牛に膽あり.鹿馬これを欠く.足らぬ故にこれを馬鹿と呼ぶ.牛膽に玉のやうなるものあり.名付けて牛黄.神農本草経に驚癇寒熱,熱盛狂痙を治し,邪を除き鬼を逐うと.また,左経記に河原者の獲りたる牛の珠の事あり.牛黄を獲るは秘伝にして他言無用の秘事なり.以て秘すべし.秘すべし.ヲンロケンジンバラキリクソワカ.
2012年12月6日木曜日
2012年12月3日月曜日
2012年11月30日金曜日
2012年11月17日土曜日
橘猪弼と平仲国
書名 編・著者 刊年 橘猪弼 平仲国 推古三年 延暦23年
日本書紀 舎人親王 養老四年 ー ー ○ ー
日本後紀 勅撰 承和七年 ー ー ー ○
桑嶋家伝 桑嶋実綱 元和六年 ー ○ ー ー
解馬新書 菊池東水 嘉永四年 ○ ー ー ー
陸軍獣医志叢 深谷周三 明治二十三年 ー ○ ー △
日本馬政史 帝国競馬会 昭和三年 ー ー ー ー
獣医学発達史 江本修 昭和十四年 ○ ○ ○ ○
日本獣医学史 白井恒三郎 昭和十九年 同上
日本獣医師会雑誌 日本獣医師会 昭和三十六年 同上
日本獣医学教育史 篠永紫門 昭和四十七年 同上
獣医学史 中村洋吉 1980年 同上
日本馬病史 松尾信一 平成十七年 同上
江本修の「獣医学発達史」は昭和十八年刊「日本農学発達史」にあり.稿は昭和十四年.これでは年号を記載し『勅を奉じて・・・』と記す.この頃白井恒三郎は獣医師会報の編集をやったり,東京帝国大学農学部家畜内科学教室・板垣四郎の助手となっている.江本修は元々は病理学者で獣医史学には興味がなかったから,出版にあたって白井紅白の知恵を拝借したものと思われる.
2012年11月15日木曜日
2012年11月14日水曜日
江本修
明治十九年五月徳島県の生まれ.第三高等学校を経て明治四十四年東京帝国大学農科大学獣医学科卒業.卒後同大助手,大正五年講師,同七年助教授,大正十三年農学博士,昭和元年ドイツ留学,昭和九年東京帝国大学教授,昭和十一年日本獣医学会理事長,昭和十四年大日本獣医学会副会長・会誌編集長.昭和二十年九月二十日東京都で死去.専門は家畜病理解剖学.
「日本農学発達史」昭和十八年五月二十日発行農業図書刊行会の「獣医学発達史」には『昭和十四年八月三十日稿』とあるから,昭和十四年大日本獣医学会副会長・会誌編集長時代の著作である.
冒頭・五四三頁に『推古天皇三年高麗僧慧慈・・・侍臣橘猪弼・・・』『桓武天皇延暦二十三年肥後の人硯山左近将監平仲国勅を奉じて唐に入り・・・』とある.いずれも出典は明らかにされていない.
「日本農学発達史」昭和十八年五月二十日発行農業図書刊行会の「獣医学発達史」には『昭和十四年八月三十日稿』とあるから,昭和十四年大日本獣医学会副会長・会誌編集長時代の著作である.
冒頭・五四三頁に『推古天皇三年高麗僧慧慈・・・侍臣橘猪弼・・・』『桓武天皇延暦二十三年肥後の人硯山左近将監平仲国勅を奉じて唐に入り・・・』とある.いずれも出典は明らかにされていない.
2012年11月8日木曜日
2012年11月4日日曜日
橘猪弼
橘猪弼(たちばなのいひつ,たちばないのすけ)
聖徳太子の伝説に『推古天皇三年595年高句麗僧恵慈来朝.橘猪弼に療馬の事を学ばせる』とある.伝説であるから出典は明らかでない.橘猪弼をインターネットで検索してみると,「獣医史のロマン」とある.このタイトルには些か心当たりがある.記憶を手繰りながら「日本獣医史学雑誌」を捲ると,昭和五十八年の第十七号の『研究ノート』にこれがあった.著者は日本獣医史学会の理事でお雇い外国人教師ヨハネスヤンソンの研究家である.この『研究ノート』は研究者の著したものであるから,出典を明らかにしている.参考文献は以下の通りである.
古事記 岩波書店版
日本書記(紀の誤り) 岩波書店版
伊沢凡人 稲羽の素兎 伝承の医学 古医学月報 1974
12月号
日本の歴史 中央公論社版
坂本太郎 聖徳太子 吉川弘文館版
江上波夫・森浩一対論 騎馬民族説
白井恒三郎 日本獣医学史 文栄堂
松尾信一 古文書にみるわが国畜産の歩み
篠永紫門 日本獣医学教育史
毎日新聞学芸欄
駒井和愛 考古学概説 世界社
参考文献中,一次史料とするものは菊池東水著「解馬新書」の序文で,その他は一般書,文庫本や新聞のコラムで一次史料とはならない.因みに「日本書紀」巻第二十二推古天皇の件には,聖徳太子が高麗の僧慧慈に仏法を習ったとはあるが,橘猪弼の名前は何処にも登場しない.また,参考文献とする「白井日本獣医学史」「篠永日本獣医学教育史」の橘猪弼は出典・一次史料を明らかにしていない.従って,『研究ノート』の著者が橘猪弼の存在を明らかにする史料は菊池東水著「解馬新書」序文のみとなるが,著者はその書を参考文献に掲げていないし,文中で説明もしていない.また,「
白井日本獣医学史」は平仲国の件で述べたように「日本馬政史」に採用されなかった真偽の明らかでない史料を編纂したものである.
手許の菊池東水著「解馬新書」は嘉永五年孟春 門人 越後長岡 長澤茂昭の書を村田金吾が安政二年の正月に書写したものであるが,嘉永四年十一月自序に『高麗僧慧慈来令侍臣橘猪弼学療馬・・・』と記している.
橘の姓は葛城王・橘諸兄の母 県犬飼三千代がたまわったもので,奈良時代七一〇年以降の事である.聖徳太子の出生は五七四年で活躍するのは六百年代の始め頃であるから,聖徳太子の時代には橘姓の人物が存在する可能性は少ない.
