2014年4月13日日曜日

帯広畜産大学客員教授

现代中兽医学的奠基人——于船


    在今天这个隆重的聚会上,首先我想向与会来宾介绍一下于船教授的简历和所取得妁成就。于船,原名孙裕川,曾用名孙英。1924年11月出生于陕西省三原县,1946年毕业于陆军兽医学校大学部本科,随后任种马场一等技佐。1948年进入华北联大学习,同年被派到华北大学农学院任教,并担任兽医专修科主任和畜牧兽医教育工作站主任;1950年转入北京农业大学,历任讲师、副教授、教授、教研室主任、兽医系副主任,中国畜牧兽医学会副理事长、中国畜牧兽医学会申兽医学分会理事长、中国兽药典委员会副主任委员、农业部兽药评审委员会委员、中国兽医杂志主编、《中国农业百科全书·中兽医卷》编委会副主编及总论主编、北京市人民政府兽医顾问组组长、日本带广畜产大学客座教授等职。

   于船教授是我国著名的兽医学家和中兽医学家,在其长达半个多世纪的教学和科研中,一直致力于中兽医学的继承、发扬和提高,功绩卓著。早在上世纪40年代末,于船就以新中国第一代学术带头人的身份,擎起恢复和振兴申兽医事业的大旗,团结和荐举民间中兽医人员,搜集和总结中兽医诊疗经验,倡导和组建中兽医科研机构,创建中兽医学的中等、高等乃至研究生教育,取得了一大批成果,培养了一大批人才,是现代中兽医学的奠基人。

   于船教授一贯主张,继承和发扬我国兽医学遗产,必须发掘和整理有关古籍,并认真总结老中兽医的经验。为此,他整理、出版了《元亨疗马集》(丁序本)、《牛经切要》、《疗马集>、《串雅兽医方》等许多兽医古籍;创办和主编了《申兽医专题资料及研究报告》专刊,主持召开了“北京市中兽医座谈会”,为发掘中兽医古籍、总结和推广民间兽医经验做出了重要贡献。

   于船教授非常重视申兽医的教学工作。他率先在在大学开设了中兽医学课程,并创办了中兽医专业,使中兽医这一古老的学科走入了现代大学的殿堂。他始终认为,要搞好教学,就要有好的师资和好的教材。针对当时中兽医师资不足的情况,他多次举办中兽医培训班,培养了一大批申兽医师资人员;他主编了中国第一本大学本科教材《中兽医学》,以及中兽医专业教材《中兽医理论基础》和《中国兽医针灸学》等,为中兽医学教学工作做出了巨大贡献。几十年来,于船教授始终以满腔热忱和认真敬业的精神对待教学工作,他坚持教书育人的宗旨,注重学生德才的培养。数十年来,为国家培养了大批德才兼备的人才。于船教授是申兽医界最早具有硕士学位授予权的导师,共培养硕士研究生十四名,他们都在中兽医教学和科研方面发挥着重要作用。他还多次被邀请到日本、美国等国家讲学,促进了中兽医学在国外的传播,他的学生遍布海內外。

   于船教授在重视教学工作的同时也非常重视科研工作,并取得了一系列研究成果。早在上世纪六十年代,他就发现甲苯胺蓝有使高铁血红蛋白转化为氧合血红蛋白的作用,首先提出了用甲苯胺蓝诊疗猪亚硝酸盐中毒的方法。他一贯主张为了加速我国兽医科学特别是中兽医学的发展,必须坚定不移地走中西兽医结合的道路,用现代科学技术和方法研究、总结和提高中兽医学,为此他做了大量的研究工作。二十世纪七十年代.他率先把激光技术引应用到兽医针灸领域中,开创了激光技术在兽医领域应用的先河;他对动物经络与穴位的生物物理学特性进行了长期的深入研究,其研究成果一直在国內外居领先地位。在联合国大学分享传统技术项目(STT)中,他作为中国组成员主持了兽医针灸研究项目。于船教授在中兽医史研究方面造诣颇深,在深入研究的基础上,论证了动物阉割术和兽医针灸等技术起源或发明于我国。

   于船教授是中国畜牧兽医学会中兽医学分会的主要创始人之一,并长期担任该分会的理事长,为团结全国中兽医工作者,推动中兽医事业的发展做出了重要贡献。于船教授始终将中兽医视为毕生为之奋斗的事业,即使在他离休后年事已高,身体状况又不好的情况下,仍四处奔波,多次组织全国中兽医学术研讨会,为推动中兽医事业的发展而尽心尽力。他还曾长期担任中国兽医杂志主编,为办好杂志,宣传和普及兽医知识付出了巨大心血。

   于船教授博现厚积,达古通今,善于思考,勤于实践,敏于科研,巧于写作,笔耕不辍,著述颇丰。数十年来,他共发表论文160余篇,其中不乏在美国和日本杂志上发表者;他主编或参编书籍40多本,其中他主编的《中国兽医针灸学》先后被译成日文和英文,在国外发行,影响广泛。

   从事兽医教育事业50多年来,于船教授为中国兽医事业特别是中兽医事並的发展付出了艰苦的劳动,做出了巨大贡献。为表彰他的成就和贡献,1987年中国科协授予他“荣誉工作者”称号;1992年,国务院为了表彰他“为发展我国农业教育事业作的突出贡献”,发给特殊津贴;1996年农业部颁发“为中兽医事业做出成绩”荣誉证书。由于他在兽医科学方面的突出贡献,英国剑桥国际传记中心评选他为1992—1993年国际兽医名人并颁发证书;1996年他的事迹被编入《国际名人典》第24卷。他还先后获部级科技成果进步二等和三等奖各一项,校级科技进步奖及二等奖各一项,部级优秀教材奖二项,全国优秀图书二等奖和中国辞书三等奖各一项,省级学会优秀论文一等奖一项。

