2018年7月17日火曜日

柳澤銀蔵

安政3年9月6日生まれ。父は越後長岡藩士。明治9年陸軍馬医生、19年三等獣医。26年ベルギー・フランスへ留学。29年帰朝、32年獣医学博士。陸軍獣医学校長、中央衛生会委員を経て盛岡高等農林学校教授に任ぜられる。夫人幸子は深谷氏の出とある。

2018年4月26日木曜日

御大典紀念全国馬匹博覧会秘話「いわしや騒動」

御大典紀念全国馬匹博覧会秘話「いわしや騒動」
帝都復興の景気に湧く昭和四年のこと、日本獸醫師會はつひに「日本獸醫師會々報」を刊行せり。
時の農林省畜産局長戸田保忠は七行の祝辞を寄せ・・・これはどうでも良い事で、肝心なのはこ
の会報の裏表紙なのである。

昭和五年版「覚醒的大カタログ」予約販売の広告である。本来なら無料で配るところを製版費用
が巨額になったため金二円を一円に割り引いて販売すると言うものである。来年のすごい出版物
を半額で予約販売とくれば詐欺商法の三拍子が完全に揃っている。この広告に騙されて全国から
どれほどの申し込みがあったことやら・・・昭和五年のカタログは六年になっても発行されず、騙さ
れたと知った被害者は続々と抗議の声を上げ始めた。その時困ったのが別のいわし屋で、一番大
手で信用のあるいわし屋暁雲堂は獣医関係雑誌に広告を打って『いわし屋○○獣医機械店は当
店とは全く関係がありませんし、人違いで、いわし屋○○獣医機械店はこれがために監督官庁
の・・・』と、名乗り出た。

広く業界の認識を仰ぐ
「いわしや暁雲堂」と「いわしや○○獣医機械店」とは、全然別個の存在にて営業上、血縁上何等
の関係なき事は、夙に業界に於いて認識される厳たる事実ながら、未だに混同され最近の「いわ
しや○○獣医器械店」の不都合乱脈につき、弊店に叱声を寄せられる向も多々有之、弊店の非常
に困惑遺憾と致すところにて、何卒混同なき様お伝へ御示達の程お願ひします。
一、・・・・・昭和六年一月カタログ発行と称して予約金一円也を集めながら・・・(獣疫調査所交友
会報第十四号所載広告参照)・・・満二ケ年を経過せる今日、未だ発行せず業界に対して詐称欺
瞞の不信、不実をなせる店。
二・・・・・再三、再四の欺瞞虚偽のため農林当局並に業界より指弾されし店。
三・・・・・店員の給料不払が数ヶ月に及ぶは元より、店員の貯金、掛金をも使ひ込みて弁償せず、
而かも店員を解職せる店。
四、・・・・・工場、製作所、同業問屋への支払が極度に渋滞して、制作、供給のボイコットに遭ふが
如きコンマ以下の店。
 是等が「いわしや○○器械店」の真正なる現況であります。斯くの如き「いわしや」斯くの如き没
落に瀕せる「いわしや」と、弊店「いわしや暁雲堂」を混同され不都合乱脈の叱声を弊店に寄せら
れる事は多大なる迷惑を感ずる次第にて、斯の如き「いわしや」と、いやしくも店主が市並に区の
公共団体及び町会の役員たる名誉職を奉じ豪快にして堅実、内地は元より、朝鮮、台湾、樺太、南
洋の植民地、満州国、北支那に至るまで、所謂日満経済ブロックの隅々にまで営業網を有する溌
溂、隆々たる弊店「いわしや暁雲堂」と近藤される事は甚しき困惑にて何卒各位に於かれても自衛
上よりそれぞれの店舗の内容状態、及店主の人格品位をよく検討され、認識されん事切望して止
みません。
営業種目 獣医機械
     医化学機械
     細菌学機械
     病理学機械
     衛生学機械
     養鶏用機械  東京市本郷区元町一丁目
            いわしや 暁雲堂   電話小石川(85)四三五三番
                             五六〇二番
                       振替口座東京一九七八八番
                       電略「イ」又ハ「イワ」