2012年10月26日金曜日
2012年9月24日月曜日
3
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。
次いで六から七世紀に韓民族系の文化人・技術者が渡来し,(仏教の伝来は六世紀中頃.仏教の保護政策は六世紀末)大和政権の形と文化を作って行く事となる.家牛もこの頃に渡来して西日本で飼育されるようになる.
「聖徳太子伝歴」によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が乗ると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、3日を経て都へ帰還したとある。
奈良時代
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
律令国家における牛馬の管理は官の仕事で,その任務に従事する者の身分は官人と,官庁に所属する良民の品部と雑戸であった.当時の馬の用途は駅馬が殆どで軍馬は少なくなっている.
大宝令における官馬の事は左右馬寮の所轄で馬寮の職員は権頭,権助,大允,小允,大属,小属,馬医,史生,騎士,馬部,使部,直丁,飼造部,馬甘(伴部)からなる.左右馬寮の品部・雑戸が飼戸の馬戸で穫丁と馬丁.駅には駅長と馬子,牧には牧場長,帳,牧子,馬寮馬部にはさらに馬部当番,飼丁,雑徭の者が充てられている.白丁の名も見られるが,白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指している.
奈良時代の中期,律令制の動乱期・天平年間・聖武天皇は賤視差別から馬飼の姓を改め平民とする旨,詔を出している.当時の馬医は把笏の官で官位令では「馬医師」となっているが,この期に既に獣畜や畜産に関わる者は蔑視されていたことが分かる.こういった賤視差別に加えて平安時代初期に密教思想が伝来すると,さらに密教の不浄視差別が重なってくる.密教の興隆は平安時代の八世紀の末頃からで,それ以前の邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賤など、身分差別は存在したが、それは賤視(下へ見下す見方)であった。これに対し、平安時代だと言われる,死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンズー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。
兵部省の馬は兵部司の所轄で宮内は内馬寮が担当した.
厩牧令第三條に太政官に稟請する薬剤がある.薬剤は左馬寮式に毎期胡麻油一斗二升五合,犬山椒油猪脂三升二合五勺,硫黄一升六合,随時,葛大四斤,干薑小十斤とある.脂薬はいずれも瘡・傷の薬,胡麻油と猪脂は軟膏基材として創面の保護.犬山椒油には鎮痛と消炎作用がある.硫黄は殺菌と殺虫.内服薬の葛,干薑は健胃整腸消化の薬.馬の場合,多くの病が飼料の失宜によって生じるので,治療よりも予防を心がけている.以下に近世のものではあるが,木曽馬の「餌と飼い」を示した.
ねつひえないら薬也
一のさらし 中 一かきから 中
一白にしのから 大 一土りう 中 玄
一たいおう 中 一せんたいおう 中
一くしん 中 一 少まし
一しやこう 少 くこ 少
右九味を合
ないら薬事
一茯苓 一セン 一おもと 一セン
一やまもゝ 一セン 天南星 一セン
一鳥爪 三セン
右五味酒にて用へし
右同薬
一こせう 一セン 一やまもゝ 二セン
一ふくりう 一セン 一かんざう 一セン
右四ミ酢にても用ゆ
へしと里
十二ないらのぬく薬
一黒竹 玄 一いのこつち
一烏爪 一蒲根
一逢根 一ふなはら
一 ぶくりう 一李の緑
一 松の緑 一にらの根
右何れも粉にして 但し
黒竹 入て濁酒味噌
塩入て一日に二度つゝ但し一度に
五 つゝかうべし
厩牧令第二十六條に『凡官馬牛死者各収皮脳角胆若得牛黄者別進』
また,斃馬の皮肉は官庁に納め売却して金納とある.この事から品部・雑戸の中には牛馬の解体に関わる者が居たことが明らかになる.
4
牛黄考
牛黄の歴史
牛黄は「律令」に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を収れ、若し牛黄を得ば別に進れ」と記されている。中国では『神農本草経』に,5世紀頃の北インドの大乗仏教の経典『金光明経』にもサンゴロカナスクリット語で牛黄の記載があるが,六世紀まで日本列島に牛はいないから,牛黄は仏教医学と共に我が国に伝来したものであろう。
近世の寺島良安の『和漢三才図会』の牛黄は明らかに牛の胆嚢結石で鮓莟ヘイサラバサラや,鹿玉(ロクギョク)、狗宝(コウホウ)、馬墨(バボク)は他の種類の結石である.馬鹿は胆嚢が無いので胆石が出来ることはまず無い.狗宝 は石淋を患いとあって,記述の色からしてもこれは明らかにカルシュウム系の膀胱結石である.寺島良安の医学知識は病理解剖学の無い理論漢方医学の時代であるから,この様な誤りを生じるのもやむを得ない.ヘイサラバサラについては明治期の「農務顛末」に京都府からの問い合わせがあり,駒場農学校の須藤義衛門が馬糞石として詳細に解説している.古い文献を紐解けば,平安時代中期の貴族・源経頼の『左経記』(内外書籍株式会社刊「史料大成4」矢野太郎解説)には,長和五年正月二日丁未の記録に『河原人が斃れ牛を処理したところ,腹綿(ハラワタ)の中に黒玉があったのを,河原人が持ち去ったので,河原人を詮議して提出させると,まさしく牛黄であった.その大きさは玉子ほどで,色は黒色の貴重な牛黄であった』・・・とあり,この当時すでに牛の胆石が貴重な薬であることを明らかにしている.なお,この時の牛黄は玉子大と記録するから,これは胆嚢に出来た大きなビリルビン胆石で,普通に得られる小さな粒の牛黄や,胆管中の管牛黄(クダゴオウ)ではない.
