牛に膽あり.鹿馬これを欠く.足らぬ故にこれを馬鹿と呼ぶ.牛膽に玉のやうなるものあり.名付けて牛黄.神農本草経に驚癇寒熱,熱盛狂痙を治し,邪を除き鬼を逐うと.また,左経記に河原者の獲りたる牛の珠の事あり.牛黄を獲るは秘伝にして他言無用の秘事なり.以て秘すべし.秘すべし.ヲンロケンジンバラキリクソワカ.
2010年12月29日水曜日
2010年12月25日土曜日
2010年12月17日金曜日
天然記念物にされた見島牛の実態について
参考文献
(1) 岸 浩 天然記念物見島牛の起原に関する研究、獣医畜産新報、
六五二号、一二一六~一二二八頁 六五三号、一二五九~一二六
九頁(昭50)
(2) 金谷復五郎‥生物測定学上ヨリ見タル見島牛ノ体型二就イテ
日本畜産学会報、四巻四号、二〇〇~二一四頁(昭6)
(3) 木原靖博ら‥和牛の血液型に関する研究(第8報)見島牛の血
液型について、中国農業試験場報告B13、五七~六四頁(昭40)
(4) 三好 学‥理学博士渡瀬庄三郎君を想ふ、史蹟名勝天然記念物、
四号、三七四~三八五頁(昭4)
(5) 斎藤 忠・小野忠準・見島総合学術調査報告、考古の部、
三八七~四四五頁、山口県教育委員会(昭39)
(6)本橋平一郎 純粋和牛見島種ニ関スル研究、Ⅰ、見島ノ産牛、
鳥取農学会報、二巻一号、八三~二一二頁(昭5)
(7) 三坂圭治 見島総合学術調査報告、歴史の部、三四五~三八五頁、
山口県教育委員会(昭39)
(8) 明治廿七年県政事務功程・殖牛の条(山口県文書館所蔵)
(9) 増補島根県産牛馬沿革誌〔非売品〕 (大1)
(1) 岸 浩 天然記念物見島牛の起原に関する研究、獣医畜産新報、
六五二号、一二一六~一二二八頁 六五三号、一二五九~一二六
九頁(昭50)
(2) 金谷復五郎‥生物測定学上ヨリ見タル見島牛ノ体型二就イテ
日本畜産学会報、四巻四号、二〇〇~二一四頁(昭6)
(3) 木原靖博ら‥和牛の血液型に関する研究(第8報)見島牛の血
液型について、中国農業試験場報告B13、五七~六四頁(昭40)
(4) 三好 学‥理学博士渡瀬庄三郎君を想ふ、史蹟名勝天然記念物、
四号、三七四~三八五頁(昭4)
(5) 斎藤 忠・小野忠準・見島総合学術調査報告、考古の部、
三八七~四四五頁、山口県教育委員会(昭39)
(6)本橋平一郎 純粋和牛見島種ニ関スル研究、Ⅰ、見島ノ産牛、
鳥取農学会報、二巻一号、八三~二一二頁(昭5)
(7) 三坂圭治 見島総合学術調査報告、歴史の部、三四五~三八五頁、
山口県教育委員会(昭39)
(8) 明治廿七年県政事務功程・殖牛の条(山口県文書館所蔵)
(9) 増補島根県産牛馬沿革誌〔非売品〕 (大1)
師匠はこの論文を「山口県地方史研究」に投稿しておられた.見島牛は純粋和牛,朝鮮牛,天然記念物でもない『日本未改良在来牛』.岩根又重を調査中にこの論文を得た.
2010年12月11日土曜日
2010年12月8日水曜日
2010年12月7日火曜日
2010年11月20日土曜日
2010年11月17日水曜日
星製薬の家畜胃腸薬
2010年11月16日火曜日
2010年11月9日火曜日
2010年10月8日金曜日
2010年7月8日木曜日
2010年7月5日月曜日
「畔頭」はくろがしらと読む
以下の参考文献を基に著された伝説が社会評論社から出版されている.長州藩天保二年の大一揆をプロローグとし,この後の長州藩の身分制度の事やフィクションであろう小郡の屠場での男女の恋愛を絡ませた不思議な著作である.多くの地名のふりがな誤記はまだ許せるが,こともあろうに『畔頭』に「あぜがしら」と仮名をふるとは!.畔頭は「あぜあたま」と読んでもあやまりで,長州藩の歴史用語では「くろがしら」と呼ぶならわしになっている.
参考文献からも判るとおり,この著作は単なる伝説の一つに過ぎず,屠場の様子や屠牛の方法は,研究の史料としては扱えない.
