2010年12月25日土曜日

木活字『家畜医範』

農商務省蔵版.有隣堂発兌.和本.木活字版.我が国の獣医学教科書には二つの系統がある.一つは陸軍馬医・獣医学校系の教科書で,いま一つは内務省・駒場農学校系の教科書である.開拓使学校は内務省系である.
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2010年12月17日金曜日

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天然記念物にされた見島牛の実態について

参考文献
(1) 岸 浩 天然記念物見島牛の起原に関する研究、獣医畜産新報、
   六五二号、一二一六~一二二八頁 六五三号、一二五九~一二六
九頁(昭50)
(2) 金谷復五郎‥生物測定学上ヨリ見タル見島牛ノ体型二就イテ
日本畜産学会報、四巻四号、二〇〇~二一四頁(昭6)
(3) 木原靖博ら‥和牛の血液型に関する研究(第8報)見島牛の血
液型について、中国農業試験場報告B13、五七~六四頁(昭40)
(4) 三好 学‥理学博士渡瀬庄三郎君を想ふ、史蹟名勝天然記念物、
   四号、三七四~三八五頁(昭4)
(5) 斎藤 忠・小野忠準・見島総合学術調査報告、考古の部、
   三八七~四四五頁、山口県教育委員会(昭39)
(6)本橋平一郎 純粋和牛見島種ニ関スル研究、Ⅰ、見島ノ産牛、
   鳥取農学会報、二巻一号、八三~二一二頁(昭5)
(7) 三坂圭治 見島総合学術調査報告、歴史の部、三四五~三八五頁、
   山口県教育委員会(昭39)
(8) 明治廿七年県政事務功程・殖牛の条(山口県文書館所蔵)
(9) 増補島根県産牛馬沿革誌〔非売品〕 (大1)
師匠はこの論文を「山口県地方史研究」に投稿しておられた.見島牛は純粋和牛,朝鮮牛,天然記念物でもない『日本未改良在来牛』.岩根又重を調査中にこの論文を得た.

2010年12月13日月曜日

陸軍獣医團


























明治四十二年の春陸軍獣医團規則を制定せらる.団長は長岡外史陸軍中将.
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2010年12月11日土曜日

楊時喬と丁賓



楊時喬の「馬書」は版本としては明代には刊行されなかった.楊時喬は萬暦二十三年から二十六年まで南京太僕寺卿.丁賓は三十一年から三十三年まで.元になる書は元亨兄弟の集成した「療馬集」.「療馬集」は嘉靖二十六年に無序の坊刻本で刊行されて四庫に収蔵され,後に太僕寺卿の序文を付して官刻の書となる.元亨療馬を一読すれば誰でも理解出来る事であるが,元亨兄弟は自分で文献を蒐集し,治験を積み重ねて書を編纂している.御用学者や役人の権威とは関わりのない実学の世界の人間である.
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2010年12月8日水曜日

改正陸軍服制図例・馬医

明治八年十一月二十四日太政官布告第百七十四号・陸軍武官服制改正に伴い刊行された.当時はまだ陸軍馬医部であった.軍で必要とする動物は馬で,騎と駄の二種類があった.
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2010年12月7日火曜日

平仲國

桓武平氏には二流ある.高棟王が平氏の姓を名のるのは825年,高望王は889年である.最澄・空海らの入唐は804年の事であるから,遣唐使の一行に平仲國は加わる事は不可能である.肥後の人,硯山平仲國勅を奉じて・・・源頼朝公七歳の砌の髑髏や平清盛の尿瓶と同じ程度の作り話.斯様な噺は作った奴も悪いが,信じた者も悪い.

2010年11月20日土曜日

輸卒教程

輜重兵は駄馬又は車輌にて糧秣其他軍需品輸送の監視に任じる.輜重輸卒は駄馬又は輓馬を牽きて輸送の事に任ずる.定色は藍色.
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2010年11月17日水曜日

星製薬の家畜胃腸薬

星製薬は明治四十年に星一社長が創業,大正十二年の会社案内兼製品型録には「目下計画中・売薬」にホシ牛馬胃腸薬,ホシ犬猫胃腸薬,ホシ家畜リニメント,ホシ家禽はむし薬,家畜用ホシ外傷撒布薬がある.現在市販されているのは『新ホシ家畜胃腸薬』でその成分や効能は星製薬株式会社のホームページに掲載・公開されている.胃腸薬の成分は生薬の延命草と苦味薬に制酸剤で,牛馬,豚,羊山羊,犬猫に投与するとあるが,元来は馬の薬で,消化の生理が異なる反芻獣には効果が疑わしい.同様の薬(新中森獣医散)は犬にはそのまま投与出来たが,猫には苦味が強く投与出来なかった.猫には正露丸など他の動物の胃腸薬を与えてはならない.
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2010年11月16日火曜日

近所の馬頭観音




近所に馬頭観音が祀ってある.奉納の絵馬の図柄は駒繋ぎ.何時のものか不明であるが,この地区では河川改修の時に馬を用いたとされるから,その頃のものであろうか?農耕には牛馬ともに供せられるが,土木工事は力の強い馬に限るようである.開拓時代のリーバイストラウスのジーンズは二馬力でも破れないから立派なもの.この時の生地はデニム.デニムの語源はセルジュドニーム・ニームさんのセル織物.
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2010年11月9日火曜日

新山荘輔

従三位勲二等,宮中顧問官山口県士族.旧山口藩々士白根正一の三男.安政三年五月生まれ.明治十三年先代春太郎の長女と結婚,養子となる.同年駒場農学校卒業.明治二十一年宮内省主馬寮五等技師,のちに御料牧場長となる.

2010年10月8日金曜日

北斎漫画六編



北斎漫画六編にある馬繕いの図.七丁・八丁は蹄の繕い,八丁は毛繕いと焼き金.九丁は上顎を刺絡.伯楽は草履を履き,助手は裸足.服装にも差がある.
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2010年7月8日木曜日

吉武輝人

明治四年12月1日生まれ.明治二十五年山口県立農業学校卒業.正五位,勲六等,高等官三等.旧姓大賀.
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三好竹太郎

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2010年7月5日月曜日

「畔頭」はくろがしらと読む


以下の参考文献を基に著された伝説が社会評論社から出版されている.長州藩天保二年の大一揆をプロローグとし,この後の長州藩の身分制度の事やフィクションであろう小郡の屠場での男女の恋愛を絡ませた不思議な著作である.多くの地名のふりがな誤記はまだ許せるが,こともあろうに『畔頭』に「あぜがしら」と仮名をふるとは!.畔頭は「あぜあたま」と読んでもあやまりで,長州藩の歴史用語では「くろがしら」と呼ぶならわしになっている.
参考文献からも判るとおり,この著作は単なる伝説の一つに過ぎず,屠場の様子や屠牛の方法は,研究の史料としては扱えない.

『明治維新と賎民廃止令』 (上杉聴 解放出版社)
『松陰と女囚と明治維新』 (田中彰 NHKぶっくす)
『歴史誕生13』 (角川書店)
『幕末椎新期長州藩の政治構造』 (三宅紹宣 歴史科学叢書 校倉書房)
『日本近代史の逆説--幕末の精神-- (片岡啓治 日本評論社)
『奇兵隊日記 四』 (日本史籍協会叢書 東京大学出版会)


山口図書館並びに山口文書館所収の研究論文
「防長風土注進案と同和問題」 (山口文書館)
「維新団に見る長州藩民衆の郷土防衛意識」 (池田利彦)
「幕末長州藩の奇兵隊と部落民軍隊・兵農分離の原則と農町横非登用の形式」 (北川健)
「維新団の原像とその再生像・苗字なき兵団からのメッセージ」 (北川健)
「部落民軍団維新団の基本像」 (北川健)
「奇兵隊における積多軍こと部落民登用の意義」 (手島一雄)

『日本中世の非農業民と天皇』 (網野幸彦 岩波書店)
『異形の王権』 (網野善彦 平凡社)
『日本の聖と餞』 (野間宏、沖浦和光 人文書院)
『骨を噛む』 (上野英信 大和書房)
『高杉晋作と奇兵隊』 (田中彰 岩波書店)
『宗教の死活問題』 (曾我量深 弥生書房)
『松下村塾の人びと』 (ミネルヴァ書房)
『幕末思想集』 (鹿野政直編集 筑摩書房)

