2011年9月18日日曜日

明治25 26 27年の施布列篤(カルテ)に記された牛の種類と毛色

種類 牝牡 年齢 毛色

九才 黒色

拾才 黒毛

八才 黒毛





四才 黒毛


拾才 黒毛

退却性短角雑種 八才 赤毛

拾五才 スダレ赤羽

十才 黒毛







拾才 黒白斑

八才 黒毛

四才 黒毛

六才 赤毛

四才 黒毛

犢牡 満一年八ヶ月 黒毛

五才 黒白斑点

拾三才 黒毛

八才 黒白斑点

九才 黒毛





拾五才 黒毛

短角 犢牝 一才 赤白雑毛











拾才 黒毛

九才 黒毛

六才 黒毛

四才


和種 四才 全黒







八才 黒毛







四才 黒毛

六才 黒毛に白斑あり

八才 黒毛




















去勢術
















犢 






























































































犢 













































四才 全黒











































二才 黒毛







十才 黒毛

二才 全黒






























牝犢 満一ヵ年 黒毛







2011年9月13日火曜日

氷上蹄鉄鋲と蹄釘

鋲は蹄鉄の螺子孔にねじ込んで装着する.氷結した河川を渡る時に用いる.右は軍用蹄釘.何れも陸軍獣医資材廠から山口獣医畜産専門学校に支給されたもの.

2011年9月9日金曜日

この岩根又重の報文に山口県畜産課の連中と鳥取高等農業学校・本橋平一郎が根拠を糾した

岩根又重は萩で見た牛が朝鮮牛に似ていたと言い逃れをするが・・・実は阿武郡の農業技手から聞いたものでありまして・・・役人の答弁は直ぐにボロが出る.

2011年9月8日木曜日

江戸時代の日本にいた牛の毛色















この他に明治時代のカルテを見ると黒毛が最も多く次が黒白斑毛とある.いずれも角のある牛で,角の無い牛は品種改良によって作られた.萩市・見島に産する牛は角があるが登録は無角和種の協会が行っている.

2011年9月6日火曜日

見島牛は『天然記念牛』?

 一番目の経路は福田茂穂・岩根又重経由で渡瀬荘三郎.二番目は山根直正・渡瀬理学博士の経路である.
福田茂穂は阿武郡農業技手・郡勧業係長で大正十二年十月退官,大正十二・三年に朝鮮ウシに酷似する見島牛を山口県庁の岩根又重調査員に,萩町で見せたとある.山口県庁の岩根又重調査員はこのウシを,内務省史蹟名勝天然記念物調査員・東京帝国大学動物学教室の渡瀬荘三郎博士に報告し,昭和二年六月二十二・三日に現地調査を経て,昭和三年九月二十日に『見島牛産地』に指定された.
山根直正・旧姓山本,大正七年東京帝国大学農学部畜産科卒,大正十五年春まで山口県畜産主任技師.大正十年に自ら調査し,大正十五年五月摂政宮殿下萩行啓の折に純和牛と無角和牛種を照覧に供し,後に文部省天然記念物考査委員(東北大教授)渡瀬理博が調査して『天然記念牛』となったとする.
昭和三年九月二十日の指定に対し,昭和四年に見島のウシを調査した鳥取高等農業学校畜産実験室の本橋平一郎は,昭和五年に山口県庁の岩根又重調査員に書簡を送り,昭和五年八月二日に
一番目の指定経路の回答を得ている.

2011年9月3日土曜日

山口市のと畜場


と 畜 場


山口市のと畜場は、古く明治四年に個人が上羽坂に開設したことにはじまり、これをのちに市営としたもので,この他陶地区にもあったが、何れも原始的な施設によるものであり、衛生的な見地からも多くの問題があったので、戦後、急速な国民経済の発展にともなう国民の健康と体位の向上および括動力源としての食肉の占める地位が、飛躍的に高まったのに対し、その需要量の増加を満たすことができなかった。
こうした条件から、市内に近代的な設備をもつと畜場の建設が要望せられていたが、その用地の買収が難航し、なかなか容易に決定しなかったのであるが、ついに昭和三十五年末になって、現在地(市内吉敷下東)に決定し、翌三十六年一月に着工、三千三百万円の建設費をもって、四、七九四平方メートルの敷地に約六三七平方メートルの近代的な設備をもつものがその年十一月に竣工した。
これによって市内の食肉のすべては、ここで処理されることになったが、小動物に換算して、一日一○○頭をと殺する能力をもち、市民の食生活の改善や、栄養保持に大きな役削りを果たしている。
出典 昭和四十六年山口市役所発行「山口市史・各説編」
注記 所在は上羽坂とされるが下羽坂の誤り.

