2009年3月29日日曜日

浄場めぐり

浄場めぐり
 むかし、数ある部落のなかで四、五軒ばかりの部落では、仲間の人手が少ないうえに、年がら年じゅう近在の野良仕事やら山仕事にやとわれて、そればっかしの日暮らしでな。
 いつのまにやらしきたりの浄場はもとより、村場のつとめを受けかねて村々からの知らせがあれば、人手の多い部落につたえ、場銭をもらって肩がわりしたと。
 代官所でも山里なぞの数のすくない斃馬なんぞの扱いは、村から小言のでぬかぎり、見てみぬふりのありさまでな。
 これさいわいとあんきして、たとえその日の喰いぶちでも、決まった仕事の鋤、鍬とれば、目はしきかせてだれまわる浄場めぐりがうとましくなり、その余のことは放ってまって、雇われ百姓に執心したと。 肩がわりした部落では斃馬の出どこをたしかめて、仲間の浄場に相違はないか、大川なぞを渡らずに大八車ではこべるか、車のかよわぬ山奥ならば、皮だけもらって戻れるか。
 その地の村役の口ききで、始末のできる場があるか、なんぞを問いただしてな。間違いないかを見さだめたと。一頭分の斃馬なら二百三、四十貫はゆうにあったで、山坂ばかりの道のりならば、あんまり斃馬が大きいと、前でかじ棒がはねあがるのでな。荷台のしりに三本もの地づりを立ち高につけて、車の輪にははどめのころをつり、坂道くだる用心したと。
 たとえ日がえりの道のりであれ、浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだがな。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかったと。
 雨が降ろうと日照りであろうと、笠のかわりのほおかむり。手拭ででこにひさしをつくり、車をかこんだ七、八人が顔もあげんと押していったと。
 集めた皮はいのししや熊の毛皮とひとつにしてな。
 ちぢまぬように竹張りをかけ、大きな凧をならべたように、部落の小道に立てかけたり、塩づけにして貯めといて、なめしの部落へ運んで売ったと。
 雪の降る日に酒田の畦道で、行き逢うたのが馬連れの百姓でな。 部落の仲間が目八分で、沼田に片っぼの脛まで入れて、馬を避けたが避けだらなんだと。
 馬の胴っ腹で顔こすられたで、もう片っぽも踏みこんで、そのまま馬を通したが、両脚が抜けんで困っとったと。
 そしたら百姓が振り向いて
 「そこに、そのまま突っ立っとれ。案山子のかわりに使ってやるわ」
 と言いだくれたでな。
 仲間がすかさず言い返したと。
「お前が曳いとるのは浄場の馬じゃ、やがて死ぬまで預けとく」
 夕立ち雨が降っとるおりに、源弥さが家でのさこいとって、向こうの河原を眺めとったらば、百姓たちが馬曳いて通ったと。
 通ったわい思ったらば、またぞろ馬が曳かれていったと。
 この夕立にどこぞで馬市でも立っとるかやなと。そこで源弥さがお嬶言ったと。
 「お嬶、見よ。あの馬は一頭余まさず村場の馬じゃ。さすればわしらが預けた馬じゃ。わしらの身上を百姓が曳くわ」

解説と考察
 この一話で,穢多の斃牛馬取得のありさまを手に取るように見る事が出きる.少人数の部落では雇われ仕事で生計を営むようになり,本業の斃牛馬の取得は,その権利を他の大人数の部落に金銭で譲り渡している.
穢多が個人的に斃牛馬の取得が可能な場所がしきたりの浄場で,百姓の牛馬が死亡した場合は,定まった場所に捨てるように定められている.この場所を百姓の側では「ダブ」とか「牛・馬捨て場」と呼んでいる.また,西日本ではこの区域を「旦那場」とか「芝」とも呼んでいる.
しきたりの浄場は村はずれにあり,この場所から部落への斃牛馬の運搬は人力でも何とか可能である.しかし,他人の浄場は遠方にあるために,斃牛馬の運搬には様々な困難がつきまとう.近世の馬は小さいと言っても二百貫目以上の目方があり,男手八人は最低限必要となる.従って荷車も代八人の大型車・大八車である.大八車は小型の車力と混同される場合があるが,近世の家具・建具は荷台の広さが三尺・六尺あれば殆どの荷物は運搬が可能なように作られている.災害の多いわが国では,箪笥・長持はどんなに大きくとも竿で運べるように仕立てるのが指し物の常識であった.アルミサッシが使用される以前の戸・障子・襖は並みの家なら自転車のサイドカーで運べる程の量.大きな屋敷でも荷車・リヤカー一車程しかない.
一貫目は3.75kg.二百貫目は750kg.1tの荷重に耐える木製の荷車と言えば大八車である.この大八車も道の状況では通行出来ない場所が数多くある.川,山道など物理的に通行出来ない時と,積荷の種類・季節によって通行出来ない時がある.この様な場合は最寄の始末の出来る所に斃牛馬を運び,生皮を採って残りは穴に埋めた. 
『浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだ。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかった・・・』生皮を採取した斃牛馬は油を付けて焼却するとされているが,実際は食用に供した場合が少なくない.
鎌は縄・筵を切る道具で,剥皮・解剖に用いる刃物は出刃としている.先の尖った身の厚い出刃包丁を連想するが,出刃包丁で捌くのは魚・鳥程度で,大型の獣の皮を剥ぐのには適していない.現在でも剥皮は剥皮刀と呼ぶ薄身の両刃の刃物を使用している.使い勝手を考えれば剥皮に使用する刃物は出刃包丁よりも,馬繕いの爪きり包丁に似た刃物であろう.剥皮に続く解体では鋭い出刃包丁が便利である.
解体には・・・勝手な名称であるが,「猟師流」・「肉屋流」・「学者流」等の流儀がある.「猟師流」や「肉屋流」は腑分けの経験の蓄積から生まれたもので,「学者流」は明治以降の西洋獣医解剖学・病理解剖から派生したものである.いずれにせよ近世の馬医者は腑分けを行っていないから,解剖学的な知識がない.馬の胆の腑の患いと見立てて,「馬と鹿は胆の腑が足らぬ故に,足らぬ者を馬鹿と云う」と,知識を持つ者から馬鹿にされる.

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学而不思則罔