2010年6月27日日曜日

田部の吉冨家畜医院

現在は店の前の電柱は 撤去されているが家屋の造作はそのままである.敷石も元のままである.星製薬の看板,カフピリンの立看板,自家薬の看板は無い.替りに殺虫剤の看板が架けられている.手前の酒屋は現在も酒屋を営んでいる.「山口県薬剤師会沿革史」にも名前が出るから地方では大手の薬舗である.屋敷内には診療場があり,下関の軍馬を一手に診療していた.
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2010年5月14日金曜日

家畜伝染病・牛疫の防疫

写真の説明にある通り,明治二十四年の大阪での牛疫流行の際には時重初熊博士自ら出張して病性鑑定し,現場の指揮を執っている.この頃の駒場農学校の卒業生は我が国の畜産業の基礎を築くとともに,家畜衛生,乳肉食品衛生にと幅広く活躍している.当時,個別の診療が問題になる動物は軍馬のみで,軍馬の診療は陸軍馬医が担当したから,馬以外の家畜の事は全て獣医が受け持つ事となった.時重初熊博士は我が国最初の獣医学博士で,家畜病理学の祖,『家畜医範』の生理学を著している.明治期に牛疫で失った経済損失は略国家予算の一年分に相当する膨大なものであった.また,当時の家畜伝染病の防疫の原則は『疑わしきは処分』で,診断中に病毒が蔓延する事を非常に恐れている.
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2010年5月13日木曜日

家畜防疫官と家畜防疫員

家畜伝染病予防法に規定する事務に従事させるために農林水産省に家畜防疫官,都道府県に家畜防疫員を置く.これらは獣医師の中から任命する.これらは職務を執行する時は証票を携帯する.

2010年3月10日水曜日

近世の馬医の修行

現在手許に何冊かの馬医書がある.表紙の裏に長陽幕下村井句聴子と記名があるから,武家の馬医の教科書である.これらの馬医書を捲って見ると,どうやら,馬医の修行は馬書の筆写から行われたようである.最初が相馬,馬の外貌と飼育方法に関するするもので,簡単な生理学内容を含んでいる.しかし,近世の馬医は腑分けを行わず書物からの知識を学ぶから,内容は東洋医学的な陰陽五行論となる.当時,鍼灸経絡の説は既に伝来しているから,臓腑の名称の記載もなされているが,現在の解剖学的臓器名と異なるものである.ここ迄が初伝で,かつての四年制大学獣医師養成課程教育の,2年次に相当する部分と同じと考えられる.次年からは病理と診断術を学ぶようである.○○の臓腑の病の時の証とは・・・病名は東洋医学的症候名であるから,現在使われている病名と名前は同じでも概念は大きく異なっている.更にこれに加えて本草(薬学)を学んでいる.これまでが中伝で,四年制では三年次の課程に相当する.但し馬医には公衆衛生の知識は必要ないから,この関係の修行は全く無い.最後が療治術を学んで皆伝となるようである.馬医は武家の家職で,藩には流派の異なる馬医が複数居た.村井句聴子は他流派の馬医書も借りて書写しているから,修行の方法は流派によって少しは差がある程度でが概ね同じであったと想像される.療治の対象は藩主の騎馬であるが,その他上流武士の持ち馬も療治している.百姓の駄馬は療治の対象外で,民間の家畜は伯楽または村の医者が療治している.彼等は書物に依る学問はなく無学文盲の輩と伝えられているが,実は親方から馬医と同じ水準の座学を学び,更に腑分けを行って解剖・生理学を学ぶから,実際の学問的水準は,こちらの方が優っている.武家の馬医は馬の胆の腑の病を平気で診断するが,伯楽は牛馬の構造・生理を知った上で療治を行っている.なお,明治期の村医者の診療簿には牛や馬への投薬と藥代の集金がしばしば登場するから,人医も家畜の療治を行っていたようである.

2010年3月8日月曜日

伯楽の療治針と馬のわらじ

記録をもとに復元したもの.馬の針は現在でもトゲ抜きとして販売されている.名は針であるが,実際は槍鉋のミニチュア.わらじの材料は園芸用のラフィア.稲藁が一般的で,武士は茗荷の茎を使ったとも言われる.
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2010年1月22日金曜日

明和書籍目録
宝暦書籍目録
宝暦書籍目録
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寛文書籍目録
元禄書籍目録
元禄書籍目録
享保書籍目録
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2009年12月20日日曜日

明治十四年十二月山口県治医員の部

郡        別                                  獣医
            産婆
            薬舗
大島     0 13 2
玖珂 13 129 25
熊毛 8 1 11
津野 13 32 22
佐波 8 78 11
吉敷 11 21 16
厚狭 9 2 10
豊浦 7 2 4
美祢 12 4 12
大津 2 12 10
阿武 19 8 19
見島 0 0 0
赤間関 2 20 1
通計 104 322 143

2009年12月18日金曜日

毛利本藩の馬医

役職系統表では馬医は藩主の支配する『手廻頭』配下『奥番頭』支配『馬医』で『側医』と同格とされている.

2009年11月30日月曜日

馬喰語源考

馬喰語源考
 博労,馬九郎,馬口郎,馬郎は皆同じで牛馬の周旋を生業とする.本来は馬のみを扱うのが馬クロウで,牛を扱う者は仲間内では牛博労と呼んで区別する.牛博労は更に細分化し,色々な名称が付けられている.
 馬クロウと呼ぶ時に最初に考えるべき事は馬をバと呼ぶ事である.普通には馬の音はムマ・マ・メでバは漢音である.もし,これをマと読むならマクロウとなって競馬用語になってしまい,メクロウなら女衒となる.
 次はクラウである.一般には喰らうの文字を充てたが,喰らうの文字は家畜を扱う者が最も嫌う言葉で,是故に九郎,口郎・・・博労の語が作られた.もし,食べる事を意味するなら喰らうではなく動詞の喰らふとなる.この言葉はクロウトの略で,漢字で書くなら馬玄人から人を取れば良い.玄人とは物事に明るい人,反対が素人で,バクロウとは馬の事に特に通じている者を指す言葉である.ならば,牛の玄人は何と呼ぶか?バクロウ仲間はこれをウシバクロウと云う.無理に牛をゴと読むはご苦労様となる.
 駄馬とは荷を荷う馬で,ダバと呼ぶ.労賃が駄賃である.ダマ・ダメと読めばまるきり別のものになる.
 シロウトは素人と書く.類縁の言葉に青二才がある.この青は馬の毛色の青で,音はアヲでアオではない.青みがかった艶のある濃い灰色の二才駒.生意気盛りで素人の手には負えない.手練の馬玄人のみが扱える馬で,この馬がもしハミを外せば・・・日本語の中には動物に関する言葉が沢山隠されているようである.

2009年11月28日土曜日

斉民要術巻第六

養牛馬驢騾第五十六 相牛馬及諸病方法 巻六 七葉 治牛馬病疫気方 血馬患喉痺欲死方 治馬黒汗方 馬中熱方 治馬汗凌方 治馬疥方 治馬中水方 治馬中穀方
・・・この書は中国の家畜療治書の原型である.相畜より療治へと展開する.相畜とは家畜の解剖生理学的特質で,これを踏まえて家畜の疾病(疫)を診断し,療治を行う.疾患の場合は灸・鍼・烙,病気の時は薬を服する療治は,現在と異なる所はない.この期に馬は嘔吐出来ない動物,牛は反芻する動物を正しく理解して療治しているから,馬の胆嚢炎の診断をした近世の武士馬医よりは腕は確かである.斉民要術に関してはネット上に多くの情報があり,グーグルで簡単に検索が可能である.

2009年11月21日土曜日

建暦元年十一月十六日の記録

内裏で牛が絵所で死亡.十八日間は穢れているのに,光家が知らずに我が家に来て,わたしも穢れました.頭中将も又穢れに触れてカラカミの祀り,鎮魂の祀りが中止になるとの事.外出は夜半過ぎ.
絵所はゑどころ.疫病はえやみ.崇神記 毒気はアヤシキイキ.神武 疫のケガレのカレは彼.タソガレは彼.病む・やむ.やまふ やむ・病む・止む・已む・罹む 死ぬに同じ
寛喜の飢饉と疫病による大量死.疫病の人畜共通伝染病の可能性.人・牛ならパラミクソウイルスか?牛馬・人なら細菌性のものか?