   于船教授是我国现代中兽医事业的奠基者,今天我们在这里召开“于船教授学术思想研讨会”,就是为了总结先生的学术思想并将其发扬光大,推动中兽医事业的进一步发展。今天还是于船先生迎来八十华诞的日子,在此,我代表动物医学院全体教职工和学生向先生表示衷心的祝贺,祝先生生日快乐,健康长寿。

*作者:汪明。北京市。100094,中国农业大学动物医学院。

                                                     2004年5月

2014年4月11日金曜日

橘猪弼

「日中文化交流史叢書(8)科学技術」1998年・大修館書店の『中日農業技術の交流』楊直民著・李旭光訳の 2獣医技術 に聖徳太子の侍従として名が出る。この記述の参考文献は『中獣医学史簡編』とあるから、出処は我が国の白井本か中村本の「日本獣医学史」辺で、ガセネタの捏造者は菊池東水か深谷馬医監である。案の定この記述は桓武天皇延暦二十三年の肥後の人・平仲国となるから極めて信頼出来る偽記述である。そうやって見るとこの論文には胡散臭い所が多々ある。『同牧安驥集』は『司牧安驥集』の悪意のない間違いであろうが、施翼亭持ち渡りの『元亨療馬集』から『馬経大全』の国師・馬師問の件は些か眉唾である。『中獣医学史簡編』の著者は元北京農学院の教授で国際的にも有名な方で、1995年のWVA横浜大会の懇親会では挨拶をした覚えがある。この時の発表は「為御褒美銀三枚被下置馬療書」、口述原稿を以下に添付する。




2014年1月8日水曜日

「日本農書全集」明日への環境賞受賞

2002年7月19日「週刊読書人」と一緒に送られて来た写真(銀塩写真)。当時、馬の療治の研究者はかなりの数に登ったが、牛や犬について研究する者はいなかった。

2013年11月18日月曜日

農文協からの書簡


三百円のスキャナーでも充分使える。ウインドウズ7では面倒な操作が必要だが「シンプルスキャン」ならクリックして開くだけ。

2013年11月13日水曜日

長吏法師考の張里ムマクスシと伯楽

 この記述は「日葡辞書」のYettaと同じである。バクロウには馬口労の字を充てている。
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2013年11月12日火曜日

中世賤民と諸芸能の研究

 第一部 虐げられた人々に「左経記」の河原人を引用している。













牛・馬のナイラの薬の新聞広告。この広告に記載された症状からするとナイラとは上部気道の炎症一般のようである。
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2013年11月11日月曜日

見島牛の肉

 やはり時間と手間をかけて肥育したものでないと肉の風味が良くない。普通の和牛や国産牛も輸入肉と同じレベルで生産されているので、安い輸入肉の方がはるかにお得である。なお、グルメ番組に登場する銘柄牛肉は特殊な方法で肥育された半分病気の牛のもので、見て楽しむだけのものである。
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2013年11月3日日曜日

明治二十五年第五師団軍馬診療録より

偶児謨と診断される症例がある。仏蘭西語のGourme、独逸語のDruse der Pferdeで腺疫のことである。馬の伝染病で原因は細菌。教科書と授業では習ったような記憶があるが、卒業後には予防接種以外に馬の診療を行った事は無い。昭和三十年頃までは農耕牛馬が居たが、耕うん機が急速に普及して姿を消した。直接の原因は自動車が普及して農村にまで入り込むようになると、自動車の音に驚いた牛馬の暴走事故が多発した事である。

2013年8月17日土曜日

斃牛馬の処理と白革師

斃牛馬の処理権は始めは村を単位に付与されたが、やがてこれは芝先株・草場株へと株化されていく。牛馬以外では鹿革を扱うのは白革師でこれは一般人であった。これ以外の革や犬猫の死体の取捌きは雪踏株が行ったとある。出典・岩波新書98「ある差別部落の歴史」

2013年7月24日水曜日

「家畜医範」有隣堂印二種

 

いずれも解剖学巻一の巻末にあるもの.朱印は山口農学校生徒・三好竹太郎所持のもの,紫印は羽淵某所持.前者は明治二十年前半の印刷で鮮明に刷られている.後者はおそらく大正に入ってからのもので,活字は磨り減り,子持ち枠も不鮮明になっている.しかし,二者を比較して見ると,版を組み替えた形跡がないから,ひとつの版木を長い間繰り返し使ったものであることが分かる.
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2013年7月3日水曜日

馬も治せない医者!

と呼ばれるのが右上の人物.アル中のドクターでも腕は立つ.

2013年6月17日月曜日

斃牛馬取扱法・皮手形・馬喰取締法・穢多・長吏について 「日本家畜売買法」より

文政二年九月の津軽藩「馬一件御締方被仰渡書」に『一.斃牛馬皮并角蹄之儀ハ其村庄屋申立ニヨリ其組代官ゟ送書之上皮方へ相納・・・』とその際の皮手形書式がある.納められた皮は穢多に払い下げ,尾は水嚢屋,蹄は鼈甲屋に払い下げるとある.
第四章牛馬商ノ起源・沿革では獣医ノ資格ヲモ多少兼有シタル者が『バクラウ』で馬喰もしくは博労と書く.合類節用集ニ博労ノ本字ハ伯楽,バクラウは伯楽の転訛,他に馬苦郎・馬工郎・馬口郎とも書く.
社会字彙ニ穢多ヲ長吏トイフハ張里ノ誤ナリ張里ハ馬胃ノ名穢多之ヲ兼ルヲ以テナリ・・・その後に浅草新町の弾左エ門の由緒書きがある.

