我が国最初の諜報機関は馬飼部
日本書紀の第十七巻、継体天皇元年の条に河内馬飼首荒籠 (かわちうまかいのおびとあらこ) と云う人物が出てくる。 彼は北河内の樟葉の辺りの淀川の河川敷に開いた牧場で馬を飼うことを生業とし、馬飼部と呼ばれていた部族の首長である。 この馬飼部が、組織的な諜報機関としては、おそらく、我が国最初のものではなかったろうかと思われるのである。
時は今から千五百年も前、六世紀初頭の事。 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。 彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。 そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。 そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。 男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。
しかし、真実は、このような平和的なものではなかったと多くの研究者は考えている。 大和に覇権を確立していた応神王朝も、中興の大王雄略の没後は混乱と紛争が相次ぎ、 地方には群雄が割拠して末期的状況であった。 各地の豪族たちは風を望んで中原 (ちゅうげん) に進出して大王位を簒奪 (さんだつ) せんものと野望を膨らませた。 丹波の倭彦もその一人であり、越前近江の男大迹もその一人であった。 また、筑紫の王なる磐井もその一人であった。 最初に大和への進出を図った倭彦王は激戦の末に大伴金村の軍に敗れたが、 男大迹は二十年にもわたる長い長い戦いの後に大和に入り、遂に前王朝を滅ぼして、新たな王朝を開いた、 と云うのが真実に近いと考えられている。
そして、河内馬飼首荒籠も単に男大迹の王の諮問に答えたと云うだけのものではなく、 男大迹の王の諜報機関の役割を担ったものと見られている。
彼はこの間にあって、越前にある男大迹に逐一詳細な情報を提供した。 大和における混乱の状況、丹波勢と大伴金村の戦闘の状況、その戦いにおける金村軍の損耗状況、 それらの情報を越前に運び、今こそ立つべき好機であることを彼は男大迹に告げた。 いよいよ軍を起こすに及ぶと、その道案内の役を担い、我が一族の居住地なる楠葉に至るや、 そこを総司令部の場所として提供したのである。 男大迹大王が継体天皇として即位したのも、この楠葉の総司令部においてであった。
河内馬飼首荒籠、彼はどうして情報機関の役割を担うことができたのか。 それは馬飼という生業によるものに他ならない。 当時、淀川の河川敷や河内潟に浮かぶ大小の島々には、馬の飼育を行う牧場が多数散在していた。 荒籠を首長とする楠葉牧も、そうした牧の一つであった。 馬は四世紀末頃から応神王朝と共に畿内に現れる。 馬飼たちは応神王朝において大王家に所属した下級の部民であり馬飼部 (うまかいべ) と呼ばれた。 彼らは飼育した馬を大王家に貢納し、それが大王家より貴族たちに下賜される。 その時、その馬の馭者もまた馬飼部のところから派遣される。 上流階級の人たちは乗用車を自分で運転するのではなく、お抱えの運転手に運転させる。 自動車より以前の馬車も、お抱えの馭者が馭するものであった。 これらと同様に、古代における馬も貴人は自ら馭すのでなく、馬の口取は馬飼部から派遣された男たちが行う。 彼らはあちこちの貴人のもとへ派遣され、それぞれに貴人たちに近い所で近侍する。 そして、彼らが耳にした情報は自ずから馬飼部の首長の所へ集まってくる。 これが馬飼部が情報機関たりえた理由の一つであると私は考えるのである。
もう一つの理由は、彼らがその馬を用いて行った遠隔地間の交易によるものと考えられる。 彼らは大王家に貢納した残りの馬を、諸国の貴族たちに直接に売却して利益を得ることも行ったであろうが、 それと共に、それらの馬を荷物の運搬にも利用したであろう。 彼らは諸国の産品を大和の海石榴市 (つばいち) や河内の餌香市 (えがのいち) に運び、 また、それらの市 (いち) で仕入れた品を遠い諸国へ運んで、その間で利益を得た。 そうした馬飼たちは行先の国々で、その土地の情報を耳にし、 それらの情報はまた、自ずから彼らの首長の下に集まってくる。
男大迹の大王は、彼らが持っている情報機関としての機能の重要性を、いち早く認識して、 彼らと厚い誼 (よしみ) を通じていたのである。 単に、知り合いだったとか、付き合いがあったとか云うものではない。 それと云うのも、当時彼らは社会的に 「下賤の者」 であった。 継体紀には 「貴賤を論ずるなかれ」 と云う継体自身の言葉が出てくるし、 履中紀には馬飼たちには入墨が施されていたことが記している。 古来、動物の飼育を業とする者は卑しい者とされていたし、 さらに、士農工商の語の示すように商人はもっとも低い階級であった。 彼らはこれら二重の意味において下賤であった。 彼らは社会的に差別されていた。 男大迹はその情報性において敢えて彼らを厚遇したのである。 そこに、私は、彼男大迹大王の持つ先進性と凄さを思う。 そして、荒籠 (あらこ) たちが男大迹のために献身したのも 「宜 (むべ) なる哉 (かな) 」 と思うのである。
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