牛黄は「律令」に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を収れ、若し牛黄を得ば別に進れ」と記されている。中国では『神農本草経』に,5世紀頃の北インドの大乗仏教の経典『金光明経』にもサンゴロカナスクリット語で牛黄の記載があるが,六世紀まで日本列島に牛はいないから,牛黄は仏教医学と共に我が国に伝来したものであろう。
近世の寺島良安の『和漢三才図会』の牛黄は明らかに牛の胆嚢結石で鮓莟ヘイサラバサラや,鹿玉(ロクギョク)、狗宝(コウホウ)、馬墨(バボク)は他の種類の結石である.馬鹿は胆嚢が無いので胆石が出来ることはまず無い.狗宝 は石淋を患いとあって,記述の色からしてもこれは明らかにカルシュウム系の膀胱結石である.寺島良安の医学知識は病理解剖学の無い理論漢方医学の時代であるから,この様な誤りを生じるのもやむを得ない.ヘイサラバサラについては明治期の「農務顛末」に京都府からの問い合わせがあり,駒場農学校の須藤義衛門が馬糞石として詳細に解説している.古い文献を紐解けば,平安時代中期の貴族・源経頼の『左経記』(内外書籍株式会社刊「史料大成4」矢野太郎解説)には,長和五年正月二日丁未の記録に『河原人が斃れ牛を処理したところ,腹綿(ハラワタ)の中に黒玉があったのを,河原人が持ち去ったので,河原人を詮議して提出させると,まさしく牛黄であった.その大きさは玉子ほどで,色は黒色の貴重な牛黄であった』・・・とあり,この当時すでに牛の胆石が貴重な薬であることを明らかにしている.なお,この時の牛黄は玉子大と記録するから,これは胆嚢に出来た大きなビリルビン胆石で,普通に得られる小さな粒の牛黄や,胆管中の管牛黄(クダゴオウ)ではない.
牛黄とは?
牛黄は牛の胆汁色素のビリルビンとビリベルビンが固まったもの(結石)である.本来液体の色素が固体に凝結するためには,核となるものが必要となる.核の殆どは肝臓に寄生する吸虫・肝蛭の卵である.肝蛭は肝臓や胆管に寄生する吸虫類で,成虫の産んだ虫卵は胆管・胆嚢を経て胆汁中に排泄される.従って,胆嚢中に出来る色素結石は1cm程の大きさで数が多くなる.左経記や和漢三才図会にあるような鶏卵大の大きさの結石となれば,その値は黄金以上のものと言われる.
漢方薬の牛黄のいわれ
牛の胆汁色素が凝固したもので色がその磐余と考えやすいが,じっさいは褐色から黒に近い色調である.実は黄の由来は胆石を病む牛の症状から付けられたものである.牛が胆石症を病むと,痛みから吠えるようになり,末期に黄疸が出て目の粘膜が黄色に染まるものを黄の病と呼ぶと,多くの牛療治書に記されている.牛黄とは黄病の牛の胆中にあるもので,その色や形から付けられたものではない.牛の内臓中の結石の一般名称は玉(タマ)で,漢方薬の牛黄とは異なる物である.
牛の胆石症が黄の病なら,人の胆石症は癪である.俄の癪に印籠の熊の胆(胃)を服ませて・・・実は有効成分はどちらも胆汁色素で,化学名はデスオキシコール酸とケノデオキシコール酸,現在では合成品がウルソ等の名前で局方の利胆剤として市販されている.
現在の漢方医学では牛黄は人参と並ぶ重要な薬物で,多くはオーストラリアからに輸入に頼っている.特に国産の牛黄は和牛黄と呼ばれて高価格で取引されたが,現在では使役牛の食肉化がなくなり,乳牛の肝蛭にも効果的な駆虫剤が出来て,天然の和牛黄は得難いものとなっている.
道路を使う運搬には馬借と車借があり,牛車は馬借の五倍の荷物米十俵を運べる.馬借には伝馬と中馬がある.中馬の一日の行程は二十から三十貫目の荷で八里.騎馬のみの移動なら,日に二十里ほど.運送馬の餌は,朝フスマ一升切り藁ザル半分,昼麦二升,夜大麦五升を煮て切り藁に混ぜ二度に与える.
乳牛院
- 別当
- 乳師長上
- 乳戸
2012年9月6日木曜日
2012年9月3日月曜日
2012年8月24日金曜日
2012年7月14日土曜日
防長勧業会報第五十二号 明治三十一年四月二十五日発行 ヤンソン博士の牛疫談
防長勧業会報第五十二号 明治三十一年四月二十五日発行
ヤンソン博士の牛疫談
本稿は博士が大阪府下に出張し牛疫に関して談話せられたるを筆記したるものなり畜産家の参考になるべき節多ければ号を逐い之を掲載することとなす
私は茲に牛疫の性質に就いて少しくお話し致します此牛疫と云う者は日本であっても欧羅巴であっても決して土地から湧出したり或は気候の為に発生する者でなくして必ず牛疫の病毒が牛から牛へと移るのである而して此牛疫の黴菌と云うものは如何なる法を以て見ても決して之はどう云うものであると云うことの見分けが出来ぬ虎列刺の黴菌とか或は肺結核の黴菌とかの如きは立派に之を研究し得たけれども牛疫の病毒に至っては今日まで如何なる方法を以て発見することが出来ぬ虎列刺の「コンマ」黴菌や結核の黴菌は今日の顕微鏡を以て立派に分かるけれども牛疫の病毒は今日の顕微鏡を以て如何なる形態を有するものであるかと云うことが分からぬ有名なる「コホ」先生は既に虎列刺でも肺結核の黴菌でも自ら発見せられたけれども牛疫の黴菌は未だ発見することが出来ぬ今は英吉利政府から嘱託を受けて阿非利加へ行って牛疫のことを研究しつつあるのです要するに今日の顕微鏡の装置は牛疫の病毒を発見するだけ充分に巧みには出来て居らない併しながら牛疫が分からぬと云うばかりでなくして猶家畜の中には最も恐ろしい鵞口瘡とか又は羊痘の如き疫病がある斯の如き病が一たび畜類に発したならば実に猖蕨を極めるものであるが夫れ等の病の黴菌も又牛疫と同じく発見が出来ないで居る何しろ形はあるに相違なければ若しも濾過法に縁り之を濾過して立派に発見することが出来たならば或は発見が出来るかも知れぬけれども未だ其の法とても発見が出来て居ない