2013年6月16日日曜日

佐藤清明と勝島仙之介


昭和三年帝国競馬協会刊行の「日本馬政史」より転載.佐藤陽次郎は当初編集顧問,後に佐藤清明に代わり編集主任となる.大友源九郎が輔佐。明治二十五年の「日本家畜売買法」にある記述の多くが「日本馬政史」にも見られる.佐藤陽次郎・大正七年「南部馬政史」は国立国会図書館デジタルコレクションに公開。

2013年6月15日土曜日

元亨兄弟肖像

1988年出版の「新刻注釈馬牛駝経大全集」掲載されていた.清代に刊行された版本から転載されたものであるから,想像の肖像である.

2013年3月25日月曜日

特牛皮

浮役として穢多に賦課.正保二年には百枚の特牛皮を『御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉右衛門ニ申付』ている.その後,宝暦四年『御世帯根積』では特牛皮八十七枚余は四十四枚現物納,他は一枚銀六匁の代銀納となっている.更に,文化年間になると現物納は二十九枚となる.

2013年1月20日日曜日

牛馬商の営業と免許規則

明治元年十一月牛馬売買業者に鑑札下付.願書差出し先は会計官御馬方.この時の文面は『馬喰』ではなく『牛馬売買渡世の者』
明治二年六月会計官,明治三年三月民部省,明治四年十二月大蔵省の達では『牛馬売買渡世の者』
明治七年七月司法省の指令では『牛馬売買営業ノ者』となる.

2013年1月3日木曜日

萩城下町絵図・中村源助屋敷

安政元年〜二年の萩城下町絵図の一部.馬医・中村源助の屋敷が記載された部分.真行寺の位置は現在と変わらない.

2012年12月6日木曜日

山口市の屠牛場・そのニ

昭和六年十一月八日「防長地名淵鑑」御薗生翁甫の四百十頁に『下羽坂椹野川岸(屠牛場附近)』とある.

2012年12月3日月曜日

山口市の屠牛場

「山口市史」に『山口市のと畜場,古く明治四年に個人が上羽坂に開設したことにはじまり,これをのちに市営としたもので,この他陶(スエ)地区にもあったが・・・』とある.と畜場の始まりは明治四年八月二十七日の大蔵省達第三十八号で,屠牛場を開設する者は地方官の許可を得て鑑札を掲げることとされている.明治初期,食肉衛生に関する官は,太政官,民部省,大蔵省,警視庁などである.
山口市営のと畜場は,吉敷下東移転の前は山口刑務所の近くであるから,「山口市史」の上羽坂の記述は誤りであろう.

2012年11月30日金曜日

伯楽と馬医


山口県布達書・牛疫関連


山口県布達書

明治八年十二月二十七日
田畑の肥に牛骨を試すべき事

明治九年三月三十一日
伝染牛撲殺する者,代価償還心得方の事

同年四月十二日
疫牛の徴あらば,最寄医師又は医学社へ診察依頼方の事

同年五月二十五日
岸本与十郎持牛,疫病に掛り斃るるにつき注意方の事

同年七月三日
牛疫撲殺取扱方心得の事

同年七月五日
牛病予防説頒布の事

明治初期は牛の病気も医師が扱っていた.

2012年11月19日月曜日

2012年11月17日土曜日

橘猪弼と平仲国


書名       編・著者     刊年     橘猪弼 平仲国 推古三年 延暦23
日本書紀     舎人親王    養老四年     ー   ー   ○    ー
日本後紀     勅撰      承和七年     ー   ー   ー    ○
桑嶋家伝     桑嶋実綱    元和六年     ー   ○   ー    ー
解馬新書     菊池東水    嘉永四年     ○   ー   ー    ー
陸軍獣医志叢   深谷周三    明治二十三年   ー   ○   ー    △
日本馬政史    帝国競馬会   昭和三年     ー   ー   ー    ー
獣医学発達史   江本修     昭和十四年    ○   ○   ○    ○
日本獣医学史   白井恒三郎   昭和十九年         同上
日本獣医師会雑誌 日本獣医師会  昭和三十六年        同上  
日本獣医学教育史 篠永紫門    昭和四十七年        同上
獣医学史     中村洋吉    1980年          同上
日本馬病史    松尾信一    平成十七年         同上

江本修の「獣医学発達史」は昭和十八年刊「日本農学発達史」にあり.稿は昭和十四年.これでは年号を記載し『勅を奉じて・・・』と記す.この頃白井恒三郎は獣医師会報の編集をやったり,東京帝国大学農学部家畜内科学教室・板垣四郎の助手となっている.江本修は元々は病理学者で獣医史学には興味がなかったから,出版にあたって白井紅白の知恵を拝借したものと思われる.

2012年11月15日木曜日

桃林子・牛科撮要

享保五年の「牛科撮要」に『摂陽の野人桃林子』梅林堂寿梓とある.桃林とは牛のこと.

桑嶋の系図

九州肥後平仲国息安国 ー 伊勢国源道着息尚義 ー 越前国平義親 ー 奥州藤原心海入道息仲時 ー 仲綱の母,息藤原仲綱 ー 桑嶋平六息藤原宗綱 ー 天下一桑嶋肥前掾藤原実綱 ー 桑嶋采女正藤原重綱
なお,桑嶋家伝・元和六年「伯楽病理口伝」に『本朝伯楽開基平仲国也』とあり.
出典 日本馬政史Ⅱ

2012年11月14日水曜日

江本修

明治十九年五月徳島県の生まれ.第三高等学校を経て明治四十四年東京帝国大学農科大学獣医学科卒業.卒後同大助手,大正五年講師,同七年助教授,大正十三年農学博士,昭和元年ドイツ留学,昭和九年東京帝国大学教授,昭和十一年日本獣医学会理事長,昭和十四年大日本獣医学会副会長・会誌編集長.昭和二十年九月二十日東京都で死去.専門は家畜病理解剖学.
「日本農学発達史」昭和十八年五月二十日発行農業図書刊行会の「獣医学発達史」には『昭和十四年八月三十日稿』とあるから,昭和十四年大日本獣医学会副会長・会誌編集長時代の著作である.
冒頭・五四三頁に『推古天皇三年高麗僧慧慈・・・侍臣橘猪弼・・・』『桓武天皇延暦二十三年肥後の人硯山左近将監平仲国勅を奉じて唐に入り・・・』とある.いずれも出典は明らかにされていない.