2009年11月17日火曜日

第弐拾八号
獣医免許規則別冊ノ通制定シ明治十九年七月一日ヨリ施行ス
右奉 勅旨布告候事
                      太政大臣三條實美
明治十八年八月二十二日
                      農商務卿伯爵西郷従道
 これにより近代獣医学が始まり,近世の伯楽の牛馬医術が絶えた.勅命である.
御名御璽
                   完

 あとがき
 書きたる事の真偽は不明.記したる者は皆鬼籍に入りて,学ばんとすれども,答ふる者既に在らず.只々後日の為に記し置くものなり.
 長州学舎にて                 架夢茶庵記.
参考書  新村出編 「広辞苑」岩波書店 1993年
     「斉民要術」中華書局版 中華民国六十九年三版

2009年11月8日日曜日

馬の記録と出土馬具

仮序章

『三国志・魏志』東夷伝・倭人に曰く「その風俗は淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑緜を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」
『後漢書』東夷伝・倭にも「牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と.『政治要略』には「応神天皇の御世,百済進牛馬自此而後倭国有牛馬」と記す.尾張熱田の貝塚,鹿児島出水貝塚出土の馬歯骨は後世のもの也.縄文の馬は理化学的年代測定より中世のものと同定.
『記』上天斑駒.『神代紀』上天斑駒.『万葉』推古二十年 馬ならば日向の古摩.『神代紀』上 保食神・・・頂代為牛・馬云々.保食はうけもち,毛もののけと飯のけは同義.うかみたまのみことは食稲魂命.
『和漢三才図会』に牛馬の伝来は五三五年とある.仏教公伝前後の事になる.しかし,実際には五世紀の中期古墳(大阪府羽曳野市誉田丸山古墳)から馬具が出土しているから,馬の伝来はこの頃であろうと推察される.『好太王碑文』に三九一年倭軍百済と新羅を破るとあり,四〇〇年高句麗と交戦,新羅より敗退するから,この頃に朝鮮半島から持ち込まれたとするのが,最も合理的である.
この頃に持ち込まれた馬は和名が無いからそのままの韻と漢字を充てた.マとは支那語の馬である.『万葉集』では馬をマと詠んでいる.駒は小馬で愛らしき馬,ウマはムマ・m馬で大動物.この当時,倭の国に居た獣はゐのしし(猪)とかのしし(鹿)で,ししとは肉,食用の意である.
縄文期の馬の存在を否定したのは考古学者の松井章氏で理化学的年代測定により明らかにされた.実際に縄文期の動物形土製品で牛・馬の姿をしたものはこれまで出土した記録がない.古墳から出土する馬具についてはその様式から考古学的に編年されているが,製作年代は土器編年と約五十年のずれがある.出土馬骨については多くの発掘調査記録に報告されているが,これらの報告の殆どは土器編年方式で書かれているので注意が必要である.出土馬骨による馬体の推測は学問的方法に拠らずとも,伯楽の知識で十分に理解できるものである.
古墳時代の出土馬具には鉄製品がある.この外の鉄製品は剣や甲冑などの武具である.考古学の分野では鉄製品は錆びるので長く残らないと言われているが,真偽の程は明らかでない.実際の所は,鉄は大切で有益な金属であった為,何度も繰り返し再利用されて(現在も野鍛冶では行っている)消耗し尽くされたと考えられる.かつての獣医学には鍛鉄実習があって鍛冶の技術も学んだが,馬の衰退とともにこれらも消えてしまった.鍛鉄実習で学ぶ事は蹄鉄の事だけでなく,削蹄用の刃物や外科療治に用いる烙鉄も製造し,火の扱いを学ぶから,獣医学が受け持つ分野は極めて広い.

2009年11月6日金曜日

本潅順は本潅頂

長陽幕下・村井句聴子書写馬療治書に題箋書名「本潅順」がある.書の中の書名は「本潅頂」.言葉の由来は額に水を潅ぐ密教の儀式.合格証書のようなもの.馬と仏教は何の関係もなさそうに見えるが,『馬経大全』を持ち帰った僧は弘法太子こと空海.わが国密教の祖で漢土で印度僧に真言佛経を学んでいる.もう一箇所密教が伝わった所はチベット.ここでは馬は風の馬.谷から吹く風に乗って幸せを運ぶ.五色の旗のはためくタルチョーやルンタの世界.古墳時代に海を渡って来たモンゴル系の馬とは,まさにこのチベット密教の文化を持った馬だったのである.南船北馬,北の馬の療治術は司牧安驥集として古代仏教とともに大陸より伝わり,仮名安驥集として伝えられている.わが国に馬療治の事が伝わるのは三度で,最初が古墳時代,次が弘法太子の時,最後が近世の徳川吉宗の頃.明治は既に西洋の馬になっている.これらの事を確認するために本潅頂に記される病名を「日葡辞典」で調べて見た.全て記載がある.本潅頂の内容は近世以前に作られた事は明らかである.古墳時代の牛馬の療治については,わが国の書にはもはや記載が無い.後魏の「斉民要術」を紐解くのみである.

2009年11月4日水曜日

『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉

1603年 日本イエズス会刊 『日葡辞書』の家畜療治・皮革関連言葉
Yetta ゑった 色々な仕事の中でも死んだ馬や牛の皮を剥ぎ,その皮で様々な物を作るのを職とする身分の卑しい人々.Yeta 同じ
Yedo 穢土 穢れたる国 娑婆世界 現世
Cottoi 特牛去勢してない牡牛.または純血種の牛
Facro 伯労 百舌鳥
Bacro 博労 馬の仲買人,すなわち馬の売り買いにたずさわる人

●Facuracu 伯楽 家畜の病気をなおす人

Bocuguiu 牧牛 すなわちMaqino vxi
Bocudo 牧童 Vxicai varaua
Bocuji  牧士 牛やその他の家畜の牧人
Bocuyo  牧羊 羊飼うこと,または羊飼
Boguiu  牡牛 Cotoino Vxi
Cauaguinu 革衣
Cauago  皮籠 日本で作るある形の皮製の籠
Cauagoromo 皮衣
Cauaqiri 針灸療治の始め
Cauatabi 革単皮 革製のTabis
Cauaya 皮屋 帯皮製造人の家.Tabis 造りの家
Cauaya  皮屋 死んだ獣や牛の皮を剥いで皮籠を作ることを業とする人 Cauaranomono
Cauabacama 革袴
Itamegaua 撓皮 まだ鞣していない皮で毛はないが強くて固いもの.皮籠の皮など
Cauaranomono 河原の者 皮屋に同じ.死んだ獣の皮を剥ぐ者であり,また,癩病やみの者に対する監督権を持つ者
Guiu 牛馬 牛家 牛面 牛肉 牛頭 牛羊 Guiuに雄牝の区別なし
Qegare 穢れ 汚れ 不潔 穢れ,るる,れたは血と悪口の穢れ.穢し,す,いたは名を穢す.
Qe 普通の 日常のもの 複合語以外には用いられない.気は気配の気
Qetba 結馬 大便をし兼ぬる馬
Saumauaxi 猿回し
Sarunamexi 猿の鞣革
Chori 長吏 他の人が認めている頭.ゑった 河原の者の頭
Chaxen 茶筅 身分の記載なし.宮番・番太も.番はあり.

フランシスコ・シャヴィエルは1549年から日本で布教活動を開始.当時の宣教師には聴罪師と説教師があった.『日葡辞典』は宣教師の語学学習の為に1580年頃から長崎のセミナリオ,コレジオで編纂が始まり,1590年に発明された印刷術によって刊行された.1603年は徳川家康が征夷大将軍になった年で,中世と近世の境目の時である.

2009年10月8日木曜日

穢多身分廃止と勧業局

太政官布告明治四年三月十九日 従来斃牛馬有之節ハ穢多江相渡来候処,自今牛馬者勿論,外獣たりとも総而持主之もの勝手ニ所置可致事.


明治四年八月二十八日 穢多非人称非廃候条.自今身分職業共平民同様たるべき事.


明治四年十月二十六日 旧穢多・非人苗字許可


明治四年民部省伺書 民部省ヨリ,従来エタノ輩ヲ平民ニ伍セザルノ失当ナル儀ヲ弁官ニ呈シ先ツ穢多非人等ノ称ヲ廃シ,且ツ之ニ産業ヲ授ケンガ為勧業局ヲ東京大阪ノ両府ニ開設シ該民ヲ入局セシムルコト各二ヶ年間,外国人ヲシテ製革造靴ノ方法,牛酪.薫肉ノ製法等凡ソ世上必需ノ工業ヲ之レニ伝習セシメ兼ネテ貯金ノ方法ヲ設ケ,該民業ヲ卒エ貯金亦若干両ニ至ル者ハ平民籍ニ編入シ従前ノ課役ヲ免ジテ一般ノ課役ニ服セシメンコトヲ稟候ス.但シ工業ヲ伝習スルハ該民ニ限ラズ之ヲ請フ者ニハ入局セシムル也.