『明治維新と賎民廃止令』 (上杉聴 解放出版社)
『松陰と女囚と明治維新』 (田中彰 NHKぶっくす)
『歴史誕生13』 (角川書店)
『幕末椎新期長州藩の政治構造』 (三宅紹宣 歴史科学叢書 校倉書房)
『日本近代史の逆説--幕末の精神-- (片岡啓治 日本評論社)
『奇兵隊日記 四』 (日本史籍協会叢書 東京大学出版会)
山口図書館並びに山口文書館所収の研究論文
「防長風土注進案と同和問題」 (山口文書館)
「維新団に見る長州藩民衆の郷土防衛意識」 (池田利彦)
「幕末長州藩の奇兵隊と部落民軍隊・兵農分離の原則と農町横非登用の形式」 (北川健)
「維新団の原像とその再生像・苗字なき兵団からのメッセージ」 (北川健)
「部落民軍団維新団の基本像」 (北川健)
「奇兵隊における積多軍こと部落民登用の意義」 (手島一雄)
『日本中世の非農業民と天皇』 (網野幸彦 岩波書店)
『異形の王権』 (網野善彦 平凡社)
『日本の聖と餞』 (野間宏、沖浦和光 人文書院)
『骨を噛む』 (上野英信 大和書房)
『高杉晋作と奇兵隊』 (田中彰 岩波書店)
『宗教の死活問題』 (曾我量深 弥生書房)
『松下村塾の人びと』 (ミネルヴァ書房)
『幕末思想集』 (鹿野政直編集 筑摩書房)
2010年6月27日日曜日
2010年5月14日金曜日
家畜伝染病・牛疫の防疫
写真の説明にある通り,明治二十四年の大阪での牛疫流行の際には時重初熊博士自ら出張して病性鑑定し,現場の指揮を執っている.この頃の駒場農学校の卒業生は我が国の畜産業の基礎を築くとともに,家畜衛生,乳肉食品衛生にと幅広く活躍している.当時,個別の診療が問題になる動物は軍馬のみで,軍馬の診療は陸軍馬医が担当したから,馬以外の家畜の事は全て獣医が受け持つ事となった.時重初熊博士は我が国最初の獣医学博士で,家畜病理学の祖,『家畜医範』の生理学を著している.明治期に牛疫で失った経済損失は略国家予算の一年分に相当する膨大なものであった.また,当時の家畜伝染病の防疫の原則は『疑わしきは処分』で,診断中に病毒が蔓延する事を非常に恐れている.
2010年5月13日木曜日
2010年3月10日水曜日
近世の馬医の修行
現在手許に何冊かの馬医書がある.表紙の裏に長陽幕下村井句聴子と記名があるから,武家の馬医の教科書である.これらの馬医書を捲って見ると,どうやら,馬医の修行は馬書の筆写から行われたようである.最初が相馬,馬の外貌と飼育方法に関するするもので,簡単な生理学内容を含んでいる.しかし,近世の馬医は腑分けを行わず書物からの知識を学ぶから,内容は東洋医学的な陰陽五行論となる.当時,鍼灸経絡の説は既に伝来しているから,臓腑の名称の記載もなされているが,現在の解剖学的臓器名と異なるものである.ここ迄が初伝で,かつての四年制大学獣医師養成課程教育の,2年次に相当する部分と同じと考えられる.次年からは病理と診断術を学ぶようである.○○の臓腑の病の時の証とは・・・病名は東洋医学的症候名であるから,現在使われている病名と名前は同じでも概念は大きく異なっている.更にこれに加えて本草(薬学)を学んでいる.これまでが中伝で,四年制では三年次の課程に相当する.但し馬医には公衆衛生の知識は必要ないから,この関係の修行は全く無い.最後が療治術を学んで皆伝となるようである.馬医は武家の家職で,藩には流派の異なる馬医が複数居た.村井句聴子は他流派の馬医書も借りて書写しているから,修行の方法は流派によって少しは差がある程度でが概ね同じであったと想像される.療治の対象は藩主の騎馬であるが,その他上流武士の持ち馬も療治している.百姓の駄馬は療治の対象外で,民間の家畜は伯楽または村の医者が療治している.彼等は書物に依る学問はなく無学文盲の輩と伝えられているが,実は親方から馬医と同じ水準の座学を学び,更に腑分けを行って解剖・生理学を学ぶから,実際の学問的水準は,こちらの方が優っている.武家の馬医は馬の胆の腑の病を平気で診断するが,伯楽は牛馬の構造・生理を知った上で療治を行っている.なお,明治期の村医者の診療簿には牛や馬への投薬と藥代の集金がしばしば登場するから,人医も家畜の療治を行っていたようである.
2010年3月8日月曜日
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学而不思則罔