牛疫と云う此位恐ろしい病気はない人間の病気であっても畜類の病気であっても此位伝染力の強い恐ろしい病気は世の中にない.此牛疫の黴菌は或は揮発になることもあるが多くは固定のものであって若しも之を立派に保存して置けば一年間位は生て居るものである又或る場合に於いては甚だ速やかに死んでしまって再び発生せぬことがある全体牛疫の黴菌は空気に触れしめすに居ったときには大変命が長い例之牛に与える食物或は人間の着物等に付いて居って空気に触れぬ場合には其病毒が長く生きて居る亦た一度牛疫が牛舎に発生して其牛舎の中の床とか壁とか天井とか牛の御具とかに病毒が附いて居ると長く其病毒が生きて居るので詰まり其所が消毒不充分であったら再び牛疫が発生すると云うことになって居る牛疫の病毒は如何にして全く消滅するものであるかと云えば第一に空気に触れしむる事空気に触れしむると病毒が弱くなる第二には高度の熱を与えること焼き殺すのです第三は冷却すること即ち氷点以下二十度位にする併しながら此の冷却することは余り功がない先ず速やかに病毒を消してしまうと思えば薬の力を用いるより外はない其薬は常に使うところの根魯児である根魯児は瓦斯体にもなるし容体にもなる又粉末にもなる,それから昇汞水石炭酸の溶液此の如き薬が皆牛疫の病毒を速やかに撲滅するだけの功能がある(未完)
之れより此牛疫は如何にして媒介されて他の牛に移るかと云うことが最も必要であるからそれをお話し致します先つ一番能く病毒を運搬するのは牛の糞或いは牛から出る所の乳汁其他吐いたところの唾又は生まの肉とか生皮と云う様なるものが病毒を運搬する好材料である其他反芻獣例えば羊とか又はそれから得たところのかわ肉が矢張り病毒を他へ移す媒介物となるそれから鹿や羚羊なども同じく媒介物である阿非利加で牛疫の病毒がどうしてそんなに,ひどくなるかと云えば阿非利加には羚羊が沢山居る其羚羊が牛疫に罹って居る牛の群に這入って遠方に逃げるから牛疫の病毒が遠方まで伝搬して来る夫れ故に独逸政府は阿非利加に在る独逸の植民地へ総て其地方の羚羊と云うものは悉く叩き殺してしまえと云うことを命令して,そう云う風にやって居る叉人間の着物履物が実に危険であって此着物から移ったと云うことがある和蘭ではでは乳を搾るのは皆女です女が皆乳を搾って居る丁度和蘭は独逸と国が接近して居るが或年和蘭に牛疫が流行したときに独逸の区域内に祭礼があった其和蘭から一人の女が来た為に其病毒を独逸へ持って来て牛疫が流行したと云うこともある次に叉た鼠や犬が牛疫の病毒を他へ移すことがある併しながら馬や豚の様なものは余り他へ移すことはないが鼠と云う奴は色々様々な病気を他へ移すために余程危険なもので旋毛虫と云う豚に大変恐ろしい寄生虫がある,そう云う虫は多分鼠が持って来るであろうと云う学者のである叉た「トリヒナ」と云う虫が人間には虎列刺の如き恐ろしい病気である其病気の発した原因を調べて見ると豚の肉を喰った為めで豚は大変に鼠を喰うことを好むとす其鼠に「トリヒナ」と云う虫があるから遂に此人間に移ったと云うことがある殊に面白いは此頃大変に流行する黒死病です彼の黒死病の流行するときには必ず其前に鼠が,そう云う病気に罹って居る是実に奇体で黒死病の流行を予知するだけの価値があると云うことが立派に新聞雑誌に出て居るこれに依て考えると或いは黒死病と云う恐ろしい病気は人間の身体に発生するものでなくして鼠の方から人間に移されるのかも知れぬ此鼠が牛疫の毒を牛に移すと云うことは例之一牛舎に在るところの牛が牛疫に罹って其牛舎の中は牛疫の毒一面になって居る其場所を鼠が歩けば足に付く其足で叉た,こちらの牛舎へ来て藁や草の上を歩く,すると藁や草に毒が着きましょう其藁を牛が喰う,それが為に牛疫が発する,こう云う順序に鼠が牛疫の媒介物となります叉鼠でなくして牛に食わす食物即ち藁や秣の様なるものが牛疫の毒を他へ移す媒介となることが屡々ある殊にこの藁や秣の様なもの牛疫の毒を大変遠方のところまで持て行ったと云う例が沢山ある或牛舎に牛疫があって其上に藁や秣が積であったところが下の方は充分に消毒したけれども上の方は藁や秣は其儘にして置て一年の内に再び其牛舎に牛を入れた其時に叉牛疫が発したと申しますが左すれば牛疫の毒が上の藁や秣に着いて居ったと云うことは明らかです之は誠に適切なる例である,それから牛舎におって牛に食物を喰わするところの桶などは消毒を充分に為ないために牛疫の再発したことが屡々ある
欧羅巴などでは鉄道の貨車に牛を入れて遠方へ送る其牛中に牛疫に罹ったものがあるときは其消毒を充分にしない為に遠方へ病毒を移して牛疫の発生したことが度々ある学説に據りますと此牛疫の毒が一旦空気中に這入って来ると,それより凡そ五間程の周囲には病毒が這入って居る若し風でも吹けば五十間位は,ずっと向うまで病毒が行くであろうと云うことです
先ず牛疫が牛の身体へ這入って来る塩梅は最初に病毒が鼻腔より肺臓へ這入る,それから血液の中に入り,それから,ずっと身体中総ての部分に広がって来る殊に此牛疫は身体を侵すのは多くは粘膜面が一番能く侵されるのが奇体である中にも小腸,口腔粘膜が最も能く侵される大概牛疫に感染して愈々発病する,その間は多くは一週間前後です
牛疫に罹って第一現れる所の症状は総ての熱性病の兆候にして食欲欠乏し反芻作用なくなってしまう第二は呼吸器に発する症状で咳が出るとか或いは叉呼吸が困難に成て来ると云う様なことで第三は消化器に於ける症状で初めは下痢はしないが次第に下痢して遂には赤痢の様になって来て其他外部即ち皮膚に発疹する様なことがある叉た腔の近傍にも,そう云う発疹が起こる然れども斯の如き症状は必ずしも牛疫の特徴と云う訳ではない他の熱性病或いは其他の病気にも,こう云う症状が起こる而して牛疫の特徴とすべきものは即ち口腔粘膜に於ける粘膜上皮の剥脱して来る特種の変状で,これが牛疫の一番の特徴と云うものである,そう云う症状は必ずある者であるけれども或る場合に於いては立派な牛疫であっても其症状のないときがある其無いときには死体解剖をして果たして牛疫で有るかないかと云う事を鑑定をしなければならぬそれでこれは牛疫で有るか無いか愈々分からぬと云うときには死体を解剖するより外に仕方は無い(未完)続きは獣医学・獣医術の歴史のPDF版でご覧ください.