2009年9月3日木曜日

長州藩牛馬と雑戸の数

宰判名
       馬    穢多 戸   穢多 人   茶筌 戸   茶筌 人   宮番 戸   宮番 人
大島 3032 5 5 37 69 400

奥山代 2230 254

45 164
7
前山代 2138 259

23 92

上関 2845 110 32 131 93 467

熊毛 3275 330 291 1357 34 127

都濃 2119 441 254 1266


166
三田尻 812 3554 199 1033 1 4 9 34
徳地 2459 468 50 228



山口 1621 1861 115 481

19 77
小郡 781 3324 134 622

31 148
舟木 2504 2458 154 703

15 82
吉田 3546 1085 68 317

12 49
美祢 2309 1468 62 302

16 68
先大津 3709 390 20 93

13 49
前大津 2516 502 23 105 5 24 16 54
当島 2560 926 102 542

29 124
奥阿武 5111 1165 111 415 2 7 29 103
     計 43567






当島穢多猿曳

8 44



当島浜非人

41 208



2009年9月2日水曜日

ばくろう

ぱくろう 馬喰 牛馬商人で博労・馬九郎・馬口郎・馬郎みな同
じ。牛馬の売買についてはとかくの故障が多く、明和八年の[四冊
御書付]に「於在々牛馬売買又は負銀を定番相侯時、代銀不相済半
分三ケ壱も残置牛馬引渡、追テ可相調由日限等申談証文取得侯所、
日切二至り代銀不埒之時分、村牽と号夜中忍ひ入牛馬引帰侯、尤其
節其厩ェ何村ノ何右衛門か様之趣ニて引帰侯段張紙ニ書附置申之由
候へ共甚不謂儀候条、自今左様之儀於有之は盗人之沙汰被仰付候間
買主不埒侯ハゝ庄屋畔頭ェ可申達侯、然上ハ庄屋畔頭急度令沙汰、
代銀相済侯欺又ハ最前之牛馬差戻シ候救いつれ之道埒明可申侯、萬
一庄屋畔頭緩せ仕侯欺、片落沙汰於有之は庄屋畔頭重ク被相答候、
無緩可令沙汰侯事、付、代銀半分三分一にても受取、馬喰其外ェ牛
馬売渡侯分、其馬喰共ヨリ又別人工売払、代銀不残受取侯ても初発
之主へ納方不仕二村、初発之主前断之通張紙を以引帰侯分は買主甚
迷惑之事二候条、庄屋畔頭ヨリ早速令沙汰、牛馬買主工差返せ、中
買之者をは為見示之、牛馬引帰り侯者ヨリも猶又きひしく可被相咎
候事」とある。安永四年、馬喰の取締のため提札を交付し、馬喰は
口銭として売買双方から馬一疋につき本銀二匁、牛一疋につき同一
匁の口銭をとり、提札料として馬喰人別一か年三〇匁あてを上納
し、馬喰以外の牛馬売買の仲立を禁じた[後規要集]。併し百姓の
苦情によってこれをやめ、同八年以降は運上銀に当るものは郡配当
米の内から上納することに改められた[佐藤寛作手控]。 

2009年9月1日火曜日

              下羽坂村 一雑戸七拾四軒         垣之内 

 傳云、往古ハ十八軒にて今の西門前町のうしろ川邊に往居せしか、今に至りても其所を
 
固屋々敷と呼ひ御年貢地なるを垣ノ内の者持傳へ侯、慶長の比今の垣ノ内といふに居を 
 遷したるよし、その証左の如し  
 巳上
 今度於山口垣之内こ御断申屋敷併畠代四拾壱枚、巳来共こ御除被遣御公儀郷中
 夜廻役馳
走可仕所如件   慶長九年 三月三日      相嶋作右衛門書判
 此御書下之畠代とあるハ、御一紙除ニ田四反壱畝拾七歩高八石垣之内屋敷と有之分なる
 へし   
 又
 御両国長利皮屋役之儀山口垣之内吉左衛門ニ申付侯、   
 日向(毛利就隆)様 甲州(毛利秀元)様 美濃守(吉川廣正)様御領分之儀は相除、
 
 其外之分は御蔵入諸給領共ニ皮屋役中江右之吉左衛門より其沙汰可仕侯間、異儀有間敷
 
通其郡中諸村之庄屋中江可被申聞候、給領之庄屋江も旁より可被申渡候、恐々謹言
 
 正保弐年          (児玉元恒)
     三月七日     
   児 淡路
      諸郡 御所務代中
 御武具方御用の特牛皮素垣之内者より百枚充上納仕来候を故有て御両国長利中江割符仕

 
候事のよし其時の御調書と相見候、しかるに此地にかきりて長利と云ハすして垣の内と

 
唱へ来候、他郡長利の居所にハ平民と混し不申ため外側に四ふちの垣を結ひ廻し其内に

 
住居する故にも垣の内と唱るよしの説あれと、右の御書下の文面にてハ垣の内示地 

 
名とも相聞へ候、和名抄に戸とありて五畿内には垣外といへるより地名おのつから  
 
符合する故垣の内とるならんか、又御具足皮御紋付物他国御進物の小豆革草人等限
 ある御用をも被仰付、御除の地に住居すると云ひ、御国中にてハ彼等か類の中にても品 
 
よろしき簾も有之、商売につきて他国へ出入る時も往来御手形に垣の内の者とある抔
 
き故よしある事にや、前に出せる御書付ハ過し天保弐卯の年郷民風狂の如くに騒立、此
 
垣の内にも至りて破壊せし写のミ存れり

右の家数七拾四軒之内十八軒、古来より芝の上抔と称して村々へ手を分ちて夜廻りなとせ
 しより今に至りても本軒と呼ひ銘々受の村方を時々廻る事也、或説に芝持といへるは村々
 斃牛馬の時芝原抔へ拾るを支配せる故に斯唱ふるといへと、夜廻り馳走役の事抔考れは右
 の説信かたし、されと何をもて芝とよへる故事不詳、二季に米麦を貫又困究に及ふ等の時、
 其村方に扶助を乞ふ事ありて芝と唱ふるを寺院に比すれハ檀家に似たるもの欺


防長風土注進案は天保の末に作られたので,二年の大一揆の後である.この時,百姓勢は
三田尻の町・村役人,商人,穢多を打壊し,続いて山口へと向っている.山口では下羽坂
村の垣の内が打壊された.

2009年4月16日木曜日

屠畜検査 公衆衛生福祉技術告示 最高司令部公衆衛生福祉部

屠畜検査 公衆衛生福祉技術告示 最高司令部公衆衛生福祉部 一九四六年十二月

左記屠肉検査規則は日本に於る統一ある屠肉検査の実施を確立する目的を以て,公衆衛生官への教導のために好評されたものである.日本の厚生省は本検査法を採用し,之が適用を都道府県に指令すべきである.

第一節 執行機関の機構

屠肉検査は厚生省の屠肉検査部によって主管される.屠肉検査業務に従事する各常置職員は此の種業務に必要な資格を有してはじめて任命される.昇進は能力,態度及び勤務期間を基準として行われる.

1検査員呼称,任務,義務

A主任検査員.之等は各屠場に於る事務の監督と執務とを担当する検査員である.かかる検査員は部長に対し或は部長に任命された者に対して報告する.彼等は履歴で決定されると同時に職責に対する適合性により選択せられる.

B監督検査員.之等は部の職員の業務の指令指導,監督を担当する検査員で必要に応じて他の職責をも果たす.彼等は業家の必要に応じて割当てられ,主任検査員に報告する.

C巡回検査員.之等の職員は屠場を検査し,業務の遂行を指導し又屠肉検査を規定する法規並びに指令が正しく尊奉されているか否かを確かめる.彼等は監督検査員,主任検査員を含む部の職員と協議する.彼等は検査の統一と効果とを期せんがために主任検査員を指導する.彼等はその発見を意見を付して其の部の主任に報告する.

D獣医屠肉検査員.之等の地位に対する受験志願者はすべて獣医専門学校の卒業者でなければならない.獣医屠肉検査員は主任検査員の指揮の下に生体検査と死後検査を行い,各自の部門に於る衛生を強化し又其他の業務を遂行する.