2012年11月8日木曜日

菊池西水・東水

菊池東水「解馬新書」序に『予が家,累代斃馬を解剖すること数多し』とある.嘉永四年に江戸で斃馬を解剖出来る身分は限られている.元徳川幕府馬医で明治の陸軍馬医監・深谷周三はこれを同僚とする.

2012年11月4日日曜日

橘猪弼


橘猪弼(たちばなのいひつ,たちばないのすけ)

 聖徳太子の伝説に『推古天皇三年595年高句麗僧恵慈来朝.橘猪弼に療馬の事を学ばせる』とある.伝説であるから出典は明らかでない.橘猪弼をインターネットで検索してみると,「獣医史のロマン」とある.このタイトルには些か心当たりがある.記憶を手繰りながら「日本獣医史学雑誌」を捲ると,昭和五十八年の第十七号の『研究ノート』にこれがあった.著者は日本獣医史学会の理事でお雇い外国人教師ヨハネスヤンソンの研究家である.この『研究ノート』は研究者の著したものであるから,出典を明らかにしている.参考文献は以下の通りである.
古事記 岩波書店版
日本書記(紀の誤り) 岩波書店版
伊沢凡人 稲羽の素兎 伝承の医学 古医学月報 1974 12月号
日本の歴史 中央公論社版
坂本太郎 聖徳太子 吉川弘文館版
江上波夫・森浩一対論 騎馬民族説
白井恒三郎 日本獣医学史 文栄堂
松尾信一 古文書にみるわが国畜産の歩み
篠永紫門 日本獣医学教育史
毎日新聞学芸欄
駒井和愛 考古学概説 世界社
 参考文献中,一次史料とするものは菊池東水著「解馬新書」の序文で,その他は一般書,文庫本や新聞のコラムで一次史料とはならない.因みに「日本書紀」巻第二十二推古天皇の件には,聖徳太子が高麗の僧慧慈に仏法を習ったとはあるが,橘猪弼の名前は何処にも登場しない.また,参考文献とする「白井日本獣医学史」「篠永日本獣医学教育史」の橘猪弼は出典・一次史料を明らかにしていない.従って,『研究ノート』の著者が橘猪弼の存在を明らかにする史料は菊池東水著「解馬新書」序文のみとなるが,著者はその書を参考文献に掲げていないし,文中で説明もしていない.また,「 白井日本獣医学史」は平仲国の件で述べたように「日本馬政史」に採用されなかった真偽の明らかでない史料を編纂したものである.
 手許の菊池東水著「解馬新書」は嘉永五年孟春 門人 越後長岡 長澤茂昭の書を村田金吾が安政二年の正月に書写したものであるが,嘉永四年十一月自序に『高麗僧慧慈来令侍臣橘猪弼学療馬・・・』と記している.
橘の姓は葛城王・橘諸兄の母 県犬飼三千代がたまわったもので,奈良時代七一〇年以降の事である.聖徳太子の出生は五七四年で活躍するのは六百年代の始め頃であるから,聖徳太子の時代には橘姓の人物が存在する可能性は少ない.
 

2012年10月26日金曜日

牛の骨の重さ

体重の14-15%.牡で十六貫,牝で十二貫くらい.肥料として運搬するには人夫二人若しくは馬一頭が必要になる.

2012年9月24日月曜日

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飛鳥時代

6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。
天皇支配を具現化するために律令の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。
  次いで六から七世紀に韓民族系の文化人・技術者が渡来し,(仏教の伝来は六世紀中頃.仏教の保護政策は六世紀末)大和政権の形と文化を作って行く事となる.家牛もこの頃に渡来して西日本で飼育されるようになる.
 
「聖徳太子伝歴」によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が乗ると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、3日を経て都へ帰還したとある。



奈良時代


8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
 律令国家における牛馬の管理は官の仕事で,その任務に従事する者の身分は官人と,官庁に所属する良民の品部と雑戸であった.当時の馬の用途は駅馬が殆どで軍馬は少なくなっている.

 大宝令における官馬の事は左右馬寮の所轄で馬寮の職員は権頭,権助,大允,小允,大属,小属,馬医,史生,騎士,馬部,使部,直丁,飼造部,馬甘(伴部)からなる.左右馬寮の品部・雑戸が飼戸の馬戸で穫丁と馬丁.駅には駅長と馬子,牧には牧場長,帳,牧子,馬寮馬部にはさらに馬部当番,飼丁,雑徭の者が充てられている.白丁の名も見られるが,白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指している.
 
 奈良時代の中期,律令制の動乱期・天平年間・聖武天皇は賤視差別から馬飼の姓を改め平民とする旨,詔を出している.当時の馬医は把笏の官で官位令では「馬医師」となっているが,この期に既に獣畜や畜産に関わる者は蔑視されていたことが分かる.こういった賤視差別に加えて平安時代初期に密教思想が伝来すると,さらに密教の不浄視差別が重なってくる.密教の興隆は平安時代の八世紀の末頃からで,それ以前の邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賤など、身分差別は存在したが、それは賤視(下へ見下す見方)であった。これに対し、平安時代だと言われる,死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンズー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。
 
 兵部省の馬は兵部司の所轄で宮内は内馬寮が担当した.

 厩牧令第三條に太政官に稟請する薬剤がある.薬剤は左馬寮式に毎期胡麻油一斗二升五合,犬山椒油猪脂三升二合五勺,硫黄一升六合,随時,葛大四斤,干薑小十斤とある.脂薬はいずれも瘡・傷の薬,胡麻油と猪脂は軟膏基材として創面の保護.犬山椒油には鎮痛と消炎作用がある.硫黄は殺菌と殺虫.内服薬の葛,干薑は健胃整腸消化の薬.馬の場合,多くの病が飼料の失宜によって生じるので,治療よりも予防を心がけている.以下に近世のものではあるが,木曽馬の「餌と飼い」を示した.

