百姓の顔 「被差別部落の民話・田中龍雄著 明石書店発行」
むかし、飛騨国の人手の多い部落では、不作の年がかさなるたびに、代官所から戒められて、浄場めぐりをくりかえしたと。
しきたり破る飼い主を、そのままにして見逃がせば浄場、村場の守りできぬ。
そのうえ部落うちのぞうよもいるで、斃馬の届けを腕こまねいて待つよりも、戒めどおりに浄場をめぐり、村のようすを見届けようとな。
そのつど人手をかき集め、目を光らせて乗りこんだとよ。
行く先ざきの村役へ仲間の使いを走らせて、浄場めぐりの先ぶれしてな。ほかの仲間が手分けして、馬を飼っとる百姓家の庭さきから声をかけたり、人を見るとや聞きこみをして、馬の所在をたしかめたがな。
不作つづきの百姓家では,ません棒を立てかけたまま、寝藁一本見つか らぬほど、ねぶったように片づけた厩はかりが目立ったと。
およそ飢饉とよばれる年は、その年だけが飢饉でのうて、まえまえからの不作がたたり、毎年根こそぎ年貢をとられ、隠して貯めた喰いもんが日ごと日ごとに減るおりに、一旦雪でもつもるとな。
人の往き来が絶えてまい、喰いもん探しの場がせまくなり、まず病人や年よりがひだる腹かかえて弱ってまって、一日ごとにやせ衰えたと。
地中の虫や木の皮や、草の根、木の根を煮て喰って、はては枕の蕎がらさえも腹のたしじゃと口に入れたと。
喰えぬもんでも喰うすべを知っとる者が生き残り、喰えるもんでも喰うすべを知らんもんが死んでまったでな。
ましてや、どこぞの飼い馬が倒れてまった、と聞いたがさいご。
ひだる腹かかえた百姓たちが目の色かえて我れ先に、よってたかって切りきざみ、奪いあいして引きちぎり、それぞれ抱えて隠してまって、猪,熊なみに喰ってまい、皮も残さぬ始末じゃったと。
どこそこで馬が喰われて皮がない、なんぞとな。人づてに噂を聞いた仲間のうちに
「おのれの斃馬に手をかけながら、口をぬぐってわしらをば皮剥者とは身勝手じゃぞ」
と、いきまく者もおったがな。
生きるか死ぬかの瀬戸際に、身分や定めはその余のことじゃ。わしらが飼っとる席ならば、焼いて喰おうと煮て喰おうと、勝手じゃろうが、と村うちで開きなおればそれっきりでな。代官所でもしまいには、見て見んふりをしとったと。
飢饉が過ぎてもとうぶんは斃馬の届けが絶えてまい、部落の者が声あげて浄場の権限ふりかざしても、煙の上がらぬ始末じゃったと。
飛騨国うちの部落では、維新いぜんにそれぞれが浄場、村場を手放すと、受ける部落がないままに、雇われ百姓や山仕事に精をだしたでな。
不作や飢饉がないおりに、斃馬の始末に手こずった百姓たちは是非もない.
人がやること、ひとつこと。その身になれはなんでもやるて。
浄場めぐりをそのままに、斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。
美濃国では村々へ、馬を勝手に屠るな、と庄屋の強い達しがあってな。触れも不服な代官所では、やがて領内の馬持ち一統を庄屋ともども呼びつけて、かさねて強い戒めようじゃと。
そのころ馬持ち百姓は、怪我や病いで切迫の馬を馬医者に診せもせず、部落の者にも知らせんでな。組内ぐるみで吊り出して、薮や林へ運びこみ、その場でつぶして皮剥いで、肉は田や畑のこやしじゃと、こまかく刻んで分けあったとよ。
頭や骨は埋めてまったが、生皮ばかりは慾欠いて、部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。
たびかさなるで庄屋から、つづけて部落へ達しがあって、皮にかかわる百姓をその場できっと取り押さえよ。隠しだては同罪で、訴人の者には銭をくれると、慾で釣ったがな。
百姓がおのれの馬をどう片づけようが、わしらは痛くも痒くもないぞ.皮だけ貰えば渡世ができる。手間がはぶけてありがたや、とな。訴人までする仲間はおらなんだと。
浄場めぐりの仲間らが林の道を抜けたらば、百姓たちがかたまって馬の始末をしとったで、つい物珍らしさに近づいて
「ごくろうさまじゃ」
と、仕分けの仕ぶりをまじまじと眺めとったらな。
皮を剥いどる百姓たちが、つくなったまま手を止めて、白眼ばかりで見上げたと。
それも気にせんと眺めとったら、なんのことない百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がないで、やたらと刃物で掻き回し、皮を削ぐやら、穴あけるやら、声も立てんと馬一頭を、てんでばらば引き散らかしといて
「いつまで覗いとるっ、去れと言うのが聞えんかっ」
と、わめくでな。
「その生皮を引き取るが、せっかく一枚の大皮に穴やら傷やらつけてまい、もったいないことするもんじゃ」と溜息ついたら
「皮は後ほど届けてやるで、ごたく並べず立ち去らんかいっ」
と、血のりのついた包丁で向こうの道を指しといて、
「こやしつくりの邪魔するなっ」
と言わんでもよいことほざいたでな。
日ごろ馬持ち百姓が、切迫の馬をつぶして喰って、こやしにしたと誰はばからず、百姓なりの顔をしてな。部落の者を賤しめるのがごう腹じゃったで、ここぞとばかり
「なんのこやしじゃ」
「田畑のこやしじゃ」
「馬の肉を一口ほどに切り刻み、味噌のころ煮で喰ってまい、糞たれたのがこやしかや。いかにも念の入れようじゃ」
と、言いだくれてやったがな。
斃馬をかこんだ百姓たちは、立ち上がるどころかつくなったまま、肩の間に首たれて、まるっきり顔がなかったと。
解説と考察
①浄場、村場の守り: 斃馬の取得権限が及ぶ範囲を浄場・村場と呼んでいる.芝などと同義語.明治以前は斃馬の取得は穢多の権限とされていた.生馬の斡旋を行う者は馬喰労,牛馬の療治を行う者は伯楽,士分の持ち馬を療治する者は馬医者である.
②浄場をめぐり: 穢多による浄場の点検
斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。黒田三郎著『信州木曽馬ものがたり』昭和52年 信濃路発行の「馬のとむらい」
に同様の記載がある.馬をかつぐのには最低でも8人の男手が必要である.人力運搬は一人あたり25-30kg.小型の牛馬なら何とか人力で運べる.車力で運ぶ方法も考えられるが,重量と大きさ,道路の状況から無理と判断される.
③切迫の馬を馬医者: 外科・内科疾患で死に瀕している事を切迫と呼んでいるが,切迫の用語自体は明治期・西洋獣医学導入後のもので,近世の牛馬療治書にはこの用語は無い.
生皮ばかりは慾欠いて、生皮は穢多にとって最も重要な取得物.武具となる皮革を上貢する事で斃牛馬の無料取得権が保障されていた.『部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。』は,商品として斃牛馬が流通しはじめた事を示している.
④仕分けの仕ぶり: 解剖の様子.解剖だけなら腑分けとなるが,食用が目的であるから仕分けと呼んだのであろう.素人の技であるから当然稚拙である.『百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がない』と,玄人は良く観察している.百姓達は自分の持ち馬・牛を食用に屠殺している.
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