獣医仮免状下付出願手続





2011年8月31日水曜日

平成15年7月20日・山椒の木で動けなくなり救助された和多郎

巣から跳び出した和多郎はすぐ側の山椒の木に登りましたが,どうにも動けなくなったので救助されました.百舌鳥の雛は大変におとなしく,鳴き声をあげる事はしません.黄色い嘴をパクッと開けて餌をねだります.

2011年8月27日土曜日

山口県教育委員会発行「見島総合学術調査」昭和39年発行

123p 第5章 見島牛
見島牛は,見島特産の牛であり,和牛の原型として,昭和3年9月20日に天然記念物に指定されたのである.  肉質は繊維が細く,軟らかで,美味である.

著名な出版社の「日本語大辞典」にも見島牛を天然記念物としている.
http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&item_id=2389では史蹟天然記念物に指定されたのは見島ウシ産地である.同日に見島村片くが亀棲息地として指定されている.「見島総合学術調査報告」昭和三十九年山口県教育委員会刊,「岸内閣誕生県町村合併記念出版・防長風土記」昭和三十二年,「山口県百科事典」1982年山口県教育会編,「県勢要覧」昭和二十八年山口県知事公室刊,「見島綜合学術調査報告第一冊・二冊」昭和二十六・七年山口大学,「萩市の農林水産業」平成八年中国四国農政局山口統計情報事務所萩出張所編はいずれも『見島牛』を天然記念物と記載している.「山口県史蹟名勝天然記念物の概要」昭和八年山口県発行非売品,「鳥取農学会報」第二巻第一号,昭和五年には内務省の告示によって見島全島を天然記念物に指定したと正しく記載されている.

2011年8月20日土曜日

獣医学講習会の開設


100 獣医学講習会の開設 (明17)

「山口県県治提要」行政文書 戦前A総務93 獣医学講習会ハ農業ノ進歩二随テ牧畜ノ業亦従テ盛大二至ルヘキハ今亦弁ヲ侯タス、本県ノ如キハ牧畜ノ業未夕盛ナラスト雄トモ逐年其業ノ進歩スへキノミナラス、従来農用二使役スル所ノ牛馬ノ如キモ獣医ノ業ハ之ヲ無智無識ノ伯楽輩二放任スルガ故ニ、明治十七年度二於テ始メテ本会ヲ開設シ、在学ヲ一ヶ年トシ務テ簡単こ学理ヲ講授シ専ラ病畜こ就テ其取扱治療法等二習熟セシメ、卒業ノ彼此業ノ改良こ従事セシメンコトヲ目的トス、現在生徒ノ数ハ五名ニシテ亦若干ノ手当ヲ給ス、費用ハ総テ之ヲ地方税こ資ル、十七年度こ在テハ其数億カニ九百弐円三拾四銭こ過スト難トモ、漸次其規模ヲ拡張シ以テ此業ノ盛大ナランコトヲ期ス、依テ本年六月本会ヲ廃シ、十八年度こ於テ更こ農学校中ノ一科トナサントス

屠牛並売肉規則


88 屠牛並売肉規則(明8・5・28
明治期山口県布達類17
八年五月廿八日
近来肉食日々相聞候処、右渡世之者病牛死牛甚シクハ馬肉犬肉等取交令売却候哉ニ相聞候二付、以往猥ニ売鬻差留候、依テ別紙規則二注意シ更二可願出候事右及布令侯也
(朱書)
〔別紙〕

屠牛並売肉規則
一屠牛牽入候ハヽ早刻病不病之検査ヲ可請侯事一取締人ハ改封印紙凡積ヲ以予備可申出候事ノ屠牛之都度々々取締之者検査ヲ可諸侯事
一屠りタル全肉ハ取締之者売捌所工可致護送侯専
一売捌所ハ買方ノ弁理ヲ量り可相設事
一屠牛之有無日々村町役所へ可届候事
一売肉渡世之者ハ鑑札願請売捌所ニテ可買取候専
一無鑑札ニテ営業致シ候者自然有之侯ハヽ、鑑札所持之者肉ハ勿論物々等預り置詳細書面ヲ以可申出候専
一為滋養買肉スル者於同所直買勝手タルヘシ
一馬肉犬肉等取交売捌候者相顕ル、ニオヒテハ売高多少二不拘明治六年七月第二百五拾六号二依り可及処分候事但、確証ヲ取り訴出侯者エハ賞誉可致候事
一稼人取締之者卜申合不正筋有之候ハヽ、見付訴出候者ハ事柄二応シ相当之賞誉可致候専
一取締之者人撰之儀ハ会議所詮議ノ上姓名可申出候事
一取締人屠午場出張日二限り一日金五銭宛検査料遣シ候事

2011年8月13日土曜日

山口獣医畜産専門学校か?