これが昭和七年の「応用獣医学雑誌」の裏表紙。驚いたことに怪しい商法はまだ続けられている。


昭和六年一月完成の豪華カタログ貴方だけの特別価格!半額!・・・・・そして昭和八年になると、こ
の業界から姿を消してしまう。南方に逃げたのやら、満州ゴロになったのやら・・・はたまた昔の従
業員に消されたのやら 


斯くて御大典紀年なんとやらの『受胎増進器』は中央獣医会の独占販売となったのである。




2018年4月24日火曜日

佐藤清明

「日本獣医師会々報」昭和四年の創刊号にツギのような広告がある。

これだけの人物でありながら非常に情報が少ない。「日本獣医学人名事典」では掲載未完者一覧の中にさえこの名前がない。偶々手許の天金「日本馬政史」や明治二十五年三月の「中央獣医会雑誌第四輯付録日本家畜売買法」を見て驚いた!高名な博士先生を凌ぐ超博学学士である。それもそのはず、この人物は駒場農学校最後の卒業生で同期が時重初熊に廣澤辯二、廣澤の回顧によれば同郷同窓の佐藤は学生の頃から先輩も一目置く程の博学博識。「日本馬政史」編纂の折には編纂主任で廣澤が輔佐、名だたる先輩諸博士はヒラの委員である。なお、この広告の次の頁は唐仁原氏が涎を流すような広告があるが、本題とは関係ないのでここには掲載しない。

2017年8月4日金曜日

牛病新書と流行牛病予防説

「牛病新書」は明治七年三月香雲閣蔵版で静岡・柏原学而訳、陸軍一等軍医正・正六位石川良信閲とある。訳者は十五代将軍慶喜の侍医の蘭学者。「流行牛病予防説」の著もあるところをみると明治初頭のシベリヤ沿岸牛疫流行の折に調査した大学東校の人物とは、まさにこれであろう。獣医学の歴史にはまだ登場した事のない書である。
「牛病新書」の内容について更に調査してみた。緒言で訳者は『一牛医学モ亦自ラ人間有用ノ一学ナリ然ルニ吾邦未タ其学ヲ講シ其術ニ習フ者アルヲ聞カス・・・蓋シ予固ヨリ牛医タラン事ヲ欲スル者ニ非ス・・・』と述べ、原本は1866年のオランダ獣医学校教頭プロプァーニューマンの家畜医書第六版とある。
注目すべきは『牛医』の名称である。明治始めのこの時期に職名としてあったのは『馬医』で、それ以外は『伯楽』か『馬喰』程度である。正式に獣医の名称が用いられるのは、明治十四年からで、免許制度の制定は明治十八年からである。
「流行牛病予防説」との関連もあるので巻ニの第五章『牛疫即チリュンデルペスト』にも目を通したが、太政官布告にあるような予防法は記載されていない。
獣医免許制度制定直後、日本の獣医学はドイツ式が主流となるために、蘭学のこの書も全く陽の当たらないものとなってしまったようである。

2017年7月22日土曜日

日本馬政史(一)の馬医・伯楽

「日本馬政史」は社団法人帝国競馬協会、昭和三年五月二十五日発行の不許複製の非売品の書物である。刊行の際の委員は陸軍中将小畑豊之助、陸軍少将石橋正人、獣医学博士新山荘輔、獣医学博士丹下謙吉、獣医学博士勝島仙之介、獣医学博士須藤義衛門、獣医学士広沢弁二、陸軍獣医監内村兵衛、陸軍省馬政課長騎兵大佐市瀬源助、法学士芝山雄三、農林省畜政課長木嶋駒蔵。史料の蒐集先は帝国大学文学部史料編纂掛、宮内省図書寮。宮内省主馬寮。内閣文庫。農科大学。農林省。陸軍省。東京偕行社。上野、日比谷図書館。小笠原伯爵邸。この他に、南部、仙台、津軽、九州関西方面に出張、各種馬所、種馬牧場、種馬育成所都道府県並びに各地産馬組合。
「日本馬政史第壹巻」は有史以前から安土桃山時代までの事が書かれているが、この中に橘猪弼の名は無い。個人名として登場する馬医・伯楽は「吾妻鏡」にある承久三年の友野右馬允遠久、
「兼山記」天正五年の伯楽・道家弥三郎、天正元年「療馬図説写本」の桑嶋新左衛門尉仲綱、「蓋囊抄」文安期の小河乗澄、肥後国平の仲国、安国、眼心である。

