四月に二両三分三朱と銭五貫二百文で或る捨場の権利を売得した後僅かに四ヶ月、同年八月にエタ非人解放令が発布せられたが為に、新たに平民に列せられた代りにこれらの一切の権利はことごとく失われて、一時はかなり困った事であったという。今では麻裏草履の製造仲買で数万の富を有しておられるそうな。
 右五十余通の文書の中には、朔日より七日までとか、八日より十五日までとか、中には五日より八日まで、二十日より二十二日までなどと、短かく限ったものも少くなく、二十四日とただ一日だけを限ったものまでも見えている、以てその権利がいかに仲間の中に尊重されたかを知るに足ろう。
 右の文書の中に「場役」というのは、その捨場の権利を所有するが為に、いくらかの役銀すなわち運上金を上納する負担あるものの事で、場所によって古来その場役のあるものと無いものとがあり、場役なきものは自然高価に売買されたものだという。
 また右捨場の中に化粧場というのがある。慶応三年正月の文書に、牛馬引捨須々木化粧場八日より十一日まで、外に東方場二十四日、西方十一日より十三日、南場六日より十日までを、三両三分で買ったのがある。このほかにも化粧場という事はしばしば文書に見えているが、これは同じ捨場の中でも懸りが少く、利益が多かったものだという。それを化粧という意味はわからぬ。
 なお同家文書の中に、「捨牛馬告知手数料申合せ」というのがある。
   覚
一、男牛一つ             はね金一分也
一、女牛一つ             同  一朱也
一、馬一つ              同  一朱也
一、化粧男牛一つ              二朱也
右の通り村中堅可相守者也
 文久二年戌八月十八日改
ここに「はね金」とは告知手数料の事で、捨場に委棄されたる死牛馬をいち早く権利者に告知したものに与える手数料の事だという。その化粧場に属するものは手数料半減であったのだ。
 なお同家文書の中には、太鼓、旦那場、稲場の売買譲与質入等に関するものがある。「太鼓」とは或る町村内の神社仏寺の太鼓張かえの権利、旦那場とは或る町村内住民の受持ちの権利(俗にモチという、そのモチの家に事件ある時は早速かけつけてこれを処理する責任を有し、その代りに平素相当の扶持を得る慣例のもの)で、稲場とは収穫後田面の落穂を拾う権利であるかと思われる。しかしこれらは問題の牛馬捨場以外のものであるから今は詳説せず、筆のついでに書きとめておくに止める。
 これを要するに牛捨場馬捨場とは、牛馬屠殺食肉の禁忌から生ずる当然の産物であった。そしてその権利が或る一部の長吏法師等の占有に帰したが為に、その流れのものはその身に穢れありとして、昔は広くその等類を称し「穢多」という忌まわしい名を、後世この徒のみに独占せしめられた。しかもその特権とする死牛馬の処理は利益のすこぶる多いものとして、いわゆる捨場の権利は明治四年エタ非人解放当時までも、地方によってはかなり高価に売買されたものであったが、解放とともにその権利は他の多くの特権とともにことごとく奪われた。そして国民としてのすべての義務は負担させられながら、事実上依然として新平民もしくは特殊部落民の名によって旧平民等から差別せられ、社会上における国民としての権利の多くはその行使の自由を奪われているのである。何という不合理な事であろう。今この牛捨場馬捨場の由来沿革を調査叙述するについても、感慨ことに深からざるをえぬ。




底本:「賤民とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「歴史地理 43-5号」
   1924(大正13)年5月

2014年4月27日日曜日

調使丸・厩戸皇子舎人

聖徳太子・厩戸皇子の舎人に調使丸(麿)がいる。愛馬黒駒の飼育と調教を行った人物。橘猪弼とは別人らしい。皇子の第一夫人は橘大郎女で尾張皇子の娘。

2014年4月25日金曜日

橘猪弼は太子流馬医術開祖?

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya09/ya09_01186/

時重初熊・山口県師範学校同窓会名簿


時重初熊ら二十二人は第三期明治十年五月二十四日の卒業である.駒場農学校の入学は明治十五年となっている.