2012年6月30日土曜日
2012年6月28日木曜日
2012年6月11日月曜日
2012年5月7日月曜日
2012年5月5日土曜日
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清代版《元亨療馬集》現六安
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這部獸醫學專著保存完整,傳世極少
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6月14日,我省一次偶然的鑒寶活動,讓一部珍藏在民間的獸醫學經典《元亨療馬集》重見天日!讓許多業界專家興奮不已的是,這部完整的木刻本古籍首次出現在該書的作者、世界獸醫鼻祖喻仁、喻傑兄弟的故鄉六安市,而且恰逢全國紀念《元亨療馬集》付梓400周年之際。昨日,該書的收藏者舒城農民張學念受邀參加中國獸醫歷史研討會。記者采訪發現,機緣巧合的背後是幾輩人保護這份文化遺產的艱辛和執著。
鑒寶會上露真容
為慶祝我國第三個文化遺產日,6月14日,在六安市開展的一次『鑒寶會』活動現場,許多民間收藏愛好者帶來自己的字畫、陶瓷、青銅器和一些雜件請專家鑒定。
活動約半個小時後,一位農民模樣的中年男子揣一個鼓鼓黑色塑料袋,走到字畫鑒定臺前,小心翼翼地從塑料袋內拿出一疊線裝古書。書共四本已經發黃,由於保管較好,書都沒有缺損。鑒定員翻開其中一本的扉頁,『牛馬集』三個大字清晰可見,旁邊印著『六安州喻本(元、亨)著』、『療馬全集,春卷』等內容,全場一片嘩然。
難道這就是傳說中的《元亨療馬集》?!現場很多人都知道,六安是世界獸醫鼻祖喻本元、喻本亨兄弟的故鄉,其標志就是兩人有一部獸醫學經典《元亨療馬集》傳世,但誰也沒有見到過原版。
負責鑒定的省文物鑒定站文博專家張耕告訴記者,這部書可以確定是清朝木刻金陵汝顯堂《元亨療馬集》,書中明確標注『兩儀堂梓』本,保存相當完整。書是真的,但學術價值有待獸醫專家進一步考證。話音剛落,現場就有人願出高價購買,但被該書持有人拒絕。
安徽農業大學動物科技學院副教授、中國中獸醫學會常務理事史江彬說,六安發現的這部書,對研究我國中獸醫發展有很重要意義,也是首次發現清代兩儀堂梓本《元亨療馬集》,這部書是人類歷史上第一部獸醫學百科全書。
底本全國罕見
六安市農委副主任段傳植介紹了關於這部書情況。他說,《元亨療馬集》為明朝六安人喻仁(字本元)、喻傑(字本亨)兄弟所著,是人類歷史上第一部獸醫學經典。1979年在六安縣發現了《新刻注釋馬牛駝經大全集》,系《元亨療馬集》的最早注釋本。該市上世紀90年代建設『元亨紀念館』時,曾搜集到《元亨療馬集》的手抄本,但已殘缺不全,這次發現的清代木刻印刷本十分完整,這樣的印刷底本除了中國國家圖書館、南京博物院以及相關高校有部分收藏外,在我國極為罕見,在該市還是首次發現,這對研究獸醫學發展史有著十分重要的意義。
這部書是何時出現在六安市民間,為什麼會保存得如此完整,它與獸醫鼻祖有沒有直接聯系?記者采訪了該書的收藏者舒城縣山七鎮農民張學念。
躲過破『四舊』劫難
今年41歲的張學念是舒城縣山七鎮農民。張學念說,他收藏的這部《元亨療馬集》共有『春』『夏』『秋』『冬』四部,外加一部『療牛經』,目前都完好無損。6年前一位與他患難之交的好友將這部書贈送給他時,鄭重告訴他:『你要好好保存,有了這部書你這一輩子就有飯吃了。』張學念說,他明白好友這句話的意思,就是說這部書很有價值,如果學到其中的知識,可以成為一名出色的獸醫。
張學念說,這位朋友是獸醫世家,在當地很有名,他的祖輩曾因為醫術高深受到六安州衙的賞識,靠的就是這部秘不示人的醫書。朋友告訴他,文革破四舊時,身為獸醫的父親為保護這部書,用牛皮將書包起來吊在家中的房梁上,纔躲過一劫,輪到他這一輩因為沒有再學獸醫,這部書沒派上用場,但他知道書有很高的價值。
張學念開始並不了解這部書的真正價值,三年前他從報紙上看到這部書民間基本失傳的消息後,纔明白這是老祖宗留下的珍貴遺產。張學念說,他願意以適當的方式將這部書交給國家。
張學念說,他家離六安毛坦廠鎮很近,據說毛坦廠就是獸醫鼻祖喻本元、喻本亨的老家,明清時期毛坦廠的養馬業十分興盛,至今還有『白馬尖』、『駐馬衝』、『走馬崗』等眾多與馬有關的地名。(方榮剛)
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2012年5月4日金曜日
馬経大全と元亨療馬集
引 言
《元亨療馬集》(俗稱《牛馬經》)和《司牧安驥集》(唐·李石)是我國兩部獸醫經典,是中獸醫學(TCVM)的理論基石,為保障中國乃至世界畜產發展做出了積極貢獻;由於《元亨療馬集》傳承了《司牧安驥集》精髓,以致成為我國至今唯一流傳最廣的一部獸醫經典,係明朝南直隸廬州府六安州(今安徽六安縣)喻仁(字本元)、喻傑(字本亨)兩人所著,自明代萬曆戊申(1608)年初梓(按丁賓序言“近梓其治療圖方”一句確定)以來,流傳全國各地甚至日本、朝鮮、德國等國,出現了內容互有出入的多種版本[1]。
從20世紀40年代起,一些中獸醫學家在利用《元亨療馬集》指導醫療實踐時開始注重了版本考證等文獻研究,除了各出版社出版的《元亨療馬集》石印本、點句本、校勘本、註釋本附有版本考證之類的專文外,《中國獸醫學雜誌·紀念元亨療馬集刊行350週年·中獸醫專號》(科學出版社1958年10月)、 《紀念元亨療馬集付梓380週年學術討論會論文彙編》(安徽省畜牧獸醫學會等1988年5月)、《紀念元亨療馬集付梓390週年·創造新世紀中獸醫學》(中國農業大學出版社1998年8月)等也有重點介紹。