農学校の制服ではないようだ.そうなると建物は旧小郡高等女学校の校舎か?

2011年8月9日火曜日

天然記念物・見島牛に関する報告


県立の博物館が天然記念物と言えば疑う者はまずいない.あなおとろしや,オトロシヤ!

2011年8月1日月曜日

2011年7月30日土曜日

伯楽病理口伝の系図

九州肥後平仲国息安国ー伊勢国源道義息尚義ー越後国平盛頼ー備前国平義親ー奥州藤原心海入道息仲時ー仲綱の母ー息藤原仲綱ー桑嶋平六息藤原宗綱ー天下一桑嶋肥前掾藤原実綱ー桑嶋采女正藤原重綱   日本馬政史より引用

2011年7月22日金曜日

嘉永改正いろは寄萩藩分限帳の馬医・村井源右衛門

八十石御馬医安西流 生駒九郎右衛門
五十二石五斗御手廻組馬医安西流 吉松惣右衛門
五十二石五斗御馬医橋本流 竹中弥一郎
十五石御馬医安西流 宅野三郎兵衛
三十石御馬医安西流 中村源助
八十石御手廻組馬医安西流 村井源右衛門
二十五石二斗遠近流馬乗八条流御馬医太子流安西流兼 山本湖十郎
無給通御雇
弐人高三石一斗五升乗方馬医兼帯 宅野直衛

大村益次郎が軍務官付馬医に任用した村井某とはおそらく源右衛門[日本馬政史]

2011年7月16日土曜日

2011年7月12日火曜日

陸軍獣医資材廠のマーク

ローリエのマークは近代洋式獣医学が最初フランスから導入された事に拠る.フランス式の獣医学を導入したのは徳川幕府で,明治政府は畜産技術振興にあたって主にドイツの獣医学を手本としたため,フランス獣医学は陸軍の馬医学として残ることになった.

2011年6月18日土曜日

この牛,値八千五百万円なり!

鎌倉時代後期,土佐行光筆 駿牛図「大黒」越前牛

2011年5月30日月曜日

馬のはなねじと牛の倒臥保定法


松葉重雄著「獣医外科手術学」より.
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2011年5月15日日曜日

誤説・新説?

こんなものを鼻の穴にねじ込まれたら,馬は大暴れします.鼻捻棒・びねんぼうは棒の先の綱の環で馬の鼻を締め付けて,馬を制御する道具です.爪を切る時には使いません.馬の爪を切る時は一本の脚を持ち上げます.そうすると,馬は三本の脚で立ちます.馬は二脚では立てないので大人しく爪を切らせます.馬喰が鼻捻を使うのは馬繕いの時です.
金床 この鉄床は蹄鉄用の鉄床で野鍛冶や刀鍛冶が使うものではありません.
これらは民具として取り上げられていますが,極めて特殊な仕事に携わる人々が使う道具で,一般の民衆が用いる道具ではありません.
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2011年5月5日木曜日

陸軍獣医部講習生仮規則

明治十八年十一月陸軍獣医講習生仮規則を定む.講習生は獣医改行免状若しくは官私立獣医学校卒業免状所持者で検査合格者.陸軍重症病馬治療所で十八ヶ月間修学後,陸軍三等獣医に補任.
明治二十九年陸軍獣医学校条例改正.全国の獣医学校・農学校で三年以上獣医学を専修した者から志願者を募集して,陸軍獣医学校生徒とする.