2009年4月7日火曜日

準非人「猿飼」

準非人「猿飼」
高柳金芳著『江戸時代非人の生活』昭和五十一年十月四版雄山閣・東京
◎中世には既に非人が存在する。この身分は戦場における戦死者、屍馬の処理、武具、馬具、 竹細工、履物の手工業を業とする。
◎猿飼の伝説
 猿飼は達磨を職の祖とし、小山判官政氏に始まると云う。『紀伊国名所図会』によれば、 小山判官には二人の息子があり、長男政在には猿を譲り、次男に鷹を譲った。紀伊国那賀郡 山路荘栄谷村。猿飼は弾左衛門支配の穢多と非人の中間の身分。
 猿飼は弾左衛門支配の賎民であったが、髪はざんぎりでなく袴の着用を許され脇差を差 す者もあった。人別帳は弾左衛門支配。
◎家康と猿飼長太夫
 天正十八年(一五九〇)家康江戸入府の時、乗馬の足が痛む。『弾左衛門由緒書』には
一、寅(天正十八年)御入国御時、御馬足痛沓摺皮被仰付、御馬為御祈祷猿引御尋之上、私先祖支配之猿引召連能出、御祈祷仕候処病馬快気仕候。依之為御褒美鳥目頂戴仕候とあり。 
◎天保十四年・阿部正信『駿国雑志』には猿飼頭・滝口長太夫が家康のお召にあずかったのは天正十一年駿府在城の頃とする。猿飼の守護勝先神(日吉山王)の呪を唱え之れを祈 祷し病馬三頭平癒。以来、年々銭四貫五百文と猿の餌豆一俵を賜わり、正月、五月、九月、十二月の各三日に御厩の祈祷を命ぜらる。

2009年4月2日木曜日

部民

日本列島中央部を支配下に置く政権が成立して行く時期は、騎馬の術は征服者の重要な支えとなった。律令国家の成立以後も支配組織にはウマによる駅伝の制度が不可欠で あった。国家の飼育した動物は、ウマ、タカ、ブタ、イヌ、ウシで、猪飼・犬養の部民はブタ・ イヌの飼育を担当した職掌である。ウマとウシは牧で飼育されていた。国家の飼育する動物は社会の上層部に所有され、飼育担当者は動物への優越感を持つと同時に憐愍の情をも生 んだ。また、狩猟は君主の大権となった。
◎氏姓制度の部民。農民や技術者は氏姓制度の政治体制では地方の豪族である国造、県主稲置、伴造の配下となる。品部とは職能部民。中央の有力な臣は平群・葛城・蘇我、連は大伴・物部・中臣。
氏姓制度の身分・地位は世襲されたが、官僚制度の位階は一代限りであった。冠位十二階は大化の改新後位階を増し大宝律令の完成時には三十階となった。氏姓の制度は685年に八色の姓となった。やくさのかばね

仏教の伝来 538年あるいは552年とされている。六から七世紀の渡来人は韓民族の王族や 文化人に技術者が中心である。五経博士、司馬達等、易・暦・医博士等で飛鳥文化の形成に 貢献した。

我が国最初の諜報機関は馬飼部

我が国最初の諜報機関は馬飼部 
 日本書紀の第十七巻、継体天皇元年の条に河内馬飼首荒籠 (かわちうまかいのおびとあらこ) と云う人物が出てくる。 彼は北河内の樟葉の辺りの淀川の河川敷に開いた牧場で馬を飼うことを生業とし、馬飼部と呼ばれていた部族の首長である。 この馬飼部が、組織的な諜報機関としては、おそらく、我が国最初のものではなかったろうかと思われるのである。

 時は今から千五百年も前、六世紀初頭の事。 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。

 男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。 彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。 そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。 そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。 男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

 しかし、真実は、このような平和的なものではなかったと多くの研究者は考えている。 大和に覇権を確立していた応神王朝も、中興の大王雄略の没後は混乱と紛争が相次ぎ、 地方には群雄が割拠して末期的状況であった。 各地の豪族たちは風を望んで中原 (ちゅうげん) に進出して大王位を簒奪 (さんだつ) せんものと野望を膨らませた。 丹波の倭彦もその一人であり、越前近江の男大迹もその一人であった。 また、筑紫の王なる磐井もその一人であった。 最初に大和への進出を図った倭彦王は激戦の末に大伴金村の軍に敗れたが、 男大迹は二十年にもわたる長い長い戦いの後に大和に入り、遂に前王朝を滅ぼして、新たな王朝を開いた、 と云うのが真実に近いと考えられている。

 そして、河内馬飼首荒籠も単に男大迹の王の諮問に答えたと云うだけのものではなく、 男大迹の王の諜報機関の役割を担ったものと見られている。

 彼はこの間にあって、越前にある男大迹に逐一詳細な情報を提供した。 大和における混乱の状況、丹波勢と大伴金村の戦闘の状況、その戦いにおける金村軍の損耗状況、 それらの情報を越前に運び、今こそ立つべき好機であることを彼は男大迹に告げた。 いよいよ軍を起こすに及ぶと、その道案内の役を担い、我が一族の居住地なる楠葉に至るや、 そこを総司令部の場所として提供したのである。 男大迹大王が継体天皇として即位したのも、この楠葉の総司令部においてであった。

 河内馬飼首荒籠、彼はどうして情報機関の役割を担うことができたのか。 それは馬飼という生業によるものに他ならない。 当時、淀川の河川敷や河内潟に浮かぶ大小の島々には、馬の飼育を行う牧場が多数散在していた。 荒籠を首長とする楠葉牧も、そうした牧の一つであった。 馬は四世紀末頃から応神王朝と共に畿内に現れる。 馬飼たちは応神王朝において大王家に所属した下級の部民であり馬飼部 (うまかいべ) と呼ばれた。 彼らは飼育した馬を大王家に貢納し、それが大王家より貴族たちに下賜される。 その時、その馬の馭者もまた馬飼部のところから派遣される。 上流階級の人たちは乗用車を自分で運転するのではなく、お抱えの運転手に運転させる。 自動車より以前の馬車も、お抱えの馭者が馭するものであった。 これらと同様に、古代における馬も貴人は自ら馭すのでなく、馬の口取は馬飼部から派遣された男たちが行う。 彼らはあちこちの貴人のもとへ派遣され、それぞれに貴人たちに近い所で近侍する。 そして、彼らが耳にした情報は自ずから馬飼部の首長の所へ集まってくる。 これが馬飼部が情報機関たりえた理由の一つであると私は考えるのである。

 もう一つの理由は、彼らがその馬を用いて行った遠隔地間の交易によるものと考えられる。 彼らは大王家に貢納した残りの馬を、諸国の貴族たちに直接に売却して利益を得ることも行ったであろうが、 それと共に、それらの馬を荷物の運搬にも利用したであろう。 彼らは諸国の産品を大和の海石榴市 (つばいち) や河内の餌香市 (えがのいち) に運び、 また、それらの市 (いち) で仕入れた品を遠い諸国へ運んで、その間で利益を得た。 そうした馬飼たちは行先の国々で、その土地の情報を耳にし、 それらの情報はまた、自ずから彼らの首長の下に集まってくる。

 男大迹の大王は、彼らが持っている情報機関としての機能の重要性を、いち早く認識して、 彼らと厚い誼 (よしみ) を通じていたのである。 単に、知り合いだったとか、付き合いがあったとか云うものではない。 それと云うのも、当時彼らは社会的に 「下賤の者」 であった。 継体紀には 「貴賤を論ずるなかれ」 と云う継体自身の言葉が出てくるし、 履中紀には馬飼たちには入墨が施されていたことが記している。 古来、動物の飼育を業とする者は卑しい者とされていたし、 さらに、士農工商の語の示すように商人はもっとも低い階級であった。 彼らはこれら二重の意味において下賤であった。 彼らは社会的に差別されていた。 男大迹はその情報性において敢えて彼らを厚遇したのである。 そこに、私は、彼男大迹大王の持つ先進性と凄さを思う。 そして、荒籠 (あらこ) たちが男大迹のために献身したのも 「宜 (むべ) なる哉 (かな) 」 と思うのである。 