2017年7月16日日曜日

大正時代の獣医学雑誌「現代の獣医」

編集兼発行人は山崎英胤である。
現在の獣医師法は戦後占領軍司令部によって制定されたものである。その前の旧法「獣医師法」にも獣医師の名称があるので、この名称は何時から使われ始めたかを調べてみた。外国の制度を取り入れて明治十八年に免許規則が布告された時は『獣医』で、陸軍の馬医と従前の伯楽以外は、お雇い外国人教師も皆『獣医』であった。やがて、軍の馬医は陸軍獣医と名称を変更するが、法律上の職業名は民間と同じ『獣医』である。従って、大正期の獣医学雑誌を読むと、農学士、農学博士、獣医学士、陸軍一等獣医の名はあっても獣医師の名はどこにもない。大正期になって中等学校の中でも獣医養成が出来るようになると、地方獣医の技術は益々低下し、終には農民の評価は近世の伯楽以下になったと、現代の獣医には記されている。この能力低下の問題を解決するために新しい獣医師制度が作られるのが大正十五年四月六日の法律第五十三号である。

2017年7月13日木曜日

小澤温吉の馬医、伯楽、獣医

明治十八年の「大日本獣医会誌」創刊で『我邦維新前に於いては真性の獣医なく唯に伯楽及び馬医なる者ありて・・・陸軍省に於いては明治五年地方有力の馬医を徴して軍馬の衛生治療の事を司らしめ同七年に佛国陸軍獣医アンゴーを聘して獣医生徒を教育し内務省に於いては明治九年英国獣医ドクトル、マッケブライドを農商務省に於いては同十四年独国獣医ドクトル、ヤンソンを聘して前後数十名の生徒を養成して・・・・』と記している。小澤温吉は明治十二年陸軍馬医学舎の卒業で、同期は今泉六郎、黒瀬貞次、一柳直宰、柳沢銀蔵等々。
我国の獣医学の源流はフランス式軍馬医学に発するとする。従来の伯楽の技術は蹄鉄工の仕事であるとする。

2017年5月5日金曜日

平仲国とは

「日本馬政史」の徳川幕府の馬医の所に桑嶋流「伯楽病理口伝」の事が述べられて次のような系図が示されている。
九州肥後平仲国息安国ー伊勢国源道義息尚義ー越後国平盛頼ー備前国平義親ー奥州藤原心海入道息仲時、仲綱の母、息藤原仲綱ー桑嶋平六息藤原宗綱ー天下一桑嶋肥前掾藤原実綱ー桑嶋采女正藤原重綱
と同時に小河乗澄は「仮名安驥集」を、平仲国・安国・眼心は「仲国百問答」を著したとしている。これらの出典は「本朝武林原始」とするので、検索すると、享保八年の日夏四郎左衛門繁高「本朝武林原始」巻第五馬事之部馬医に『肥後国に平仲国といふ馬医の上手ありその子に安国眼心とて二人あり・・・』
 一方、白井「日本獣医学史」や山脇「日本帝国家畜伝染病予防史」、深谷「獣医の古説」では『肥後の硯山平仲国、桓武帝延暦の時入唐して大延に学び・・・』とする。

2016年12月27日火曜日

下小鯖皮番所跡
































下小鯖皮番所
山口に藩庁が移る以前は毛利藩の中心は萩で、萩から瀬戸内海に出る途は萩往還を通って佐々並から山口の上竪小路経由で石州街道に出、これを小郡の方向に少し下って鰐石橋を渡って勝坂の峠を越える道である。古い三田尻往還は現在自転車道として整備されているが、下小鯖の辺りでは新しい国道252号線と略並ぶ格好となっている。ここに一軒の建築機械のレンタル会社があるが、その直ぐ側に天保二年の大一揆発祥の地・皮番所の跡とする石碑がある。これはグーグルのストリートビューでも見る事ができる。この石碑の前に立って国道252線を見ると如何にもこれが三田尻往還であるような錯覚に陥るが実際の昔の途は石碑の向こうにある幅六尺ほどの小径である。
 この小径に立って天保二年のその時に想いを馳せる。御目付所の日記には「駕籠に乗った対州交易御用達石見屋嘉右衛門と召使の安五郎と荷駄一匹、さらに対州交易御用達中ノ関の上屋儀兵衛の一行は、七月廿六日晩方、山口小鯖の観音原と申す所を・・・」