中國農業大學於船教授(1924.11~2005.11)1956年在與同事吳學聰教授(1920~1982)、農業部畜牧獸醫總局金重冶教授級高級獸醫師組建中國畜牧獸醫學會中獸醫學組時便與(中國)農業出版社合作主持了以《元亨療馬集》為重點的“中國古農書叢刊·畜牧獸醫之部”選編工作,吳學聰教授在《中國獸醫學雜誌》1958年第10期發表了“《元亨療馬集》的版本類型”(第462-468頁),此後於船教授、南京農業大學鄒介正研究員、安徽省農科院畜牧獸醫研究所許長樂研究員、山東畜牧獸醫職業學院郭光紀副教授等也在有關論著中進行了闡述,本文重點總結了國內外截止2006年12月的獸醫經典《元亨療馬集》版本概況、版本分類、版本爭論等研究。
版本概況
從1949年10月至今,大陸一些出版社相繼出版了《元亨療馬集》的石印本、點句本、校勘本及註釋本(簡稱“今本”)11種。20世紀五六十年代主要是石印本、點句本、校勘本,如建文書局(1954)石印本、錦章書局(1955)石印本[2]、中華書局(1957)校勘本[3] 、農業出版社(1960)點句本[4]、農業出版社(1963)重編本[5];80年代後則以各種註釋本為主,如山東科技出版社(1983)許(鏘)序註釋本[6]、農業出版社(1984)選釋本[7]、北京農業大學出版社(1990)丁(賓)序校注本[8]。《新刻註釋馬牛駝經大全集》(清·郭懷西),系
《元亨療馬集》的最早註釋本,該書1979年12 月在安徽六安縣發現,作為“中國農學珍本叢刊”、“中國古農書叢刊·畜牧獸醫之部”由農業出版社出版了影印本(1983)[9]、校正本(1988)[10]。值得說明的是《新牛馬經》,它是金重冶教授級高級獸醫師以《元亨療馬集》為藍本並根據本人的實際經驗予以改編而成的著作,農業出版社出版過初版、第二版、第三版[11],是20世紀五六十年代影響最大的著作,截止1965年5月共印14次,印數高達282000冊;在20世紀特別是60年代後,流傳最廣的還是中國農科院中獸醫研究所的重編校正本,它綜合了《元亨療馬集》明清各個時期的各種版本,並按分類重排系統地進行校正、改錯、補漏、標點,成為學習、研究和臨床運用中國中獸醫學的重要工具書,截止1985年12月印數已達146250冊,當今很多學術探討都以此書為藍本[12]。
上述今本,出版底本以明清木刻本、石印本為主,據統計有金陵汝顯堂梓本、汝顯堂梓尚息堂重梓本、汝顯堂梓松盛堂重梓本、汝顯堂梓文發堂重梓本、大德松藏版本[13]、大德堂版本、致盛堂版本、桐石房版本、桂花樓版本、興文堂版本、泰山堂版本、文興堂版本、文成堂版本、文盛堂版本、文富堂版本、聚文堂版本[14]、寶仁堂版本、善成堂版本、書業堂梓本[15]、三益堂版本等20多種,這些底本多收藏在中國國家圖書館、南京圖書館等處,河南教育出版社《中國科技典籍通匯》、(山東)齊魯書社《四庫存目叢書》也曾影印,只是流傳不廣而已。
版本分類
從數量上看,《元亨療馬集》版本的確很多。如從版本類型上看,不外乎3~4種。一說“雖然版本很多,但基本上可分為丁序本、許序本以及郭注本三種類型”[16],另一說“有四種類型的版本:第一種是明版丁序《元亨療馬集》本;第二種是增添了《牛經》、《駝經》的丁序增補本,或者說是清版《元亨療馬集附牛駝經》本:第三種是李玉書編纂的《牛馬駝經全集》,包括一些不含《駝經》稱為《牛馬經》的版本,上有許鏘作的序,通稱許序本;第四種是1949年後將丁序增補本和許序本合併,重新編纂而成的重編本,如《重編校正元亨療馬牛駝經全集》”[17]。前一說在“丁序校注本”裡又增加了“重編校正本”,算來也是四種[18]。按作序人將《元亨療馬集》分類,可分成丁(賓)序本(喻仁、喻傑著)、許(鏘)序本(李玉書編)及重編校正本(丁序本許序本的合編本)三種,其中丁序本應該包括明版丁序本、清版丁序增補本,實際是後一種說法的簡稱。現存丁序本,主要有金陵汝顯堂梓本、大德松藏版本等幾種,其它都是許序本。
此外,按刻印形式可分為木刻本(如金陵汝顯堂梓本、書業堂梓本)、石印本(如致盛堂本、建文書局本)、鉛印本(如農業出版社的各種版本)三種:按編排形式又可分為豎排本(如各種古本、中華書局許序本)、橫排本(如山東科技出版社許序註釋本、農業出版社選釋本、北京農業大學出版社丁序校注本)兩種;按作者情況可分為原著本(如金陵汝顯堂梓本、大德松藏版本)、改編本(如興文堂許序本、農業出版社重編校正本)、註釋本(如農業出版社選釋本、郭注本)三種。雖然分法不一,但一般還是提丁序本、許序本以及重編校正本三種比較適宜。
版本爭論
合適的版本,有助於研究和反映喻仁(字本元)、喻傑(字本亨)的學術思想及學術成就,按此明版丁序本應該最能體現這一觀點。“丁序校注本”作者於船教授認為“汝顯堂梓本和大德松藏版丁序本為喻氏兄弟之原著”[19],並認為“現經查明丁賓作序的明本,是《元亨療馬集》的原本。原書分春、夏、秋、冬四卷,附《牛駝經》”[20]。而鄒介正研究員卻認為“現存的丁序本《元亨療馬集》為清代人重刻增補版,不是明版本”[21],理由有兩點:一是現存丁序本有《牛駝經》,《牛經》之前還有“已未有事金陵”後寫的“元亨療牛集序”;二是現存丁序本卷後有楊潮(字東源)、朱從璽字樣,據郭(懷西)注本自序“至康熙十九年庚申歲(1680),吾州醫獸楊東源翻刻,今乾隆四十年已未歲(1775)又復翻刻”等。筆者所藏的金陵汝顯堂梓丁序本,卷前有“新刻蘇本大清道光三十年增輯”字樣[22],故比較同意後一說法,即現存丁序本不是明刻本,而是清版增補本。
至於《元亨療馬集》丁序本和許序本是不是一部書的兩種不同版本,鄒介正研究員認為“明刊丁序的《元亨療馬集》與清李玉書的《牛馬駝經全集》 ,書名不同,內容不同……它們不是不同版本,而是內容有部分相同的兩部集刊式類書,是作者不同的兩部獸醫書”[23],隨後又補充說“後世人把《牛馬駝經全集》因市場需要而更名為《元亨療馬駝經全集》、《牛馬經(附駝經)》、《元亨療馬集(附牛駝經)》等等是不妥當的” ,並從五個方面加以論證。雖然如此,人們由於習慣因素仍然把它們作為一部書的兩種版本是可以理解的,就連丁序本本身也有幾種書名,如《元亨療馬牛經大全(附駝經)》 (道光三十年增輯、金陵汝顯堂梓本)[24],即使是許序本也有《新鐫元亨療馬集大全》(書業堂梓本)[25]、《元亨全圖療牛馬集大全》(善成堂梓本)等書名。