2014年4月21日月曜日

軍馬の積み込み



軍馬はクレーンを使って輸送船に積み込んだようだ。

2014年4月15日火曜日

日本書紀の牛・馬を検索する

講談社の学術文庫「日本書紀」を読破する予定であったが、もしやと思いネットで検索して見ると・・・
日本書紀 巻第一 神代上
神實已死矣、唯有其神之頂化爲馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。天熊人、悉取持去而奉進之、于時、天照大神喜之曰「是物者、則顯見蒼生可食而活之也。」乃以粟稗麥豆爲陸田種子、以稻爲水田種子。又因定天邑君、卽以....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第三 神武天皇紀
地、曰菟田血原。已而弟猾大設酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第六 垂仁天皇紀
都怒我阿羅斯等、有國之時、黃負田器、將往田舍。黃忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求者、於此郡家中。然郡公等曰『由所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問....このページで合計7件ヒット
日本書紀 巻第七 景行天皇~成務天皇
鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及馬、自不中神氣也。日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山神、化大蛇當道。爰日本武尊、不知主神化蛇之謂「是大蛇必荒....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第十 応神天皇紀
國有孃子、名髮長媛、卽諸縣君諸井之女也、是國色之秀者。」天皇悅之、心裏欲覓。十三年春三月、天皇遣專使、以徵髮長媛。秋九月中、髮長媛、至自日向、便安置於桑津邑。爰皇子大鷦鷯尊、及見髮長媛、感其形之美麗、常有戀情。於是天皇、知大鷦鷯....このページで合計3件ヒット
日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
夏四月、阿閉臣國見、更名磯特。譖?¥ᄍᄀ皇女與湯人廬城部連武彥曰、武彥姧皇女而使任身。湯人、此云臾衞。武彥之父枳莒喩、聞此流言、恐禍及身。誘率武彥於廬城河、偽使鸕鷀沒水捕魚、因其不意而打殺之。天皇聞遣使者、案問皇女。皇女對言、妾不識....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第十五 清寧天皇~仁賢天皇
穗別天皇之孫。而困事於人飼牧馬、豈若顯名被害也歟。遂與億計王、相抱涕泣。不能自禁。億計王曰、然則非弟、誰能激揚大節、可以顯著。天皇固辭曰、僕不才。豈敢宣揚德業。億計王曰、弟英才賢德。爰無以過。如是相讓再三。而果使天皇、自許稱述、....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第十八 安閑天皇~宣化天皇
春日部屯倉・播磨國越部屯倉・鹿屯倉・備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・紀國經湍屯倉經湍、此云俯世・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音・近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯....このページで合計2件ヒット
日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
新羅、因此入居漢城。今新羅之頭方・尼彌方也。地名、未詳。十四年春正月甲子朔乙亥、百濟遣上部德率科野次酒・杆率禮塞敦等、乞軍兵。戊寅、百濟使人中部杆率木刕今敦・河內部阿斯比多等、罷歸。夏五月戊辰朔、河內國言「泉郡茅渟海中有梵音、震....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
史膽津。戊戌、詔船史王辰爾弟、賜姓爲津史。十一月、新羅遣使進調。四年春正月丙辰朔甲子、立息長眞手王女廣姬、爲皇后。是生一男二女、其一曰押坂彥人大兄皇子更名、麻呂古皇子、其二曰逆登皇女、其三曰菟道磯津貝皇女。是月、立一夫人、春日臣....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
其人曰「若惡臣之斑皮者、白斑馬不可畜於國中。亦臣有小才、能構山岳之形。其留臣而用則爲國有利、何空之棄海嶋耶。」於是、聽其辭以不棄、仍令構須彌山形及吳橋於南庭。時人號其人曰路子工、亦名芝耆摩呂。又百濟人味摩之、歸化、曰「學于吳、得....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十三 舒明天皇紀
仕。時、大臣慍之、遣身狹君勝・錦織首赤猪而誨曰「吾知汝言之非、以干支之義、不得害。唯他非汝是我必忤他從汝、若他是汝非我當乖汝從他。是以、汝遂有不從者、我與汝有瑕。則國亦亂、然乃後生言之吾二人破國也。是後葉之惡名焉、汝愼以勿起逆心....このページで合計2件ヒット
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
謂之曰、隨村々祝部所教、或殺馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
九日、損壤宅屋傷害田苗、人及馬溺死者衆。是月、造戸籍。凡五十戸爲里、毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保、一人爲長、以相檢察。新羅・百濟、遣使貢調獻物。秋九月、造宮已訖。其宮殿之狀、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於內....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀
紫率。新羅、遣使進調、別獻水一頭・山鶏一隻。秋七月丙申朔丙午、唐人李守眞等・百濟使人等、並罷歸。八月乙丑朔丁卯、高麗上部大相可婁等罷歸。壬午、饗賜蝦夷。九月、天皇寢疾不豫。或本云八月天皇疾病。冬十月甲子朔庚午、新羅遣沙飡金萬物等....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。六月癸酉朔乙未、大分君惠尺、病將死。天皇....このページで合計4件ヒット
日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
人一百七十四人、幷布五十常・皮六枚・鹿皮五十枚。戊辰、文武官人進薪。己巳、賜百官人等食。辛未、天皇幸吉野宮。甲戌、天皇至自吉野宮。二月甲申朔丙申、詔、筑紫防人、滿年限者替。己酉、以淨廣肆竹田王・直廣肆土師宿禰根麻呂・大宅朝臣麻呂....このページで合計1件ヒット