ねつひえないら薬也
一のさらし 中 一かきから 中
一白にしのから 大 一土りう 中 玄
一たいおう 中 一せんたいおう 中
一くしん 中 一       少まし
一しやこう 少 くこ 少
右九味を合
ないら薬事
一茯苓 一セン 一おもと 一セン
一やまもゝ 一セン 天南星 一セン
一鳥爪 三セン 
右五味酒にて用へし
右同薬
一こせう 一セン 一やまもゝ 二セン
一ふくりう 一セン 一かんざう 一セン
右四ミ酢にても用ゆ
へしと里
十二ないらのぬく薬
一黒竹 玄 一いのこつち
一烏爪 一蒲根
一逢根 一ふなはら
一 ぶくりう 一李の緑
一 松の緑 一にらの根
右何れも粉にして 但し
黒竹  入て濁酒味噌
塩入て一日に二度つゝ但し一度に
五  つゝかうべし

 
厩牧令第二十六條に『凡官馬牛死者各収皮脳角胆若得牛黄者別進』 また,斃馬の皮肉は官庁に納め売却して金納とある.この事から品部・雑戸の中には牛馬の解体に関わる者が居たことが明らかになる.


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牛黄考

牛黄の歴史
 牛黄は「律令」に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を収れ、若し牛黄を得ば別に進れ」と記されてい。中国では『神農本草経』に5世紀頃北インド大乗仏教の経典『金光明経』にもサンゴロカナスクリット語で牛黄の記載があるが,六世紀まで日本列島に牛はいないから,牛黄は仏教医学と共に我が国に伝来したものであろう。
 近世の寺島良安の『和漢三才図会』牛黄は明らかに牛の胆嚢結石で鮓莟ヘイサラバサラ鹿玉(ロクギョク)、狗宝(コウホウ)、馬(バボク)は他の種類の結石である.馬鹿は胆嚢が無いので胆石が出来ることはまず無い.狗宝 は石淋を患いとあって,記述の色からしてもこれは明らかにカルシュウム系の膀胱結石である.寺島良安の医学知識は病理解剖学の無い理論漢方医学の時代であるから,この様な誤りを生じるのもやむを得ない.ヘイサラバサラについては明治期の「農務顛末」に京都府からの問い合わせがあり,駒場農学校の須藤義衛門が馬糞石として詳細に解説している.古い文献を紐解けば,平安時代中期の貴族源経頼の『左経記(内外書籍株式会社刊「史料大成4」矢野太郎解説)には,長和五年正月二日丁未の記録に『河原人が斃れ牛を処理したところ,腹綿(ハラワタ)の中に黒玉があったのを,河原人が持ち去ったので,河原人を詮議して提出させると,まさしく牛黄であった.その大きさは玉子ほどで,色は黒色の貴重な牛黄であった』・・・とあり,この当時すでに牛の胆石が貴重な薬であることを明らかにしている.なお,この時の牛黄は玉子大と記録するから,これは胆嚢に出来た大きなビリルビン胆石で,普通に得られる小さな粒の牛黄や,胆管中の管牛黄(クダゴオウ)ではない.
 
牛黄とは?
 牛黄は牛の胆汁色素のビリルビンとビリベルビンが固まったもの(結石)である.本来液体の色素が固体に凝結するためには,核となるものが必要となる.核の殆どは肝臓に寄生する吸虫・肝蛭の卵である.肝蛭は肝臓や胆管に寄生する吸虫類で,成虫の産んだ虫卵は胆管・胆嚢を経て胆汁中に排泄される.従って,胆嚢中に出来る色素結石は1cm程の大きさで数が多くなる.左経記や和漢三才図会にあるような鶏卵大の大きさの結石となれば,その値は黄金以上のものと言われる.
 
漢方薬の牛黄のいわれ
 牛の胆汁色素が凝固したもので色がその磐余と考えやすいが,じっさいは褐色から黒に近い色調である.実は黄の由来は胆石を病む牛の症状から付けられたものである.牛が胆石症を病むと,痛みから吠えるようになり,末期に黄疸が出て目の粘膜が黄色に染まるものを黄の病と呼ぶと,多くの牛療治書に記されている.牛黄とは黄病の牛の胆中にあるもので,その色や形から付けられたものではない.牛の内臓中の結石の一般名称は玉(タマ)で,漢方薬の牛黄とは異なる物である.
牛の胆石症が黄の病なら,人の胆石症は癪である.俄の癪に印籠の熊の胆()を服ませて・・・実は有効成分はどちらも胆汁色素で,化学名はデスオキシコール酸とケノデオキシコール酸,現在では合成品がウルソ等の名前で局方の利胆剤として市販されている.

現在の漢方医学では牛黄は人参と並ぶ重要な薬物で,多くはオーストラリアからに輸入に頼っている.特に国産の牛黄は和牛黄と呼ばれて高価格で取引されたが,現在では使役牛の食肉化がなくなり,乳牛の肝蛭にも効果的な駆虫剤が出来て,天然の和牛黄は得難いものとなっている.
 



道路を使う運搬には馬借と車借があり,牛車は馬借の五倍の荷物米十俵を運べる.馬借には伝馬と中馬がある.中馬の一日の行程は二十から三十貫目の荷で八里.騎馬のみの移動なら,日に二十里ほど.運送馬の餌は,朝フスマ一升切り藁ザル半分,昼麦二升,夜大麦五升を煮て切り藁に混ぜ二度に与える.



