6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。
次いで六から七世紀に韓民族系の文化人・技術者が渡来し,(仏教の伝来は六世紀中頃.仏教の保護政策は六世紀末)大和政権の形と文化を作って行く事となる.家牛もこの頃に渡来して西日本で飼育されるようになる.
「聖徳太子伝歴」によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が乗ると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、3日を経て都へ帰還したとある。
奈良時代
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
律令国家における牛馬の管理は官の仕事で,その任務に従事する者の身分は官人と,官庁に所属する良民の品部と雑戸であった.当時の馬の用途は駅馬が殆どで軍馬は少なくなっている.
大宝令における官馬の事は左右馬寮の所轄で馬寮の職員は権頭,権助,大允,小允,大属,小属,馬医,史生,騎士,馬部,使部,直丁,飼造部,馬甘(伴部)からなる.左右馬寮の品部・雑戸が飼戸の馬戸で穫丁と馬丁.駅には駅長と馬子,牧には牧場長,帳,牧子,馬寮馬部にはさらに馬部当番,飼丁,雑徭の者が充てられている.白丁の名も見られるが,白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指している.
奈良時代の中期,律令制の動乱期・天平年間・聖武天皇は賤視差別から馬飼の姓を改め平民とする旨,詔を出している.当時の馬医は把笏の官で官位令では「馬医師」となっているが,この期に既に獣畜や畜産に関わる者は蔑視されていたことが分かる.こういった賤視差別に加えて平安時代初期に密教思想が伝来すると,さらに密教の不浄視差別が重なってくる.密教の興隆は平安時代の八世紀の末頃からで,それ以前の邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賤など、身分差別は存在したが、それは賤視(下へ見下す見方)であった。これに対し、平安時代だと言われる,死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンズー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。
兵部省の馬は兵部司の所轄で宮内は内馬寮が担当した.
厩牧令第三條に太政官に稟請する薬剤がある.薬剤は左馬寮式に毎期胡麻油一斗二升五合,犬山椒油猪脂三升二合五勺,硫黄一升六合,随時,葛大四斤,干薑小十斤とある.脂薬はいずれも瘡・傷の薬,胡麻油と猪脂は軟膏基材として創面の保護.犬山椒油には鎮痛と消炎作用がある.硫黄は殺菌と殺虫.内服薬の葛,干薑は健胃整腸消化の薬.馬の場合,多くの病が飼料の失宜によって生じるので,治療よりも予防を心がけている.以下に近世のものではあるが,木曽馬の「餌と飼い」を示した.
ねつひえないら薬也
一のさらし 中 一かきから 中
一白にしのから 大 一土りう 中 玄
一たいおう 中 一せんたいおう 中
一くしん 中 一 少まし
一しやこう 少 くこ 少
右九味を合
ないら薬事
一茯苓 一セン 一おもと 一セン
一やまもゝ 一セン 天南星 一セン
一鳥爪 三セン
右五味酒にて用へし
右同薬
一こせう 一セン 一やまもゝ 二セン
一ふくりう 一セン 一かんざう 一セン
右四ミ酢にても用ゆ
へしと里
十二ないらのぬく薬
一黒竹 玄 一いのこつち
一烏爪 一蒲根
一逢根 一ふなはら
一 ぶくりう 一李の緑
一 松の緑 一にらの根
右何れも粉にして 但し
黒竹 入て濁酒味噌
塩入て一日に二度つゝ但し一度に
五 つゝかうべし
厩牧令第二十六條に『凡官馬牛死者各収皮脳角胆若得牛黄者別進』
また,斃馬の皮肉は官庁に納め売却して金納とある.この事から品部・雑戸の中には牛馬の解体に関わる者が居たことが明らかになる.
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