2011年4月27日水曜日

明治六年兵学寮馬医生徒募集のこと

西川信 西村正 岡本永 原田貞四郎 天野多聞 米山俊信 安並賢輔 大沢弘毅 上田茂雄 粟屋浩一 山内直三郎 厚木訥平次 石川利吉 服部利器 佐野成之 以上十五名の馬医生徒入学を許可.明治八年兵学寮廃止.馬医生徒は馬医学舎所管となる.明治十年病馬厩転管.生徒員数・明治八年,六人.九年,二十五人.十年,二十四人.十一年,二十四人.十二年,二十二人.十三年以降は馬医の養成を行わず.獣医学教師アンゴーは明治十三年八月二十日に帰国.

2011年3月26日土曜日

戦士と馬

過去の戦士は騎兵と歩兵に分けられる.また,武具は弓箭などの飛道具と打物があり,これらの組み合わせから弓射騎兵,打物騎兵,弓射歩兵,打物歩兵となる.我が国で武士が成立した頃は弓射騎兵と打物歩兵の集団であったが,歩兵は武士とみなされていない.南北朝期に弓射騎兵は打物騎兵となって,戦闘様式が変化する.これらの様子は「前九年合戦絵詞」に見ることが出来る.

2011年3月14日月曜日

広重・名所江戸百景


安政四年十一月 魚栄版 馬の草鞋と馬子の草鞋が見える.場所は四ツ谷内藤新宿.
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2011年1月22日土曜日

