2009年11月8日日曜日

馬の記録と出土馬具

仮序章

『三国志・魏志』東夷伝・倭人に曰く「その風俗は淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑緜を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」
『後漢書』東夷伝・倭にも「牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と.『政治要略』には「応神天皇の御世,百済進牛馬自此而後倭国有牛馬」と記す.尾張熱田の貝塚,鹿児島出水貝塚出土の馬歯骨は後世のもの也.縄文の馬は理化学的年代測定より中世のものと同定.
『記』上天斑駒.『神代紀』上天斑駒.『万葉』推古二十年 馬ならば日向の古摩.『神代紀』上 保食神・・・頂代為牛・馬云々.保食はうけもち,毛もののけと飯のけは同義.うかみたまのみことは食稲魂命.
『和漢三才図会』に牛馬の伝来は五三五年とある.仏教公伝前後の事になる.しかし,実際には五世紀の中期古墳(大阪府羽曳野市誉田丸山古墳)から馬具が出土しているから,馬の伝来はこの頃であろうと推察される.『好太王碑文』に三九一年倭軍百済と新羅を破るとあり,四〇〇年高句麗と交戦,新羅より敗退するから,この頃に朝鮮半島から持ち込まれたとするのが,最も合理的である.
この頃に持ち込まれた馬は和名が無いからそのままの韻と漢字を充てた.マとは支那語の馬である.『万葉集』では馬をマと詠んでいる.駒は小馬で愛らしき馬,ウマはムマ・m馬で大動物.この当時,倭の国に居た獣はゐのしし(猪)とかのしし(鹿)で,ししとは肉,食用の意である.
縄文期の馬の存在を否定したのは考古学者の松井章氏で理化学的年代測定により明らかにされた.実際に縄文期の動物形土製品で牛・馬の姿をしたものはこれまで出土した記録がない.古墳から出土する馬具についてはその様式から考古学的に編年されているが,製作年代は土器編年と約五十年のずれがある.出土馬骨については多くの発掘調査記録に報告されているが,これらの報告の殆どは土器編年方式で書かれているので注意が必要である.出土馬骨による馬体の推測は学問的方法に拠らずとも,伯楽の知識で十分に理解できるものである.
古墳時代の出土馬具には鉄製品がある.この外の鉄製品は剣や甲冑などの武具である.考古学の分野では鉄製品は錆びるので長く残らないと言われているが,真偽の程は明らかでない.実際の所は,鉄は大切で有益な金属であった為,何度も繰り返し再利用されて(現在も野鍛冶では行っている)消耗し尽くされたと考えられる.かつての獣医学には鍛鉄実習があって鍛冶の技術も学んだが,馬の衰退とともにこれらも消えてしまった.鍛鉄実習で学ぶ事は蹄鉄の事だけでなく,削蹄用の刃物や外科療治に用いる烙鉄も製造し,火の扱いを学ぶから,獣医学が受け持つ分野は極めて広い.

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学而不思則罔