2009年3月29日日曜日

百姓の顔

百姓の顔 「被差別部落の民話・田中龍雄著 明石書店発行」
 むかし、飛騨国の人手の多い部落では、不作の年がかさなるたびに、代官所から戒められて、浄場めぐりをくりかえしたと。
 しきたり破る飼い主を、そのままにして見逃がせば浄場、村場の守りできぬ。
 そのうえ部落うちのぞうよもいるで、斃馬の届けを腕こまねいて待つよりも、戒めどおりに浄場をめぐり、村のようすを見届けようとな。
 そのつど人手をかき集め、目を光らせて乗りこんだとよ。
 行く先ざきの村役へ仲間の使いを走らせて、浄場めぐりの先ぶれしてな。ほかの仲間が手分けして、馬を飼っとる百姓家の庭さきから声をかけたり、人を見るとや聞きこみをして、馬の所在をたしかめたがな。
不作つづきの百姓家では,ません棒を立てかけたまま、寝藁一本見つか                          らぬほど、ねぶったように片づけた厩はかりが目立ったと。
 およそ飢饉とよばれる年は、その年だけが飢饉でのうて、まえまえからの不作がたたり、毎年根こそぎ年貢をとられ、隠して貯めた喰いもんが日ごと日ごとに減るおりに、一旦雪でもつもるとな。
 人の往き来が絶えてまい、喰いもん探しの場がせまくなり、まず病人や年よりがひだる腹かかえて弱ってまって、一日ごとにやせ衰えたと。
 地中の虫や木の皮や、草の根、木の根を煮て喰って、はては枕の蕎がらさえも腹のたしじゃと口に入れたと。
 喰えぬもんでも喰うすべを知っとる者が生き残り、喰えるもんでも喰うすべを知らんもんが死んでまったでな。
 ましてや、どこぞの飼い馬が倒れてまった、と聞いたがさいご。
 ひだる腹かかえた百姓たちが目の色かえて我れ先に、よってたかって切りきざみ、奪いあいして引きちぎり、それぞれ抱えて隠してまって、猪,熊なみに喰ってまい、皮も残さぬ始末じゃったと。
 どこそこで馬が喰われて皮がない、なんぞとな。人づてに噂を聞いた仲間のうちに
 「おのれの斃馬に手をかけながら、口をぬぐってわしらをば皮剥者とは身勝手じゃぞ」
 と、いきまく者もおったがな。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に、身分や定めはその余のことじゃ。わしらが飼っとる席ならば、焼いて喰おうと煮て喰おうと、勝手じゃろうが、と村うちで開きなおればそれっきりでな。代官所でもしまいには、見て見んふりをしとったと。
 飢饉が過ぎてもとうぶんは斃馬の届けが絶えてまい、部落の者が声あげて浄場の権限ふりかざしても、煙の上がらぬ始末じゃったと。
 飛騨国うちの部落では、維新いぜんにそれぞれが浄場、村場を手放すと、受ける部落がないままに、雇われ百姓や山仕事に精をだしたでな。
 不作や飢饉がないおりに、斃馬の始末に手こずった百姓たちは是非もない.
人がやること、ひとつこと。その身になれはなんでもやるて。
 浄場めぐりをそのままに、斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。
 美濃国では村々へ、馬を勝手に屠るな、と庄屋の強い達しがあってな。触れも不服な代官所では、やがて領内の馬持ち一統を庄屋ともども呼びつけて、かさねて強い戒めようじゃと。
 そのころ馬持ち百姓は、怪我や病いで切迫の馬を馬医者に診せもせず、部落の者にも知らせんでな。組内ぐるみで吊り出して、薮や林へ運びこみ、その場でつぶして皮剥いで、肉は田や畑のこやしじゃと、こまかく刻んで分けあったとよ。
 頭や骨は埋めてまったが、生皮ばかりは慾欠いて、部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。
 たびかさなるで庄屋から、つづけて部落へ達しがあって、皮にかかわる百姓をその場できっと取り押さえよ。隠しだては同罪で、訴人の者には銭をくれると、慾で釣ったがな。
 百姓がおのれの馬をどう片づけようが、わしらは痛くも痒くもないぞ.皮だけ貰えば渡世ができる。手間がはぶけてありがたや、とな。訴人までする仲間はおらなんだと。
 浄場めぐりの仲間らが林の道を抜けたらば、百姓たちがかたまって馬の始末をしとったで、つい物珍らしさに近づいて
 「ごくろうさまじゃ」
 と、仕分けの仕ぶりをまじまじと眺めとったらな。
皮を剥いどる百姓たちが、つくなったまま手を止めて、白眼ばかりで見上げたと。
 それも気にせんと眺めとったら、なんのことない百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がないで、やたらと刃物で掻き回し、皮を削ぐやら、穴あけるやら、声も立てんと馬一頭を、てんでばらば引き散らかしといて
 「いつまで覗いとるっ、去れと言うのが聞えんかっ」
 と、わめくでな。
 「その生皮を引き取るが、せっかく一枚の大皮に穴やら傷やらつけてまい、もったいないことするもんじゃ」と溜息ついたら
「皮は後ほど届けてやるで、ごたく並べず立ち去らんかいっ」
 と、血のりのついた包丁で向こうの道を指しといて、
「こやしつくりの邪魔するなっ」
と言わんでもよいことほざいたでな。
日ごろ馬持ち百姓が、切迫の馬をつぶして喰って、こやしにしたと誰はばからず、百姓なりの顔をしてな。部落の者を賤しめるのがごう腹じゃったで、ここぞとばかり
「なんのこやしじゃ」
 「田畑のこやしじゃ」
 「馬の肉を一口ほどに切り刻み、味噌のころ煮で喰ってまい、糞たれたのがこやしかや。いかにも念の入れようじゃ」
 と、言いだくれてやったがな。
 斃馬をかこんだ百姓たちは、立ち上がるどころかつくなったまま、肩の間に首たれて、まるっきり顔がなかったと。



解説と考察

①浄場、村場の守り: 斃馬の取得権限が及ぶ範囲を浄場・村場と呼んでいる.芝などと同義語.明治以前は斃馬の取得は穢多の権限とされていた.生馬の斡旋を行う者は馬喰労,牛馬の療治を行う者は伯楽,士分の持ち馬を療治する者は馬医者である.
②浄場をめぐり: 穢多による浄場の点検
斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。黒田三郎著『信州木曽馬ものがたり』昭和52年 信濃路発行の「馬のとむらい」
に同様の記載がある.馬をかつぐのには最低でも8人の男手が必要である.人力運搬は一人あたり25-30kg.小型の牛馬なら何とか人力で運べる.車力で運ぶ方法も考えられるが,重量と大きさ,道路の状況から無理と判断される.
③切迫の馬を馬医者: 外科・内科疾患で死に瀕している事を切迫と呼んでいるが,切迫の用語自体は明治期・西洋獣医学導入後のもので,近世の牛馬療治書にはこの用語は無い.
生皮ばかりは慾欠いて、生皮は穢多にとって最も重要な取得物.武具となる皮革を上貢する事で斃牛馬の無料取得権が保障されていた.『部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。』は,商品として斃牛馬が流通しはじめた事を示している.
④仕分けの仕ぶり: 解剖の様子.解剖だけなら腑分けとなるが,食用が目的であるから仕分けと呼んだのであろう.素人の技であるから当然稚拙である.『百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がない』と,玄人は良く観察している.百姓達は自分の持ち馬・牛を食用に屠殺している.