山口農業高等学校創立八十年記念誌より

そ  の  頃
三  好  竹  壮

第一次大戦が終り大正天皇の御大典があった頃私は卒業しました。顧
みれば五十年に垂んとし、私自身も古稀を迎えるに至り記憶もうすれま
したが、ほんとにいい時代だったと思います。
当時の卒業生が毎年二回県下のどこかの温泉に集って同窓会を開き、
誰も死にそうな顔をしているものは一人もなく頼もしい限りです。当時
校舎も建築間もなく整頓していて、校門から本館までの道の両側に梨の
ダイヤモンド仕立てがならび、右手に花園、畜舎、左手に養蚕室、獣医
科の実習室があり、寄宿舎も南、北、西寮と舎監室の四棟。起床、食
事、就寝ともラッパの音でキチンとしたものでした。何しろ若い食い気
盛りで、正午のラッパが鳴ると各教室から雪崩をうつて食堂に殺到し、
豚汁等の予報があった時など、少し遅れると肉など一片もない味噌汁を
吸わねばならず、それでもしんみように上級生のすむのを待って頂いた
ものです。階下が寝室、二階が勉強部屋でした。二年間は南寮四室に、
三年目には西寮一室に変りました。
巡察の河村舎監長の金縁眼鏡の底の眼光が憤った。寒稽古では河村先
生に引ぼり出されてへ卜へトになるまで打込みをやらされたことも今思
えば先生が懐かしい。大正五年の三月卒業し、その年の徴兵検査で丙種
国民兵役、従って兵隊の経験はありません。緑あって農商務省の畜産試
験場や種半場で両教育を受け、大正十年兵庫県産業技手拝命、県庁、郡
役所、種畜場と七年居て山口県へ出向を命ぜられ、県庁に二年、玖珂郡
に二年、昭和七年五月種畜場勤務を命ぜられ、爾来二十年種吾場に勤
務、昭和二十六年四月退職致しました。
昭和七年には門脇場長が退職され、県の畜産主任技師(当時は農務課
の畜産係でした)中島周蔵氏が場長となられたが、兼務である為め岡本
一郎技師が場務主任で、庶務主任が小田村技手、業務係は私と三好保夫
君、助手一名、小便一人という陣容でした。その頃は家書も少く、農場
の日雇人夫も一日五拾銭位だったと思いますが、いつもワンサと押しか
け、過剰人員をことわるのが困難だった時代で、従って仕事も思った様
にでき、終業後は球が見えなくなる迄テニスをやれたものでした。当時
の農務課長原田知杜氏と中島場長の発案で、県下の民有種牡牛を一掃
し、和牛改良の目標に近い広島、岡山両県産の墳牛を県で購入し、種音
場で育てて民間に有料で貸し付け、貸付期間が過ぎたら無償交付すると
いう新案を実施する故、果して毎年何頭宛育成すればよいかという調査
を命ぜられ、一週間位県庁に行って毎年三十頭宛購入育成する案を樹て
ました。
この時の新規要求予算額が五百円だったと記憶します。この仕組を知
事さんに説明してもなかなか判ってもらえず中島場長も閉口されたらし
い。綿密な中島場長の計画されたこの制度はずっと続けられ、終戦後数
年して家書保健衛生所ができ、種牛の人工受精が実施されるまで続いた
と思います。一面本県には阿武郡に無角牛が居り、これをどうするかの
問題も中島さんの頭痛の種でしたが、阿武郡には無角牛改良の指導者井
上之文民、渡辺茂氏が居られ、難局を切り抜けてよく今日の盛大さに導
かれた功績は何といっても偉大であると思います。
三年毎に開かれる中国五県連合畜産共進会ではいつも無角和種が本県
としては優位に在った為、有角産地の方々はいつも不満でしたが、実際
他県に比しはっきりした特徴をもった牛ができないことは、私達として
も何ともやるせない思いで一杯でしたが、肉牛では断然他県をしのいで
やつと溜飲を下げたものでした。
畜産講習というのが門脇さん時代からあって、十名内外一カ月間場外
の民家に泊って場で講習を受けていました。この時代に講習を修了され
た方々に本県畜産改良の為に尽された方が多いのは特色でした。この人
数を増して場内で教育する為に寄宿舎と講堂を兼ねたものを建設するこ
ととなり二階建一棟を造りました。予算が千六百円だたと思いますが、
今も尚使われています。
新規予算がなかなか取れず中島さんの時代に厩肥舎一棟と倉庫一棟が
できた様に思います。中島さん御退職の後任は内田氏でこれも兼任でし
た。和牛登録の事業が盛になって来たのもこの時代でした。次が伊藤氏
でその次が井上氏でした。既に岡本技師は佐賀県の主任官として転出さ
れ、緬羊舎や育牛舎の建設、乳製品の製造、人工受精の実施など数々の
功績を残されました。
昭和十四年には日華事変が起き七月突如三好保夫氏が応召。一時一人
で二人役やり、従業員にも次々応召があり、戦時体勢はヒレヒレと押し
寄せました。
井上場長の前半昭和十五年に主任場長西周馨氏が和歌山県から転任さ
れました。在職二年で中央畜産会に転出され、昭和十六年私が場長を拝
命しました。昭和十四年は未曽有の早魅で一夏中困りぬき、やつと下流
の岩永の水源地から逆に水を揚げて場に達する水道を布設しましたし、
豚舎一棟を新築しました。その頃三好保夫氏は一時帰郷半年位勤めて又
南方へ出征しました。
此の頃から人手不足で圃場が荒れるので耕怒磯を購入してこれを補う
よう予算を出したら、年や馬を飼う種畜場で耕寂磯とは何事かと大叱ら
れ、勿論予算は拒否されました。今は亡き当時の農務課長が現状を見ら
れたら、さぞかし今昔の感が深かろうと残念な気もします。
牧夫が居なくなるから女(寡婦)を雇入れましたが、何組も居るとそ
れでなくてもかしましいのが、互に角づき合いで始末に了えない。幸に
風紀問題が起きなかったのがもうけもの位。一般でも人手不足で、その
頃になると学校の女先生方が襲って牛馬耕の講習をやるやら勇ましいこ
とでしたが、食物が大豆御飯ときているので、大部分の人達がおなかを
こわし閉口しました。
人手不足ですから職員も朝五時から起きポロ出し搾乳などやりました
が、効果的には今までの半分位しか出来ません。青年学校生徒、農民道
場の生徒等動員してもやりきれません。
終城の年の五月から七月まで赤郷に飛行場ができるというので種畜場
小隊というのが編成され、泊り込みで土工作業につきました。国民軍動
員と同じことでした。十九年の三月からできた農兵隊というのがありま
した。小学校を卒業した男子が美祢中隊というのを編成し、種畜場の寄
宿舎を居所とし農家の手不足に出動して働く仕組みでした。隊長が知人
でしたので場の用務も隊員に手伝ってもらい大いに助かりました。これ
が終戦の時も在場して終戦後も毎早朝整列して唱えごとをし、天突き体
操をやり意気軒昂でした。
丁度その頃、たしか八月の下旬警察から電話があり「特こう課長の内
意であるが、今まで山口刑務所に入れていたスパイ容疑者が釈放され、
湯田までの国道を散歩させているが、子供が石を投げるので危いから種
畜場へ収容しようと思うがどうか」といってきた。特こう課長は元の農
務課長で、ここの様子をよく知っていられるのですが、私は考えた。ス
パイ容疑者というが言いかえれば日露戦争に於ける横川沖の如き志士で
はないか。こちらは欺戦国だ、なまじなことはできないと思い、室がな
いから受け入れられないと返事すると、間もなく、牛房を手入れしてで
もよいから貸せという、仕方がないから、こちらの職員宿舎を明けて彼
等を収容し、自分等が牛舎の二階へでも移ろうと考え、兎も角牛舎では
困りますと返事したというのは、彼等を収容しても例の農兵隊の連中は
まだ戦う気持で訓練をやっている。
飛んだことになったと思ったが、其の後何ということもなく立消えに
なった。あの時牛舎に収容したら今頃はこちらが命がなかったろうと時
々首筋をなでてみたことでした。昭和二十三年頃から続々復員してきた
若い兵隊上りの青年達を三十名宛六カ月訓練して、有畜農業の指導者を
作ろうと県の農業会の養成所を開いて二年つづけた。大いに助ったこと
もあったが、何しろ殺ばつな連中のこと、手こずったことも一入だっ
た。気を抜く為に劇の練習を仕事の合間にやらせて厄をよけたこともあ
った。
その後は漸次平静になったが、昭和二十六年一月家内が死亡したのを
期に同年四月退職した。実は種畜場の移転論が県会でも出るし、何とか
決論が出し度いと考えていたし、場の建物も旧いし、戦後の農業経営に
寄与するには機構設備の大改革を必要としたので、二十五年の秋、当時
の田中知事の御来場を乞い、郡内選出の県議二人に立会斡旋して琴っこ
とにした。当日は場の近くの小山の上から場の周囲を展望して貰い、地
理的の適否等も聞きたかったので、馬に乗っていただいて自分が案内し
た。
目的を果して下山の途中、田中知事日く「中国各県の種畜場は再度視
て廻ったが、当場は牧場としては適地であり移転の要はない。明年は改
造費一千五百万円程やるから新しい構想の許に大改造せよ」とのこと。
場長室に帰って両県議交え、更に右の話を確約された。裁断流るるが
如しというのは、この人にしていえることだとつくづく敬服すると共に
闘志を新にした次第であった。然るに明けて一月家内が死亡し、加えて
家庭的事情が急迫していて遂に退職を決意せざるを得なかった。
後任の中村場長がその計画を遂行したのが現在の種畜場であるが、今
や農業改革の時代に入り、和牛というのが肉牛となる等、畜産も大いに
変ったし種畜場も試験研究機関に変貌しっつある。
茫々三十年顧みて感深いものがあります。
大正五年 獣医科卒 山口県種畜場長
現 美祢市議