乳牛院 

乳牛院は典薬寮に付属した機関の一つ。平安時代に設置された。別当が総監し乳師長上に統轄された品部の乳戸が乳牛の飼育、牛乳の採取を行って皇室に供御した。牛乳や醍醐は薬としても使われていた。
  • 別当
  • 乳師長上
  • 乳戸




2012年9月6日木曜日

馬喰の由来

建治元年,北条実時に献上の「名語記」に『河原の辺に住して牛馬を食するをゑたとなつく,如何』とあって,馬喰は馬を喰う者への蔑称であろう.肉食の穢れは仏教教義の六道の一つ,餓鬼道にある.馬喰は博労や伯楽とその語源を異にする.

2012年9月3日月曜日

馬喰とは?


馬喰と博労は別物
黒田三郎・信州木曽馬ものがたりに博労は博楽労動者との説がある.馬飼い,博労,伯楽は馬を食用にしないから,馬を喰う者とは別者であろう.このことは近世には馬を食べても穢れとされない身分が存在していたと考えられてならない.また,同書では馬のとむらいについても述べているが,馬の埋葬の最後は巡査が石油を撒いて食用にならないようにするとあり,実際に掘り起こして食べた者もあったとしている.仏教道の解釈からすると馬喰とは畜生か外道,天狗の類で人に非ざる者と考えられる.

2012年8月30日木曜日

2012年7月14日土曜日

屠者

図の説明には「穢多」が牛か馬のような大きな動物を解体しているところとある.図をよく見ると脚先の蹄の先端が割れているから牛である.屠者の手にする刃物は刃渡り八寸程度か?形からすると現在でも猟師が使う剣ナタ・山刀のようである.