殿さんの馬

被差別部落の民話・殿さんの馬
 むかし、大垣の殿さんの馬が倒れてな。早や切迫のありさまじゃったと。
 城下町からうまやへ通う馬医者もおったが、なんせ親代々の引き継ぎで、治療といえばただ一つ、親が伝えた耳学問が頼りでな。たとえふわけを望んでも、斃馬は残らず部落へ運んでまうで、五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者がおったとよ。
 うまや番の小者が庄屋と連れだって部落へ来てな。城の重役さまの御意向で、お馬の病いを治すため、治療に手だれな者たちに馬医者の手伝いをさせるよう、身分は問わぬのお指図じやったと。
 ならばと部落の長老が、三つの部落と寄り合って、名指しで選んだ十人を、城のうまやへ差し向けたがな。面目つぶした馬医者が、 
「重役さまも物好きじゃ.田んぼのかかしを見るような」
 と、姿みるなりどぷついたとよ。
 うまやの番人が
「馬医者どのの御診断で、お馬は胆の患いじゃ」
と教えてくれたんで、部落の者が顔見合わせたと。この世の中の生きもので、胆のないものは馬と鹿。たらぬからこそ馬鹿じゃと言うに、無いものを患う馬があろうかと、いまさらながらあきれたと。 火急のさいじゃ遠慮は無用と、役人にせきたてられた一同が馬のぐあいをとっくり見たと。
 この馬は間違いもなく食滞じゃ。あてがう飼い葉が多すぎて、日ごろの調教が不足ゆえ、消化ぐあいがにぶいまま、腸がつまって熱まいて、押えてみても腫れとるぞ。こりや糞づまりの気もあるで、このさいいつもの荒療治、屁をさすまでが勝負じゃが、生きるか死ぬかは馬の運、今夜ひと夜さ皆んなして、賭けてみようとうなずいたとよ。
 にきで聞き耳たてとった馬医者がまたぞろいきり立ち
「不浄者のぶんざいで、こんどは治療に手をだす気かっ」と、血相かえてつめ寄ったが、うまや役人に押し止められたと。
 まず、大釜に湯をわかせ、さらし三反、座布団三枚、綱三本、唐辛子三合、筒一本じゃと注文したれば、馬医者どころか役人までのけぞるほどに驚いたとよ.
 倒れた馬をとり囲み、手桶に汲んだ湯の中へ、唐辛子三合ほりこんで、持参の草の実ひと握り両手でもんで掻きまわしたが、これが部落のロづたえじゃと。
 筒先きを喉もと深く差し入れると、喉の呼吸と調子をあわせ、三つ四つ五つと一升五合、馬の胃の腑へ流しこんだと。
 うまやの梁に綱三本を掛けおろし、腹と脇腹に座布団三枚あてがって、上から綱を引き廻し、ひの、ふの、みい、で綱引いて、倒れた馬を引き起したとよ。
「うぬらっ、お馬を殺す気かっ」
 と馬医者がわめいたが、こちらもいまは命がけ、返事無用と綱引いて、馬のひづめがすれすれに地につくほどにつり上げたと。 さらしの布を手ごろに裂くと、釜で煮たてた湯につけて、馬の体をあたためながら、背から腹へと揉みほぐしてや繰りかえし、腹に巻いとる座布団へ、手桶でたっぷり湯をかけたので、うまやに湯気がたちこめて、馬が
脂汁をたらたら流し、まるで湯治場にみえたとよ。湯をわかす者、馬の体をさする者、綱の加減をはかる者、湯気もうもうのうまやのなかで、部落の仲間が声かけあって、身も世もなしの荒療治をつづけたと。
 夜がしらじらと明けるころ、仲間のひとりが声あげて「やあ、聞こえるぞ、聞こえるぞ」と、馬の腹に耳あてがって叫けんだと。さては、と一同が耳すませたら、奥のほうから、ごろ、ごろ、湯気をたてとる馬の腹が鳴ったとよ。腹が鳴ったらしめたもの、いま一息と続けると、こんどは、ぐい、ぐい、ごろ、ごろ、と長鳴りしたぞと言う間もおかず、うまやのはめ板が割れんばかりの屁が出たと。 
「馬が屁をした」「屁が馬をした」とな。
運ぶ手桶を投げだして、どっとばかりに駆けよった部落の仲間が口々に
 「やった、やったっ」 と小おどりしたと。綱引き役がゆっくりと綱をゆるめて降ろしたらば、馬が四っ足ふんばって,おのれの力で立ったとよ。
もう安心じゃ、濡れた寝藁を替えるでなと、うまやの外へ引きだせば、治療の騒ぎを聞きつけて屋敷うちからぞろぞろとさむらい衆が寄ってきたと。 
  昨日にかわる馬の姿を一目みて「さすが名医じゃ」「馬医者どのは大垣藩のほまれじゃぞ」と、口々に誉めそやしたらな。前へでてきた馬医者が、にわかにぐっと胸を張り、さて、おもむろに馬の手綱を握ったと。
土下座しとった部落の者が、歯ぎしりをして立ちあがり、何か言おうとしたらばな。一緒におった長老が
 「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」
 と、肩をおさえてなだめたと。
 そのおり馬が首ふって馬医者の手綱をふりほどき、夜も引き明けの風のなか、鼻ふるわせて高々と二度も三度もいなないたとよ。

解説と考察
城下町からうまやへ通う馬医者は腑分け(解剖)の経験が無いから,五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者である.従って殿様の御馬は胆嚢が無いのに『お馬は胆の患い』となる.話の中にあるように馬と鹿には胆嚢が無いから,馬医の診断は明らかに誤診である.一方,被差別部落出身の治療に手だれな者たちは,不浄者が故に腑分けの経験もあり,一見して馬は食滞,腸がつまって熱が出た糞詰まりの状態で,馬が伏して病む程危険な切迫した状態である事を見抜いている.
唐辛子三合の唐辛子は番椒.太閤秀吉の時に朝鮮より種を取来るとされる.漢方で薬として用いられるのは明代から.薬味は辛,薬性は温.煎剤には殺菌作用がある.持参の草の実ひと握りとは,おそらく牽牛子,アサガオの種であろう.牽牛子は民間・百姓の薬で大小便の不通に著効がある.薬味は苦,薬性は寒.この処方の内服と,吊り馬にしてのマッサージ・温浴の治療法は極めて理にかなっている.
てだれな者達の荒療治が功を奏して,馬は治癒するが,手柄の部分は『さすが名医・馬医者どのは大垣藩のほまれ』と馬医者に持ち逃げされてしまう.
一緒におった長老の「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」の言は,牛馬の療治に携わる者の心意気を良く表し,その言葉に反応した馬の様は,馬の方が馬医者よりも賢い生き物である事を語り伝えている.  

天狗の足あと

天狗の足あと 

 むかし、美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたりじやったとよ。
 なんせ斃馬の皮だけ目につけとったで、丈夫で生きとる馬や牛を、わざわざ落とすなんぞ、ほってもなかったでな、役人は部落に斃馬だけを始末させといて取締ったとよ。
 馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせて、双方におのれ勝手な真似をさせんなんだと。
 斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送ったが、やがて皮革の値がつり上るにつれて、おのれの欲が先きに立ってな。斃馬が出たと、いち早く聞きでかした部落のもんが勝手に駆けつけ、百姓もまた村方にかくれて取り引きしたで、これを部落ではさんしょの拾い得、首姓は捨て得と呼んだとよ。
 拾い得に役人の咎めがないと見定めると、部落の金持ちは人手を使って、大びらに村々の斃馬さがしに目を配ったが、そのうち、岐阜あたりの部落に、佐吉という目はしのきくじんがおってな、拾い得の人足に使われとったと。
 世間は昨今、天狗党の噂でひっくり返えっとってな、やれ、昨日は行列が高富村へ向けて芥見村から長良川を押し渡ったが、なかに白髪あたまの婆さがおって、これが巧みに馬をのりこなし、天狗党を指図して川越えさせたげな、なぞと噂を聞くたんびに、天狗党よりも婆さが乗った馬に気をひかれたとよ。
 戦する気で行列組んで諸国を押し渡るからは、乗る馬、引く馬も連れとるで、これから先の道中で、かならず斃馬が出るじゃろとな。もうけ話に連れはいらん、斃馬はぜんぶ拾い得とばかり、たった一人で天狗党の後を追ったと.
 根尾村の道をあっちこっちと目を配って念入りに探しまわって歩いたが,まずは冬枯れの尾根道に猫の仔一匹落ちとらなんだと.
 たどりついた根尾村は,大雪で,親が懇意な猟師に聞けば,天狗党は今朝がた雪掻き分けて出立したと.
 あわてて村のはずれから、越前ごしの谷間の一本道を追ったらば、三尺ばかりの狭い雪道を、板ほどにも踏みしめた天狗党の足跡のなかに、馬沓の跡も残っとったと。
 ここまで追って来たからは、せめて斃馬の一頭でもと、耳たぶ握って走ったらば、目もくらむような崖っぷちの金具ん下に、
 「あった、あった」
推量どおり馬が落ちとったと。
はるか河原の雪の上に、ぴ-んと四つ足を空へ突っ張って、藁馬みたいにひっくり返ったは、深しあぐねた斃馬じゃったと。
 あたりに馬の荷が散らばって、崖の上から細引きが一本垂れたまんまのありさまは、馬を落した誰れぞが泡喰って崖の中途まで降りてはみたが,余りの高さに胆をつぶしてあきらめたな、と見てとったと。
 佐吉も切ない思いでな。
 この大雪の最中に四、五丈もある崖下の斃馬や荷物が拾えるはずも、運べるはずもなかったで。
 雪解けの春まで待っとっても、河原の斃馬は鳥やけものの餌食になって、残るは骨ばっかじゃ.
 ああ、この世はどいつもこいつもこのおれに、銭もうけさせんように出来とるわ、とな。
 あきらめも早いじんで、すぐさまその場から引き返したとよ。 途中、雪道に突き立ててあった槍の柄を拾ってな、かついで家へ戻ったが、戸口の隅の暗いところへ天びん棒と一緒に立てかけといたと。
 昭和のはじめにな。
 佐吉爺さんの三〇何回忌の法事をするとて親類一同が集まったと。
 戸口の隅を片づけとったら、爺さんの一つ話に聞いた槍の柄がほこりにまみれて出てきたと。
 越前の部落から嫁に来とったかかさが話を聞いて、
 「わしの姥さが娘のころ、仲間の娘と連れだって、海岸ばたの松原へ松ご掻きにいってな。
 熊手で松ごを掻いとったら、熊手の先きがにわかに重うなって動かなんだと。
 力をこめて引っばると、熊手の先きに髷がからんだ生首が二つも転がり出たとよ。
 にきで松ご掻いとった娘の熊手にも、また一つ生首がかかってな、こっちは髷が皮ごと抜けたんで、はずみを喰って尻もちつくやら、叫ぶやら、いずれの首も両眼を見開いて、泥のつまった口をばっくりあけとったと。
 べったり腰を抜かしたまんま震えながらも辺りを見廻したらば、数の知れんほど埋められた者の先が、まるで枯草を敷いたように砂の上でなびいとったとよ。
 娘二人はな、松原の俄作りの首打ち場の真ん中で、松ごを掻いとったんじゃと。それいらい、婆さはな、自分の髪の毛でさえ気分を悪うして、思い出すたんび熱を出したそうな」とな。
越前ごえした天狗党が、部落のにきの松原で一人残らず首打たれても、
そりや覚悟の上じゃで構わんが、この槍の柄の持ち主も覚悟さだめて死ねたじゃろか、なにも供養じゃと一同して、習い覚えた経をあげたと。