2011年1月14日金曜日

日本書紀・履中天皇五年秋九月十八日

淡路に御猟の砌,御馬の銜を執る飼部の黥まだ差えす血臭きものもあったので,以後馬飼部の黥を止められた.神功皇后 新羅王を征して馬飼部となす.

2011年1月1日土曜日

小川流馬道

焼金形法十二之内其形各別也
鶴頭二金者長一尺二寸圓而
峰亀其形似鶴頭故有其名
上下相近不得長金処自傍用
之注云草侘陶隠居愛飼鶴療
馬之時鶴随草侘之命曲頚近之
当彼安穴則得喩子骨葉泉
宛額摺 夜眼掠草固之作其形

○次焦げ篇二金者長一尺二寸其形
平其の峰方温冷寒脉蹄等用之

○注云茴ハ帝始療馬彼馬薄
蹄向 戦石道蹄付猪膏笏灸
令宛之時使解入之後其馬雖趣石
巌頤当病故笏形

○次蓮茎三近者長一尺二寸其形
圓而身諸病要穴遍身前々用之
注云醫王善逝療馬之時真言
爐槽之傍有一蓮華取彼茎其
端温香火宛要穴病則喩故造
也  薬草荒意也
次亀頭一金者長一尺二寸其形如
焦笏峰亦圓也
注云周景王之時王良令醫馬
之灸之刻不用意焼金間既即
可被亀成時御前有一池自水中
亀載焼金来王良取是令灸
窟馬病即喩畢景王見之於
衣重道不二撥

一次燕尾一金者長一尺二寸其形
分焦笏銃鋒骨上之小灸崔舌
籐用是

○注云扁鵲之第宅燕来号居
馬蹄跡尾未見當崔舌即便
千蹄灸故始造之
次蚯蚓三金者又云頚蚯金長
八寸其形茎与鋒共圓眼中并筋
上骨迫痛大焼金之前用是
注云眼有病馬鎮伏テ野草時
蚯来号入眼中時則病喩扁鵲
見是造其形