日本書紀 巻第一 神代上
是、始起大八洲國之號焉、卽對嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。一書曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之。」廼賜天瓊戈。於是二神、立於天上浮橋、投戈求地。因畫滄海而引舉之、卽戈....このページで合計5件ヒット
日本書紀 巻第二 神代下
吾將計之。」計曰「海神所乘駿者、八尋鰐也。是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策。」乃將火折尊、共往而見之。是時、鰐魚策之曰「吾者八日以後、方致天孫於海宮。唯我王駿、一尋鰐魚、是當一日之內、必奉致焉。故今我歸而使彼出來....このページで合計2件ヒット
日本書紀 巻第四 綏靖天皇~開化天皇
葬大日本根子彥太瓊天皇于片丘坂陵。七年春二月丙寅朔丁卯、立欝色謎命爲皇后。后生二男一女、第一曰大彥命、第二曰稚日本根子彥大日々天皇、第三曰倭迹々姬命。一云、天皇母弟少彥男心命也。妃伊香色謎命、生彥太忍信命。次妃河內靑玉繋女埴安媛....このページで合計1件ヒット
日本書紀 巻第六 垂仁天皇紀
熊神籬一具、幷七物、則藏于但國、常爲神物也。一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以....このページで合計11件ヒット
日本書紀 巻第七 景行天皇~成務天皇
杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、....このページで合計2件ヒット
日本書紀 巻第九 神功皇后紀
伏爲飼部。其不乾船柂而春秋獻梳及鞭、復不煩海遠以毎年貢男女之調。」則重誓之曰「非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流及河石昇爲星辰而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇共討焉。」時或曰「欲誅新羅王。」於是、皇后曰「初承....このページで合計3件ヒット
日本書紀 巻第十 応神天皇紀
朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖....このページで合計2件ヒット
日本書紀 巻第十二 履中天皇~反正天皇
醉以不起。故三人扶太子、令乘而逃之。一云、大前宿禰、抱太子而乘。仲皇子不知太子不在、而焚太子宮。通夜火不滅。太子到河內國埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。則急馳之、自大坂向倭。至于飛鳥山、遇少女於山口。問之曰、此山....このページで合計3件ヒット
日本書紀 巻第十三 允恭天皇~安康天皇
白彥皇子・大泊瀬稚武天皇・但橘大娘皇女・酒見皇女。初皇后隨母在家、獨遊苑中。時鬪鶏國造、從傍徑行之。乘而莅籬、謂皇后、嘲之曰、能作園乎、汝者也。汝、此云那鼻苔也。且曰、壓乞、戸母、其蘭一莖焉。壓乞、此云異提。戸母、此云....このページで合計8件ヒット
日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
獵。於是、大泊瀬天皇、彎弓驟、而陽呼、曰猪有、卽射殺市邊押磐皇子。皇子帳內佐伯部賣輪、更名仲子。抱屍駭惋、不解所由。反側呼號、往還頭脚。天皇尚誅之。是月、御皇子、以曾善三輪君身狹故、思欲遣慮而往。不意、道逢邀軍、於三輪....このページで合計24件ヒット
日本書紀 巻第十五 清寧天皇~仁賢天皇
俗。冬十月壬午朔乙酉、詔。犬器翫、不得獻上。十一月辛亥朔戊辰、宴臣連於大庭。賜綿帛。皆任其自取、盡力而出。是月、海表諸蕃、並遣使進調。四年春正月庚戌朔丙辰、宴海表諸蕃使者於朝堂。賜物各有差。夏閏五月、大餔五日。秋八月丁未朔癸丑、....このページで合計4件ヒット
日本書紀 巻第十六 武烈天皇紀
就平群大臣宅、奉太子命求索官。大臣戲言陽進曰「官、爲誰飼養。隨命而已。」久之不進。太子、懷恨、忍不發顏、果之所期、立歌場衆歌場、此云宇多我岐執影媛袖、躑躅從容。俄而鮪臣來、排太子與影媛間立。由是、太子放影媛袖、移?¥ミム前....このページで合計4件ヒット
日本書紀 巻第十七 継体天皇紀
意裏尚疑、久而不就。適知河內飼首荒籠、密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。留二日三夜、遂發、乃喟然而歎曰「懿哉、飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。世云、勿論貴賤、但重其心。蓋荒籠之謂乎。」及至踐祚、厚加荒籠寵待。甲....このページで合計7件ヒット
日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