解説と考察

➀美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたり さんしょの意味は不明.せっぱくは切迫.傷病家畜の一部は獣医師の診断により切迫屠殺が可能である.と畜場法第九条 二 獣畜が不慮の災害により負傷し,又は救うことができない状態に陥り,直ちにと殺することが必要である場合. 三 獣畜が難産,産褥麻痺又は急性鼓張症その他厚生省令で定める疾病にかかり,直ちにと殺することが必要である場合. 四 遠洋航路を航行する船舶内・・・
②馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせ・・・穢多には斃牛馬の無料取得権がみとめられている.


③斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送った・・・なめし屋はこのほかに猟師からも動物の毛皮を手に入れている.なめし屋は原皮を水に浸して戻してから脳漿鞣を行った.この鞣方は古くからのもので1950年代頃まで行われていた.

浄場めぐり

浄場めぐり
 むかし、数ある部落のなかで四、五軒ばかりの部落では、仲間の人手が少ないうえに、年がら年じゅう近在の野良仕事やら山仕事にやとわれて、そればっかしの日暮らしでな。
 いつのまにやらしきたりの浄場はもとより、村場のつとめを受けかねて村々からの知らせがあれば、人手の多い部落につたえ、場銭をもらって肩がわりしたと。
 代官所でも山里なぞの数のすくない斃馬なんぞの扱いは、村から小言のでぬかぎり、見てみぬふりのありさまでな。
 これさいわいとあんきして、たとえその日の喰いぶちでも、決まった仕事の鋤、鍬とれば、目はしきかせてだれまわる浄場めぐりがうとましくなり、その余のことは放ってまって、雇われ百姓に執心したと。 肩がわりした部落では斃馬の出どこをたしかめて、仲間の浄場に相違はないか、大川なぞを渡らずに大八車ではこべるか、車のかよわぬ山奥ならば、皮だけもらって戻れるか。
 その地の村役の口ききで、始末のできる場があるか、なんぞを問いただしてな。間違いないかを見さだめたと。一頭分の斃馬なら二百三、四十貫はゆうにあったで、山坂ばかりの道のりならば、あんまり斃馬が大きいと、前でかじ棒がはねあがるのでな。荷台のしりに三本もの地づりを立ち高につけて、車の輪にははどめのころをつり、坂道くだる用心したと。
 たとえ日がえりの道のりであれ、浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだがな。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかったと。
 雨が降ろうと日照りであろうと、笠のかわりのほおかむり。手拭ででこにひさしをつくり、車をかこんだ七、八人が顔もあげんと押していったと。
 集めた皮はいのししや熊の毛皮とひとつにしてな。
 ちぢまぬように竹張りをかけ、大きな凧をならべたように、部落の小道に立てかけたり、塩づけにして貯めといて、なめしの部落へ運んで売ったと。
 雪の降る日に酒田の畦道で、行き逢うたのが馬連れの百姓でな。 部落の仲間が目八分で、沼田に片っぼの脛まで入れて、馬を避けたが避けだらなんだと。
 馬の胴っ腹で顔こすられたで、もう片っぽも踏みこんで、そのまま馬を通したが、両脚が抜けんで困っとったと。
 そしたら百姓が振り向いて
 「そこに、そのまま突っ立っとれ。案山子のかわりに使ってやるわ」
 と言いだくれたでな。
 仲間がすかさず言い返したと。
「お前が曳いとるのは浄場の馬じゃ、やがて死ぬまで預けとく」
 夕立ち雨が降っとるおりに、源弥さが家でのさこいとって、向こうの河原を眺めとったらば、百姓たちが馬曳いて通ったと。
 通ったわい思ったらば、またぞろ馬が曳かれていったと。
 この夕立にどこぞで馬市でも立っとるかやなと。そこで源弥さがお嬶言ったと。
 「お嬶、見よ。あの馬は一頭余まさず村場の馬じゃ。さすればわしらが預けた馬じゃ。わしらの身上を百姓が曳くわ」

解説と考察
 この一話で,穢多の斃牛馬取得のありさまを手に取るように見る事が出きる.少人数の部落では雇われ仕事で生計を営むようになり,本業の斃牛馬の取得は,その権利を他の大人数の部落に金銭で譲り渡している.
穢多が個人的に斃牛馬の取得が可能な場所がしきたりの浄場で,百姓の牛馬が死亡した場合は,定まった場所に捨てるように定められている.この場所を百姓の側では「ダブ」とか「牛・馬捨て場」と呼んでいる.また,西日本ではこの区域を「旦那場」とか「芝」とも呼んでいる.
しきたりの浄場は村はずれにあり,この場所から部落への斃牛馬の運搬は人力でも何とか可能である.しかし,他人の浄場は遠方にあるために,斃牛馬の運搬には様々な困難がつきまとう.近世の馬は小さいと言っても二百貫目以上の目方があり,男手八人は最低限必要となる.従って荷車も代八人の大型車・大八車である.大八車は小型の車力と混同される場合があるが,近世の家具・建具は荷台の広さが三尺・六尺あれば殆どの荷物は運搬が可能なように作られている.災害の多いわが国では,箪笥・長持はどんなに大きくとも竿で運べるように仕立てるのが指し物の常識であった.アルミサッシが使用される以前の戸・障子・襖は並みの家なら自転車のサイドカーで運べる程の量.大きな屋敷でも荷車・リヤカー一車程しかない.
一貫目は3.75kg.二百貫目は750kg.1tの荷重に耐える木製の荷車と言えば大八車である.この大八車も道の状況では通行出来ない場所が数多くある.川,山道など物理的に通行出来ない時と,積荷の種類・季節によって通行出来ない時がある.この様な場合は最寄の始末の出来る所に斃牛馬を運び,生皮を採って残りは穴に埋めた. 
『浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだ。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかった・・・』生皮を採取した斃牛馬は油を付けて焼却するとされているが,実際は食用に供した場合が少なくない.
鎌は縄・筵を切る道具で,剥皮・解剖に用いる刃物は出刃としている.先の尖った身の厚い出刃包丁を連想するが,出刃包丁で捌くのは魚・鳥程度で,大型の獣の皮を剥ぐのには適していない.現在でも剥皮は剥皮刀と呼ぶ薄身の両刃の刃物を使用している.使い勝手を考えれば剥皮に使用する刃物は出刃包丁よりも,馬繕いの爪きり包丁に似た刃物であろう.剥皮に続く解体では鋭い出刃包丁が便利である.
解体には・・・勝手な名称であるが,「猟師流」・「肉屋流」・「学者流」等の流儀がある.「猟師流」や「肉屋流」は腑分けの経験の蓄積から生まれたもので,「学者流」は明治以降の西洋獣医解剖学・病理解剖から派生したものである.いずれにせよ近世の馬医者は腑分けを行っていないから,解剖学的な知識がない.馬の胆の腑の患いと見立てて,「馬と鹿は胆の腑が足らぬ故に,足らぬ者を馬鹿と云う」と,知識を持つ者から馬鹿にされる.
学而不思則罔