防長勧業会報第五十二号 明治三十一年四月二十五日発行 ヤンソン博士の牛疫談


防長勧業会報第五十二号 明治三十一年四月二十五日発行
ヤンソン博士の牛疫談
本稿は博士が大阪府下に出張し牛疫に関して談話せられたるを筆記したるものなり畜産家の参考になるべき節多ければ号を逐い之を掲載することとなす
私は茲に牛疫の性質に就いて少しくお話し致します此牛疫と云う者は日本であっても欧羅巴であっても決して土地から湧出したり或は気候の為に発生する者でなくして必ず牛疫の病毒が牛から牛へと移るのである而して此牛疫の黴菌と云うものは如何なる法を以て見ても決して之はどう云うものであると云うことの見分けが出来ぬ虎列刺の黴菌とか或は肺結核の黴菌とかの如きは立派に之を研究し得たけれども牛疫の病毒に至っては今日まで如何なる方法を以て発見することが出来ぬ虎列刺の「コンマ」黴菌や結核の黴菌は今日の顕微鏡を以て立派に分かるけれども牛疫の病毒は今日の顕微鏡を以て如何なる形態を有するものであるかと云うことが分からぬ有名なる「コホ」先生は既に虎列刺でも肺結核の黴菌でも自ら発見せられたけれども牛疫の黴菌は未だ発見することが出来ぬ今は英吉利政府から嘱託を受けて阿非利加へ行って牛疫のことを研究しつつあるのです要するに今日の顕微鏡の装置は牛疫の病毒を発見するだけ充分に巧みには出来て居らない併しながら牛疫が分からぬと云うばかりでなくして猶家畜の中には最も恐ろしい鵞口瘡とか又は羊痘の如き疫病がある斯の如き病が一たび畜類に発したならば実に猖蕨を極めるものであるが夫れ等の病の黴菌も又牛疫と同じく発見が出来ないで居る何しろ形はあるに相違なければ若しも濾過法に縁り之を濾過して立派に発見することが出来たならば或は発見が出来るかも知れぬけれども未だ其の法とても発見が出来て居ない
牛疫と云う此位恐ろしい病気はない人間の病気であっても畜類の病気であっても此位伝染力の強い恐ろしい病気は世の中にない.此牛疫の黴菌は或は揮発になることもあるが多くは固定のものであって若しも之を立派に保存して置けば一年間位は生て居るものである又或る場合に於いては甚だ速やかに死んでしまって再び発生せぬことがある全体牛疫の黴菌は空気に触れしめすに居ったときには大変命が長い例之牛に与える食物或は人間の着物等に付いて居って空気に触れぬ場合には其病毒が長く生きて居る亦た一度牛疫が牛舎に発生して其牛舎の中の床とか壁とか天井とか牛の御具とかに病毒が附いて居ると長く其病毒が生きて居るので詰まり其所が消毒不充分であったら再び牛疫が発生すると云うことになって居る牛疫の病毒は如何にして全く消滅するものであるかと云えば第一に空気に触れしむる事空気に触れしむると病毒が弱くなる第二には高度の熱を与えること焼き殺すのです第三は冷却すること即ち氷点以下二十度位にする併しながら此の冷却することは余り功がない先ず速やかに病毒を消してしまうと思えば薬の力を用いるより外はない其薬は常に使うところの根魯児である根魯児は瓦斯体にもなるし容体にもなる又粉末にもなる,それから昇汞水石炭酸の溶液此の如き薬が皆牛疫の病毒を速やかに撲滅するだけの功能がある(未完)
之れより此牛疫は如何にして媒介されて他の牛に移るかと云うことが最も必要であるからそれをお話し致します先つ一番能く病毒を運搬するのは牛の糞或いは牛から出る所の乳汁其他吐いたところの唾又は生まの肉とか生皮と云う様なるものが病毒を運搬する好材料である其他反芻獣例えば羊とか又はそれから得たところのかわ肉が矢張り病毒を他へ移す媒介物となるそれから鹿や羚羊なども同じく媒介物である阿非利加で牛疫の病毒がどうしてそんなに,ひどくなるかと云えば阿非利加には羚羊が沢山居る其羚羊が牛疫に罹って居る牛の群に這入って遠方に逃げるから牛疫の病毒が遠方まで伝搬して来る夫れ故に独逸政府は阿非利加に在る独逸の植民地へ総て其地方の羚羊と云うものは悉く叩き殺してしまえと云うことを命令して,そう云う風にやって居る叉人間の着物履物が実に危険であって此着物から移ったと云うことがある和蘭ではでは乳を搾るのは皆女です女が皆乳を搾って居る丁度和蘭は独逸と国が接近して居るが或年和蘭に牛疫が流行したときに独逸の区域内に祭礼があった其和蘭から一人の女が来た為に其病毒を独逸へ持って来て牛疫が流行したと云うこともある次に叉た鼠や犬が牛疫の病毒を他へ移すことがある併しながら馬や豚の様なものは余り他へ移すことはないが鼠と云う奴は色々様々な病気を他へ移すために余程危険なもので旋毛虫と云う豚に大変恐ろしい寄生虫がある,そう云う虫は多分鼠が持って来るであろうと云う学者のである叉た「トリヒナ」と云う虫が人間には虎列刺の如き恐ろしい病気である其病気の発した原因を調べて見ると豚の肉を喰った為めで豚は大変に鼠を喰うことを好むとす其鼠に「トリヒナ」と云う虫があるから遂に此人間に移ったと云うことがある殊に面白いは此頃大変に流行する黒死病です彼の黒死病の流行するときには必ず其前に鼠が,そう云う病気に罹って居る是実に奇体で黒死病の流行を予知するだけの価値があると云うことが立派に新聞雑誌に出て居るこれに依て考えると或いは黒死病と云う恐ろしい病気は人間の身体に発生するものでなくして鼠の方から人間に移されるのかも知れぬ此鼠が牛疫の毒を牛に移すと云うことは例之一牛舎に在るところの牛が牛疫に罹って其牛舎の中は牛疫の毒一面になって居る其場所を鼠が歩けば足に付く其足で叉た,こちらの牛舎へ来て藁や草の上を歩く,すると藁や草に毒が着きましょう其藁を牛が喰う,それが為に牛疫が発する,こう云う順序に鼠が牛疫の媒介物となります叉鼠でなくして牛に食わす食物即ち藁や秣の様なるものが牛疫の毒を他へ移す媒介となることが屡々ある殊にこの藁や秣の様なもの牛疫の毒を大変遠方のところまで持て行ったと云う例が沢山ある或牛舎に牛疫があって其上に藁や秣が積であったところが下の方は充分に消毒したけれども上の方は藁や秣は其儘にして置て一年の内に再び其牛舎に牛を入れた其時に叉牛疫が発したと申しますが左すれば牛疫の毒が上の藁や秣に着いて居ったと云うことは明らかです之は誠に適切なる例である,それから牛舎におって牛に食物を喰わするところの桶などは消毒を充分に為ないために牛疫の再発したことが屡々ある
欧羅巴などでは鉄道の貨車に牛を入れて遠方へ送る其牛中に牛疫に罹ったものがあるときは其消毒を充分にしない為に遠方へ病毒を移して牛疫の発生したことが度々ある学説に據りますと此牛疫の毒が一旦空気中に這入って来ると,それより凡そ五間程の周囲には病毒が這入って居る若し風でも吹けば五十間位は,ずっと向うまで病毒が行くであろうと云うことです
先ず牛疫が牛の身体へ這入って来る塩梅は最初に病毒が鼻腔より肺臓へ這入る,それから血液の中に入り,それから,ずっと身体中総ての部分に広がって来る殊に此牛疫は身体を侵すのは多くは粘膜面が一番能く侵されるのが奇体である中にも小腸,口腔粘膜が最も能く侵される大概牛疫に感染して愈々発病する,その間は多くは一週間前後です
牛疫に罹って第一現れる所の症状は総ての熱性病の兆候にして食欲欠乏し反芻作用なくなってしまう第二は呼吸器に発する症状で咳が出るとか或いは叉呼吸が困難に成て来ると云う様なことで第三は消化器に於ける症状で初めは下痢はしないが次第に下痢して遂には赤痢の様になって来て其他外部即ち皮膚に発疹する様なことがある叉た腔の近傍にも,そう云う発疹が起こる然れども斯の如き症状は必ずしも牛疫の特徴と云う訳ではない他の熱性病或いは其他の病気にも,こう云う症状が起こる而して牛疫の特徴とすべきものは即ち口腔粘膜に於ける粘膜上皮の剥脱して来る特種の変状で,これが牛疫の一番の特徴と云うものである,そう云う症状は必ずある者であるけれども或る場合に於いては立派な牛疫であっても其症状のないときがある其無いときには死体解剖をして果たして牛疫で有るかないかと云う事を鑑定をしなければならぬそれでこれは牛疫で有るか無いか愈々分からぬと云うときには死体を解剖するより外に仕方は無い(未完)続きは獣医学・獣医術の歴史のPDF版でご覧ください.

2012年6月30日土曜日

萩藩給禄帳の馬医

御馬医安西流 生駒九郎衛門 御手廻組馬医安西流 吉松惣右衛門 御馬医橋本流 竹中弥一郎 御馬医安西流 宅野三郎兵衛 御馬医安西流 中村源助 御手廻組馬医安西流 村井源右衛門 遠近御馬乗八条流御馬医太子流安西流兼 山本湖十郎

2012年6月28日木曜日

續日本後紀


《卷十五承和十二年(八四五)五月乙卯【九】》○乙卯。山城國言。綴憙相樂兩郡境内。始自去三月上旬。虻蟲殊多。身赤首黒。大如蜜蜂。好咬牛馬。咬處即腫。相樂郡牛斃盡無餘。綴憙郡病死相尋。郡司百姓求之龜筮。就于佛神隨分祓攘。曾無止息。移染之氣于今北行者。令卜其由。綴憙郡樺井社及道路鬼更爲祟。即遣使祈謝之。兼賜治牛疫方并祭料物。

2012年6月11日月曜日

Yetta.