價來還山逢二狼相鬪汙血、乃下、洗漱口手、祈請曰『汝、是貴神而樂麁行。儻逢獵士、見禽尤速。』乃抑止相鬪、拭洗血毛、遂遣放之、倶令全命。」天皇曰、必此報也。乃令近侍優寵日新、大致饒富。及至踐祚、拜大藏省。四年冬十月、武小廣國押盾天皇....このページで合計24件ヒット
日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
削守屋大連爲大連如故、以蘇我子宿禰爲大臣。五月壬寅朔、天皇問皇子與大臣曰、高麗使人、今何在。大臣奉對曰、在於相樂館。天皇聞之、傷惻極甚、愀然而歎曰「悲哉、此使人等、名既奏聞於先考天皇矣。」乃遣群臣於相樂館、檢錄所獻調物令送京師。....このページで合計25件ヒット
日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申、詔曰、云々。以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女、自此天皇時逮乎炊屋姬天皇之世、奉日神祀。自退葛城而薨。見炊屋姬天皇紀。或本云、卅七年間奉日神祀....このページで合計23件ヒット
日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
部天皇五年十一月、天皇爲大臣子宿禰見殺。嗣位既空、群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以將令踐祚。皇后辭讓之。百寮上表勸進至于三、乃從之、因以奉天皇璽印。冬十二月壬申朔己卯、皇后卽天皇位於豐浦宮。元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍....このページで合計8件ヒット
日本書紀 巻第二十三 舒明天皇紀
唐遣高表仁送三田耜、共泊于對。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝....このページで合計3件ヒット
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百濟....このページで合計8件ヒット
日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
、升壇卽祚。于時、大伴長德字飼。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大....このページで合計30件ヒット
日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀
矢二具・鎧二領。授津輕郡大領武大乙上、少領靑蒜小乙下、勇健者二人位一階、別賜武等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授都岐沙羅柵造闕名位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那、檢覈蝦夷戸口....このページで合計5件ヒット
日本書紀 巻第二十七 天智天皇紀
羅不獲輸其西壘。夏四月鼠産於尾、釋道顯占曰、北國之人將附南國、蓋高麗破而屬日本乎。五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽....このページで合計11件ヒット
日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
駕而行之、儵遇縣犬養連大伴鞍。因以、御駕、乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至、便乘焉。是時元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山....このページで合計18件ヒット
日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
又夫人藤原大臣女氷上娘、生但皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘、生一男二女、其一曰穗積皇子・其二曰紀皇女・其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女。次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子....このページで合計31件ヒット
日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
、幷別所獻佛像・種々彩絹・鳥之類十餘種、及霜林所獻金銀彩色・種々珍異之物、幷八十餘物。己亥、饗霜林等於筑紫館、賜物各有差。乙巳、詔曰、自今以後毎取國忌日要須齋也。戊午、霜林等罷歸。三月己未朔己卯、以花縵進于殯宮、藤原朝臣大嶋誄焉....このページで合計6件ヒット




学而不思則罔