結 語
《元亨療馬集》是一部國內外流傳最廣最受人珍視的中國中獸醫學經典,自問世以來就被世界一些國家所重視,日本早在日本明歷二年(1656)就出版了《馬經大全》(中國國家圖書館有藏)[26]、1998年5月日本稱德館還復刻了中村七三氏匯集的包括《假名安驥集》、《司牧安驥集》、《元亨療馬集》三書的《馬醫版本研究》[27] [28],就是國內今天也還為畜牧獸醫尤其中獸醫工作者所推崇。選擇適宜的版本有助於更好地學習和研究這一巨著,掌握喻氏的學術思想及學術成就,從而有利於中國中獸醫學的進一步研究。筆者才疏識淺,不敢妄自尊大,只是希望有關科研院校、行政主管部門、學術團體進一步重視《元亨療馬集》研究,以期實現中獸醫學的振興高潮再次到來。
注 釋
[1]《元亨療馬集校注(丁賓序本)》(於船、郭光紀、鄭動才、李德福校注),北京農業大學出版社1990年12月,第一版,“前言”
[2]“農業古籍整理出版情況”(肖克之、李兆昆),《古今農業》1990年第一期,第169頁
[3]《元亨療馬集(附牛駝經)》(謝成俠、金重冶校勘),中華書局1957年2月,第一版
[4]《農業出版社圖書目錄(1958-1985)》(本社編),農業出版社1987年9月,第一版,第240頁
[5]《重編校正元亨療馬牛駝經全集》(中國農科院中獸醫研究所重編校正),農業出版社1963年1月,第一版
[6]《元亨療馬集許序註釋》(郭光紀、荊允正註釋),山東科技出版社1983年11月,第一版
[7] 《元亨療馬集選釋》(中國農科院中獸醫研究所主編),農業出版社1984年10月,第一版
[8]《元亨療馬集校注(丁賓序本)》,同[1]
[9]《新刻註釋馬牛駝經大全集》(安徽省農科院畜牧獸醫研究所整理),農業出版社(影印)1983年8月,第一版
[10]《新刻註釋馬牛駝經大全集》(許長樂校正),農業出版社(校正)1987年9月,第一版
[11]《新牛馬經》(金重冶著),農業出版社1965年5月,第三版
[12]“解放以來整理研究《元亨療馬集》的概況及其展望”(謝慧勝、王紅軍),《紀念元亨療馬集付梓380週年學術討論會論文彙編》(安徽省畜牧獸醫學會等編印、1988年5月),第11頁
[13]《元亨療馬集校注(丁賓序本)》,同[1]
[14]《重編校正元亨療馬牛駝經全集》,同[5],“校註說明”
[15]《元亨療馬集許序註釋》,同[6],“註釋說明”
[16]“喻氏兄弟和《元亨療馬集》”(於船),同[12],第1頁
[17]“元亨昆仲和《療馬集》”(鄒介正),同[12],第5頁
[18]《元亨療馬集校注(丁賓序本)》,同[1]
[19]“喻氏兄弟和《元亨療馬集》”(於船),同[12],第1頁
[20]《元亨療馬集校注(丁賓序本)》,同[1]
[21]“元亨昆仲和《療馬集》”(鄒介正),同[12],第6頁
[22]《元亨療馬牛經大全(後附駝經)》(大清道光三十年增輯、金陵汝顯堂梓本),存四川筠連縣畜牧局王成先生處
[23]“再論《元亨療馬集》”(鄒介正),《中國獸醫史》(1991年試刊號),第7頁
[24]《元亨療馬牛經大全(後附駝經)》,同[22]
[25]《元亨療馬集許序註釋》,同[15]
[26]《中國養馬史》(謝成俠著),農業出版社1991年5月,修訂版(科學出版社1959年4月初版),第42頁
[27]《馬醫版本研究》(中村七三匯集),日本稱德館1998年5月
[28]“《馬醫版本研究》介紹”(松尾信一),《日本獸醫史雜誌》(2000年專集),第55頁
致謝:中國農業大學於船教授、南京農業大學鄒介正研 究員、山東畜牧獸醫職業學院郭光紀副教授、台灣大學林仁壽教授、成都軍區後勤部軍事醫學研究所李克琛研究員、四川農業大學王天益教授、四川省動物防疫監督總站羅長榮研究員等提供資料。
2012年4月24日火曜日
ヤンソン博士の牛疫談
明治三十一年四月の「防長勧業会報」に掲載.次報は五月,次次報は八月で完となる.一山十三冊値二千円なりの塵本.牛の繁殖とあったから買い求めて,びっくりの掘り出しもの!岸浩師匠の資料集に防長勧業会報はあるが,この報文はないから・・・墓前に供えて手向けとしよう.合掌
2012年3月28日水曜日
2012年3月25日日曜日
大正七年山口県畜産概況
山口県畜産概況 大正七年十月二十五日山口県内務部寄贈
畜産の沿革概要
本県における産牛の起源は文献の徴すべきものなきを以て,詳に之れを知る事能はざれども,古来,豊浦・大津・阿武・大島(殊に平郡島)の諸郡にては産牛行われたるものの如く,紀元八百五十九年神功皇后三韓御征伐の当時既に豊浦郡豊西村蓋井島の東方に牧口と称し,牧牛行われたりと口碑に伝えらる.又,同郡宇賀村地方より産出する牛を一般に長門牛と称し,其名高かりしものの如く,紀元千三百九十六年の頃聖武天皇の御宇奈良東大寺を建立し賜いし時,長門牛をして其柱を牽かしめ賜いし事蹟あり.而して其牛には額に玉ありしを以て,額玉掻と称えられたりと『見聞集』に見ゆ.又桓武天皇延暦年間(紀元千四百五十年頃)豊浦郡西市村大字殿敷村より牛を貢ぎ,其地を牛見荘本郷と唱えられたりと云う(風土記).其後醍醐天皇の御宇(紀元千八百六十年の頃)全国を三十九牧と定められ,馬百十頭牛二十二頭を選抜貢献せしめられたる時には長門牛に宇養馬牧角島牛牧を設けられたりと長門国誌に見え,宇養は宇賀村,角島は角島村なりと.其他豊浦郡にて古来牛牧の地なりと想わしむる地名少からず.即ち肥中(中字と牛字と形相似たるを以て肥牛の肥中に転したものならん)特牛,小串(昔は古止伊と称え次に子牛に,遂に小串に転ぜしものならん),角島等の如し.而して現今神玉村に牛ケ迫と称する処りて,土地平坦棚壁の跡を存し,往時を偲ばしむ.又,阿武郡にありても『八江萩名所図絵』中に椿郷東分村龍蔵寺々傳と題し左の記事あるを見れば,同じく古来産牛の行われたるを思わしむ.