日葡辞書に
「ゑた」「ゑつた」は「長吏」に同じ.色々な仕事の中でも,死んだ馬や牛の皮を剥ぎ,その皮でさまざまの物を作るのを職とする身分の卑しい人々
とある.日葡辞書の出版は1604年であるから,この時にはゑたやちょうりの身分があった事が明らかになる.日葡辞書は日本語の音をローマ字で表記したもので,当時の日本語の音を知る手がかりが多く見られる.今日の音はケゥまたはケョゥでケフではない.

2012年5月7日月曜日

直腸検査のはじまり

「家畜医範」の産科学には直腸検査のことが記載されているから,西洋獣医学の導入と同時に始まったと思われる.これより前の東洋系の療馬書には結糞の治療に直腸に手を入れる図と説明があるが,直腸検査ではない.昔の牛の直腸検査は直検手袋がなかったから,手に臭いが残って大変でした.馬の直腸検査はやったことがありません.検査中に馬が暴れて命を落とした先輩が何人も居たようです.牛の直腸検査の目的は殆どが排卵日の確定と受胎の確認なので,人工授精術と深い関係があります.

2012年5月5日土曜日



清代版《元亨療馬集》現六安


這部獸醫學專著保存完整,傳世極少
字號     200806161050分   來源: 安徽商報  
  614日,我省一次偶然的鑒寶活動,讓一部珍藏在民間的獸醫學經典《元亨療馬集》重見天日!讓許多業界專家興奮不已的是,這部完整的木刻本古籍首次出現在該書的作者、世界獸醫鼻祖喻仁、喻傑兄弟的故鄉六安市,而且恰逢全國紀念《元亨療馬集》付梓400周年之際。昨日,該書的收藏者舒城農民張學念受邀參加中國獸醫歷史研討會。記者采訪發現,機緣巧合的背後是幾輩人保護這份文化遺產的艱辛和執著。
  鑒寶會上露真容
  為慶祝我國第三個文化遺產日,614日,在六安市開展的一次『鑒寶會』活動現場,許多民間收藏愛好者帶來自己的字畫、陶瓷、青銅器和一些雜件請專家鑒定。
  活動約半個小時後,一位農民模樣的中年男子揣一個鼓鼓黑色塑料袋,走到字畫鑒定臺前,小心翼翼地從塑料袋內拿出一疊線裝古書。書共四本已經發黃,由於保管較好,書都沒有缺損。鑒定員翻開其中一本的扉頁,『牛馬集』三個大字清晰可見,旁邊印著『六安州喻本(元、亨)著』、『療馬全集,春卷』等內容,全場一片嘩然。
  難道這就是傳說中的《元亨療馬集》?!現場很多人都知道,六安是世界獸醫鼻祖喻本元、喻本亨兄弟的故鄉,其標志就是兩人有一部獸醫學經典《元亨療馬集》傳世,但誰也沒有見到過原版。
  負責鑒定的省文物鑒定站文博專家張耕告訴記者,這部書可以確定是清朝木刻金陵汝顯堂《元亨療馬集》,書中明確標注『兩儀堂梓』本,保存相當完整。書是真的,但學術價值有待獸醫專家進一步考證。話音剛落,現場就有人願出高價購買,但被該書持有人拒絕。
  安徽農業大學動物科技學院副教授、中國中獸醫學會常務理事史江彬說,六安發現的這部書,對研究我國中獸醫發展有很重要意義,也是首次發現清代兩儀堂梓本《元亨療馬集》,這部書是人類歷史上第一部獸醫學百科全書。
  底本全國罕見
  六安市農委副主任段傳植介紹了關於這部書情況。他說,《元亨療馬集》為明朝六安人喻仁(字本元)、喻傑(字本亨)兄弟所著,是人類歷史上第一部獸醫學經典。1979年在六安縣發現了《新刻注釋馬牛駝經大全集》,系《元亨療馬集》的最早注釋本。該市上世紀90年代建設『元亨紀念館』時,曾搜集到《元亨療馬集》的手抄本,但已殘缺不全,這次發現的清代木刻印刷本十分完整,這樣的印刷底本除了中國國家圖書館、南京博物院以及相關高校有部分收藏外,在我國極為罕見,在該市還是首次發現,這對研究獸醫學發展史有著十分重要的意義。
  這部書是何時出現在六安市民間,為什麼會保存得如此完整,它與獸醫鼻祖有沒有直接聯系?記者采訪了該書的收藏者舒城縣山七鎮農民張學念。
  躲過破『四舊』劫難
  今年41歲的張學念是舒城縣山七鎮農民。張學念說,他收藏的這部《元亨療馬集》共有『春』『夏』『秋』『冬』四部,外加一部『療牛經』,目前都完好無損。6年前一位與他患難之交的好友將這部書贈送給他時,鄭重告訴他:『你要好好保存,有了這部書你這一輩子就有飯吃了。』張學念說,他明白好友這句話的意思,就是說這部書很有價值,如果學到其中的知識,可以成為一名出色的獸醫。
  張學念說,這位朋友是獸醫世家,在當地很有名,他的祖輩曾因為醫術高深受到六安州衙的賞識,靠的就是這部秘不示人的醫書。朋友告訴他,文革破四舊時,身為獸醫的父親為保護這部書,用牛皮將書包起來吊在家中的房梁上,纔躲過一劫,輪到他這一輩因為沒有再學獸醫,這部書沒派上用場,但他知道書有很高的價值。
  張學念開始並不了解這部書的真正價值,三年前他從報紙上看到這部書民間基本失傳的消息後,纔明白這是老祖宗留下的珍貴遺產。張學念說,他願意以適當的方式將這部書交給國家。
  張學念說,他家離六安毛坦廠鎮很近,據說毛坦廠就是獸醫鼻祖喻本元、喻本亨的老家,明清時期毛坦廠的養馬業十分興盛,至今還有『白馬尖』、『駐馬衝』、『走馬崗』等眾多與馬有關的地名。(方榮剛)


学而不思則罔