この場所に皮番所を設けたのは三田尻港に行く抜荷の皮を見張るためであった事は明らかである。もし、逆に三田尻方面から萩に向かう皮荷があったとしても、それは藩の御用品であるから百姓風情が手出し出来るものではない。更にこの当時、この辺りで皮の処理が出来る者は下羽坂の垣の内の穢多のみで、彼らが萩に皮を送る場合は荷駄に載せて萩往還に向かうから三田尻とは逆の途になる。更に上納の皮を大阪送りにする場合は下羽坂から川船で小郡の東津に津出しをするのが最も便が良い方法である。

死牛馬買仲間について 大阪府大「社会科学論集」6.7


2016年6月12日日曜日

革工

増補訂正「工芸志料」は黒川真頼著で東洋文庫として現在でも販売されているが、ネット上では宮内省博物館蔵版・有隣堂明治二十一年十月再版のものが公開されている。この巻五が革工で、ここには昔、百済の工人が革工を伝え、聖武天皇の頃に革工が盛んになると共に、この頃に革工人以外に『諸獣ノ皮ヲ剥キ肉ヲ屠ル工人』が出てくるとしている。この工人が『恵止利』で後世に『恵多』と呼ばれるようになったともしている。更に武家社会の時代になる頃、皮を剥ぐ工人は卑しい者として別村落となり、これをエタと呼ぶようになったとしている。その後、徳川家康の時代になると皮剥工は一処に集められて平民とのまじわりを禁止され、長吏(越後の国ではブンジ・ジナコともいう)と称されるようになった・・・としている。正確には慶長五年の『牛馬犬の皮は剥皮工に非ざるよりは之を剥ぎて革と為すことを得ざらしむ』の令である。

2016年4月1日金曜日

菊池東水について

菊池東水 生・没年不明。名、武樹、久之進。一橋家の馬医で太子流。天保年間にオランダの馬医学を学び嘉永五年「解馬新書」を江戸尚古堂より発行。「解馬新書」の序に我が国の医馬の道は大国主命・少彦名命にはじまり、聖徳太子の時代に高句麗の僧・慧慈が橘猪弼に朝鮮半島の馬医術を伝えたと記している。

2016年1月30日土曜日

ゼンリンの地図から

一番古い昭和58(1983)年の地図では山口市吉敷下東の屠畜場は山口市屠畜場となっている。1987と1993年は山口県屠畜場、1995年が山口市食肉センターとなっている。

2016年1月24日日曜日

著者の捏造 一画多いと・・・

問に一画加え間とすると・・・

間の字の方が刻み憎い。この書の元になる中国本は寳善堂梓とのみあって著者名は無い。日本人による翻刻であるから中国音を記す必要はない。列挙される本屋の名から近世末から明治頃か?
一箇所のみの誤記なら書き込みミスで済むが、三箇所も続くと・・・


新刻針醫叅補馬經大全 4巻

著者

    • 馬, 師間 バ, シカン ma, shi jian

書誌事項

新刻針醫叅補馬經大全 4巻
馬師間編輯
河内屋喜兵衛 , 菱屋藤兵衛 : 永樂屋東四郎 , 吉野屋仁兵衛 , 和泉屋吉兵衞 : 須原屋新兵衛 : 岡村庄助 : 和泉屋金右衛門 : 岡田屋嘉七 : 山城屋佐兵衛 : 須原屋伊八 : 須原屋茂兵衞, [出版年不明]
タイトル別名
馬經大全
新刻叅補針醫馬經大全
新刻叅補馬経大全
叅補馬經大全
新刻針医参補馬経大全
タイトル読み
シンコク シンイ サンホ バキョウ タイゼン