『龍蔵寺傳』
聖武天皇の御宇,天平年間南都大仏殿御創立の時,諸国に詔して牛車を進めらせ給う.夫が中にも長門阿武郡堀田の荘(今の萩)川島の郷より率出したる白牛は,他国の牛に勝りていか計りなる大木,大石というとも更に労るる事なく運送すること日毎に,暁より初めて黄昏にいたる.遂に牛飼の者も綱を放てりとぞ,都の貴賎言哢さざるはなかりけり.折節,陛下に聞こえければ叡感斜ならず.是,則ち大日如来の霊験なるべしとて,即褒賞として此牛に耕作の労を禁じ,且つ,牛飼には飼料の地また国守という号を下し賜りぬ.是より以降長門国中の牛には竹木にかぎらずよろずのものは負する事を止む.後略
又,大島郡にありては,古来平郡牛と称する牛を産し,続日本紀中にも小豆島に放つ所の官牛を長島に遷う云々とあり.長島とは今の熊毛郡上ノ関村にして,同島の隣接の地にして自然本島にも移入繁殖せられたるものならん.今猶此付近の島嶼中,牛島馬島等の名称あるは古来此等の島嶼にて牧牛牧馬の行われたるを想わしむ.又,大津郡にありても紀元二千二百九十一年の頃より向津具牛と称する牛を産し,寛永二年其の総数五百六十五頭なりしも,同年牛疫流行し,僅かに六頭を残したるの惨害を呈し,農耕上の差障を生じ,九州五島より牛十二頭を移入したるの事蹟あり.
旧藩時代にありては,保護奨励法として貧農救済の法として,資金を貸与し牛馬の飼養を薦めたる事あるも殊に見るべきものなく,只農家は農耕採肥を目的とし飼養せしものにして,特殊の改良進歩なかりしも,明治八年勧農局は下総国三里塚に牧場を設け海外より多数の牛馬を移入し,汎く全国に貸与せしを以て,本県も亦洋種[デボン種・短角種]牝牡八頭を借受け,之を県立栽培試験場内に繋養し一方,県内篤志家に貸与し,飼料として壱ケ年麦四斗づつを支給し繁殖せしめ,其産犢を配付貸与して在来牝牛に交配し,其改良を計れり.又,県費を以て島根県広島県下より種牡牛を購入し之れを貸与せり.然れども当時官民尚畜産に関する知識に乏しく,経営其当を得ざりしかば成績亦見るべきもの無く,明治二十年に至り是れを民間事業に移したり.明治二十六年に至り,繁牛奨励費下与例を定め島根ならびに広島県下より種牡牛を購入貸与し,又,牝牛の繁殖利用を促したり.明治二十九年種牡牛の購入を奨励し補助金を下付するに至り,三十七年具体的計画を定めて実行に着し,馳駆しはエーアシヤー種,ホルスタイン種,デヴオン種を以て改良する事となし,県立種畜育成所を設置し東北及び北海道より種牡牛となすに適するものを購入し,之れを同所に育成配付することとせしに,内国種牡牛暫次減少し外国種牛及び雑種牛の増加を来たし為に県下斯業の隆盛を見るに至り,或は団体或は個人にて種牛を遠く海外の原産地より輸入せるものあるに至れるの盛況を呈せり.其間或は仔畜の保存奨励費下付規則の制定或は産牛組合の設置,余乳利用の途を啓く為め製乳事業の開設を促す等,其の保護助長に努めたり.然るに明治四十一年以来一般経済界の不振は本業に対し少なからざる打撃を与え,牛価頓に暴落し畜産家の苦痛甚だしく,畜牛組合事業も一時頗る悲況に陥り為めに二三解散せるものを生じ,当業者も斯業に対し不安の念を抱けるに至り,一時甚敷沈痛の状を呈したるも近年漸次回復し,大正三年畜産奨励規定を設けて民有種牡牛の充実,牝牛の改良放牧地の設置,其他残乳利用の目的を以て行う製乳業の発達に資し爾来種牡牛の設置数頓に増加し,放牧地亦各地に設けられ穏健なる発達の気運に向い大正七年畜産奨励に関する訓令を発して畜産改良方針並びに其の実施要項を示し,今や各郡には法に依れる畜産組合設立を遂げ県区域畜産組合連合会成り,斯業の基礎愈々強固となるに至れり.
馬は往古の事は文献に徴すべきものなしと雖,旧藩時代に於いては藩馬生産の為産馬事業を奨励し殊に美祢郡は山野に富み産馬に適するを認め種牡馬には飼料として大豆を副え,之に同郡民に貸与し,種付所には藩吏を派遣して万般の監督をなさしめたる等其の保護奨励極めて篤く,種付所は美祢郡の外阿武・大津の二郡にも設置せられ当時美祢郡赤郷村を中心として各地に産馬行われ,強健にして優良なるものを産し,江戸地方に於いても・・・
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学而不思則罔