城嶋源右衛門尉
時実在判
同九兵衛尉
清直
寛永三年十月廿六日相傳是





小川流馬道
安驥五臓十病 寒熱之事

一肝寒両眼ニ光ナシ亦眼青シ脊ヲ蟄
下腹腫口ヲアケス肝ウツケスレハ常ニ驚
走奇足抜立テ亦アユム事堅シタヲレン
トス是者重姿也肝之瘉ヲ灸ス温薬ヲ
飼ヘシ 木瓜実温ニ〆味酸シ末シテ五銭
烏賊骨温ニ〆味酸シ細末〆三銭湯五合
入テ可飼

一肝熱眼飛カエシ足ソラヲフム亦者頭ヲ
地ニ付テ酒ニ酔タル如状亦目赤クシテ泪
在眼腫身メクラス事不定眠ハ重姿也眼
脉の左ヨリ血ヲ出スヘシ冷薬ヲ飼ヘシ礬
砂寒ニ〆味酸シ車前草寒ニ〆味酸シ苦参
寒味苦シ是細末〆各々等分水五合入テ飼ヘシ

一心寒尾ヲ振頭ヲハラウシキリニ肩ヲハナヽカ
ス見帰ル人ヲクラウ如シ常ニ驚是ハ軽姿也
心之瘉ヲ灸スヘシ温薬ヲ飼ヘシ芍薬梅干
味酢シ雲母味甘シ各等分細末〆湯五合 
入テ飼ヘシ

一同熱腹骨ヲクイ喉ム子腫脉大ナリ眠驚
胸前ニアセ流レ口之色赤シ歯ヲクイ頭ヲタレ
テ身之毛ハナヽク尾ヲサシ足不留身之内火
ヲタクガ如是者重姿也胸堂ヨリ血ヲ
出シ冷薬ヲ飼ヘシ大黄寒ニ〆苦シ牛膝平ニ〆
味苦シ酸シ人参寒ニ〆味甘シ各々細末〆水五
合入テ飼可

一脾之寒腰ヲ延尾ヲ振事重シフンヲ下ス亦ハ
ナヽク唇ヲ上テハラウ水ヲ呑神少是ハ重姿也
脾之瘉を灸ス温薬ヲカヘ甘草独活
温ニ〆味苦シ木香温味辛シ各々細末〆湯五
合入テ可飼

一同熱唇頻ウコク尾ヲウツ足蟄臥サントス
亦口スク己腰ヲヨリテヲキフス口の内ニ瘡出ル
事在是者軽姿也尾本ヨリ血を出シ冷薬ヲ
飼ヘシ麦門冬寒ニ〆味甘シ木通各々細末
〆水五合入テ飼ヘシ

一肺寒常ニ腹鳴テ下ス腹腫糞ヲマス煩シ
ハフスル亦皮毛ソンジ息早シ口ヨリ涎タ
ルヽ是者重姿也肺之瘉ヲ灸シ温薬ヲ
飼ヘシ生姜桂心温也栗之子温右細末
〆湯五合入テ飼ヘシ

一同熱遍身ニ汗流事在息早シ亦アハヲ
スク毛之根アク尾髪カレ鼻フキシ鼻ヨ
リ血ヲ出ハナヽキテ足留ス草ヲクラウ事
物ウシ亦四足ヲ上テマロビウツ遍身ニ汗在
是者軽姿也帯脉之右ヨリ血ヲ出冷薬ヲ
飼ヘシ水金寒ニ〆辛シ一銭葛根寒味甘シ
カキドヲリ寒味酸シ是ヲ水五合入テ飼ヘシ

一腎寒重ク後足ヲ立替肩コシ脊腫腹
ヲヒク亦遍身冷ヘラヲ出シ脊ヲ土ニ付テカ
ヘル引ケトモヲキス口之色黒シ是者重姿也
百会腎瘉ヲ灸ス温薬ヲ飼塩流黄温
味酸シ各々細末〆湯五合入テ飼ヘシ

一同熱後足ヲ延テ腰ヲカヽメテ息早シ常ニ
見返水草ニ物ウシ黒血尿ヲ下ス亦フグリ
腫是者重姿也腎道ヨリ血ヲ出冷薬ヲ
飼蛤味酸シ半夏寒味辛シ醤ヲカンニシ
テ味酸シ右細末〆水五合入テ可飼以上
薬一臓腑各々別ナリト云トモ何モ薬可飼也