大学図書館所蔵 件 / 1

2015年11月3日火曜日

馬経諺解

新聞広告に「馬経諺解」という気になる書名があったので早速に検索して見た。朝鮮本で日本にも幾人かの研究者がいるようである。但しこれらの研究者は殆ど文系の漢学系で、馬医学の関係者はいないようなので、これからしばらく調べて見る事にする。
まず、諺解。「諺解」とは「諺文」すなわちハングルによる漢字音注と朝鮮語訳を施すことで、ハン グルの公布(1446 年)直後から李朝の末期まで広く用いられた形式である。
次に三木栄著「朝鮮医学史疾病史」364Pの半島獣医学に「馬経抄集諺解」二巻、粛宗八年頃刊とあるから、この書は中国の「馬経」の一部をハングルで書いたものである事がわかる。更に三木栄によるとこの頃「新刻参補針医馬経大全」も訓錬都監小活字で刊行とあるから、半島でも「元亨療馬集」が刊行されていた事が分かる。京都大学蔵書の画像を見てみると、馬の画は日本の馬経大全や明刊の元亨療馬集とそっくりである。

2015年2月14日土曜日

元亭療馬集とは?


「古典籍展観入札会」大阪古典会に写真入りで掲載されていた。写真が小さいので正確なことはわからないが「医駝方」と「牛経大全」「元亨療馬集」の合冊に見える。刊年版元の記載がないが書体や図の具合から見て、清期の地方書房の手になるものであろう。学術資料としての価値は殆どなく、骨董品として値打のあるものでもない。「元享療馬」までの間違いは結構多いが、「元亭療馬集」になると流石に少なく、グーグルで検索しても僅かしかヒットしない。

2014年6月6日金曜日

平仲国と太子流の由来・日本馬政史より

平仲国と桑嶋流
「仮名安集」の成立は慶長九年1604年、「若狭国志」に因れば「仮名安驥集」は元雲州の産で京極家の招きで小浜に住す橋本道派・一閑和尚らの刊。平仲国は馬師皇の安驥集を代々伝え、藤原仲綱より道蝸-道派に伝うとある。
桑嶋家伝「伯楽病理口伝」元和六年1620年に本朝伯楽開起平仲国也とある。
桑島家の系図は
九州肥後平仲国息安国-伊勢国源道義息尚義-越後国平盛頼-備前国平義親-奥州藤原心海入道仲時-仲綱の母-息藤原仲綱-桑嶋平六息藤原宗綱-天下一桑嶋肥前掾(昔の国司三等官の名)藤原実綱-桑嶋采女正藤原重綱とある。
太子流は承応元年1652四月望日相伝「馬病療治書」一名「療馬元鑑集」の由来に『人王三十一代敏達天皇五世孫井手左大臣橘諸兄公末孫、山城国自水野里出、尾州知多郡小川村一色住人、水野下野守、末孫喜心より馬医道伝来、然る後宮崎勘右衛門伝受後鈴木五助伝当家為秘書』

いずれも十七世紀のことで、聖徳太子・厩戸皇子や遣唐使と結び付くものではない。この話は徳川幕府お抱えの馬医・桑嶋流の伝説に尾鰭が付いて広まったものとみえる。


2014年5月12日月曜日

平仲国・桑嶋流は馬師皇系、太子流は別系

平仲国と桑嶋流
「仮名安驥集」の成立は慶長九年1604年、「若狭国志」に因れば「仮名安驥集」は元雲州の産で京極家の招きで小浜に住す橋本道派・一閑和尚らの刊。平仲国は馬師皇の安驥集を代々伝え、藤原仲綱より道蝸-道派に伝うとある。
桑嶋家伝「伯楽病理口伝」元和六年1620年に本朝伯楽開起平仲国也とある。
桑島家の系図は
九州肥後平仲国息安国-伊勢国源道義息尚義-越後国平盛頼-備前国平義親-奥州藤原心海入道仲時-仲綱の母-息藤原仲綱-桑嶋平六息藤原宗綱-天下一桑嶋肥前掾(昔の国司三等官の名)藤原実綱-桑嶋采女正藤原重綱とある。

太子流は承応元年1652四月望日相伝「馬病療治書」一名「療馬元鑑集」の由来に『人王三十一代敏達天皇五世孫井手左大臣橘諸兄公末孫、山城国自水野里出、尾州知多郡小川村一色住人、水野下野守、末孫喜心より馬医道伝来、然る後宮崎勘右衛門伝受後鈴木五助伝当家為秘書』

いずれも「日本馬政史」より。九州の平氏とは壇ノ浦の合戦の落ち武者であろうか?
学而不思則罔