豊州之住人 忍藤左右衛門尉 在判
筑後之住人 城嶋九兵衛尉  在判
同     吉村勘兵衛尉  在判


寛永拾八年辛巳
十一月吉日

米多比六之助殿











小川流馬道目録
一最初潅頭五条付タ   三ケ条

一舉請本尊       有口伝

一針ヲニキリテ願念   有口伝

一金ヲ取テ願念     有口伝

一臥縄之事       有口伝

一臥庭之事       有口伝

一血之事        大口伝

血留之歌ニ云

血の道ハ父と母との道なれハ
血の道とめよ血之道の神

亦云血留一草在口伝
△馬道目録之事
△秘針秘灸秘薬

一一針者馬之面之巻目也針ヲ右之
手ニテ取左之手ニテ巻目ヲ引
上テ針之先ヲ上ニ問テ針之釵ヲ
大指ニ問テ指也
針ヲ着時一針之本地ヲ勧正申
印ジユヲ唱着ヘシ
右本地    在口伝

一一灸髪根ニアリ馬之耳ヲ髪根ニ
引折耳先之當前ヲ焼也灸治之
時本地ヲ申請印シユヲ唱フヘシ
右本地    在口伝

一一薬者黒モスル也重位之時ハ
白薬 粉薬飼時本地ヲ申請印
シユヲ唱ヘシ

一実死一生之針 大風門也
諸病一大事着願中狂馬ニ
亦血酔一大事之時用也針ヲ入事
五分也秀細在口伝

一上六脉之血留之針大風門之下髪
根ヲ押分針ヲサカサマニ指也針を入事
或ハ三分或ハ五分針遅抜ヘシ有口伝

一下六脉之血留尾之本横手下之毛ヲ
引上針先ヲ上ニ問テ着也針ヲ入時
有口伝

一上六脉之血酔之針両方之耳ヲ二ツニ
折則折メヲ指也駒ハ左駄ハ右
有口伝

一上六脉之血酔之針尾本一寸之向ヲ
サスノ夲ニサス也

一上之向針正心之黒白之中間也水ニ血ヲ
請テ見様 在口伝

一蕷見手之針両方之耳ヲ引違頭
之頂上之中間ヲ指但五分也能々
願念スヘシ

一四分一灸ハ馬之後ヨリ腹骨ヲカソエ
第六七之間両方ニ有但駒ハ左駄ハ右

一労之針耳ヲ後ニ押伏テ耳先ヨリ五
分後ヲ着也亦チクリンヲ下ヨリ上之如
着也馬之血留之時ハ上ヨリ下之如ク針
ヲ着也 有口伝

一五臓之長針之事耳一ツト亦半分之
寸ヲ取テ着髪根飲大筋也是則
肝心脾肺腎ニ相届ニ依テ五臓之長
針ト云也

一血酔マジナウ事之文  在口伝
但口伝云竹之ヘゴニテ耳ヲハジキ文ニ云
○ヲンロケンジンバラキリクソハカ但十二反
駒ハ左
駄ハ右

一血留之薬付時文ニ云
奥山の三谷の底の水見に
口をとむれはおくは留まる
右願念    在口伝

一一薬之歌之事
○飼へは志ぬ飼ねはいきぬ老母草
馬のためには毒か薬か
○飼は志ぬかはねはいきぬ於もと草
馬のためには莉呂をかふへし
右          在口伝

一イロハクハンチヤウ之寒熱ト云ハ
△寒病ハ三ノ一三ノ二二ノ二六ノ二四ノ七六ノ五
四ノ七
△熱病ハ三ノ一三ノ二二ノ二三ノ六一ノ三二ノ四

小川禅師 在判
藤左右衛門尉
藤原朝臣高通在判
城嶋源左衛門尉
時実在判
城嶋九兵衛尉
清直在判
吉村勘兵衛尉在判

貫永拾八年辛巳
十一月吉日
米多比六助殿



柳川藩・米多比家文書の小川流馬道免状.小川は粉河と同じ読み.粉河寺縁起絵巻にあるように,病の療治をこの粉河禅師に関連付けたもの.仏教医学・獣医学の伝来を高僧の名を借りて普及したものと思われる.この他に太子流と称する療治術がある.この太子は弘法太子の事で,大陸から持ち帰った『馬経大全』は東寺の感智院に収めたと記録にある.
学而不思則罔